目次
- 1 1. SPTBN5遺伝子とβVスペクトリン ─ 細胞膜の裏を支える「網目」の設計図
- 2 2. 巨大な構造の秘密 ─ スペクトリンリピートが「30個」もある
- 3 3. どこで働いているか ─ 体じゅうに、でも組織ごとに濃淡がある
- 4 4. TRPC4チャネルの制御 ─ 骨格でありながらシグナルにも関わる
- 5 5. スペクトリン異常症 ─ 一族の遺伝子が別々の神経疾患を起こす
- 6 6. 関連する神経発達症 ─ 2022年に初めて報告された症候群
- 7 7. 変異と病態メカニズム ─ 「変化=原因確定」ではない慎重さ
- 8 8. 聴覚と感覚神経 ─ マウスの研究が示した「意外な役割分担」
- 9 9. 検査と遺伝カウンセリングの実際
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
📍 クイックナビゲーション
細胞は、袋のように柔らかいのに簡単には壊れません。その強さとしなやかさを両立させているのが、細胞膜のすぐ裏側に張りめぐらされた「網目状の骨組み」で、その部品のひとつをつくるのがSPTBN5遺伝子(βVスペクトリン)です。βVスペクトリンはスペクトリン一族のなかでもとびぬけて大きな分子で、長らくヒトの病気との関係がはっきりしていませんでした。しかし2022年、この遺伝子の変化が知的障害・発達の遅れ・てんかんなどを特徴とする神経発達の障害と関連すると初めて報告されました。まれな遺伝子ですが、同じ「スペクトリン」の仲間はてんかんや失調症など複数の神経疾患の原因でもあり、SPTBN5を理解することは細胞骨格と脳のはたらきのつながりを理解することにもつながります。本記事では、この遺伝子の役割と、変化が見つかったときの受け止め方を、遺伝専門医がやさしく解説します。
Q. SPTBN5遺伝子とは何をする遺伝子ですか?まず結論だけ知りたいです
A. SPTBN5は「βVスペクトリン」という、細胞膜の裏側で骨組み(細胞骨格)をつくる巨大なタンパク質の設計図です。アクチンという繊維や細胞膜と結びつき、膜のすぐ下に強くしなやかな網をつくって、イオンチャネルなどの部品を正しい場所に配置します。2022年に、この遺伝子の変化が知的障害・発達の遅れ・てんかん・自閉症様の行動を特徴とする神経発達の障害と関連すると初めて報告されました。ただし巨大な遺伝子のため変化が見つかりやすく、「変化=原因確定」とは言い切れない点に注意が必要です。
- ➤基本の役割 → 細胞膜直下の細胞骨格の部品。アクチンと膜脂質をつなぎ、しなやかで強い網目をつくる
- ➤構造の特徴 → スペクトリンリピートが30個と例外的に多い「巨大スペクトリン」。ショウジョウバエのβHスペクトリンにあたる
- ➤関連する病態 → 知的障害・発達遅滞・てんかん・自閉症様行動・特徴的な顔つき。他のスペクトリン異常症で目立つ小脳や大脳の萎縮は目立たない
- ➤分子のパートナー → TRPC4というカルシウムなどを通すチャネルの結合相手として同定され、スペクトリン細胞骨格がTRPC4の表面発現と活性化の調節に関わる
- ➤解釈の注意点 → 巨大遺伝子ゆえに変化が蓄積しやすく、意義不明変異(VUS)になりやすい。頻度や遺伝形式を踏まえた慎重な評価が要る
🧬 SPTBN5遺伝子の基本情報
各項目の根拠と詳しい解説は、本文の該当セクションをご覧ください。
1. SPTBN5遺伝子とβVスペクトリン ─ 細胞膜の裏を支える「網目」の設計図
SPTBN5がつくるβVスペクトリンは、細胞膜のすぐ裏側に張られた網目状の骨組みの部品です。この骨組みが、細胞の形を保ち、外からの力に耐え、膜の部品を正しい場所に留める土台になっています。
スペクトリンは、ヒトを含むすべての多細胞動物の細胞に共通して存在するタンパク質の一族です。細胞膜のすぐ内側で、柔らかいのに簡単には破れない細胞骨格のネットワークをつくり、細胞の形の維持、機械的なストレスへの耐性、膜タンパク質(イオンチャネルや受容体)の配置、そしてシグナル伝達の足場として働きます。もともとは赤血球の膜の主成分として発見されましたが、その後、脳や腎臓など赤血球以外の組織にも同じ仲間のタンパク質が広く存在することが分かり、細胞生物学における普遍的な重要性が認識されるようになりました。
スペクトリンは、αサブユニットとβサブユニットが向き合って結合し、さらにそれが頭同士でつながって四つ組(テトラマー)として働きます。ヒトのゲノムには、αをつくる遺伝子が2つ(SPTA1・SPTAN1)、βをつくる遺伝子が5つ(SPTB・SPTBN1・SPTBN2・SPTBN4・SPTBN5)あります。このうちSPTBN5がつくるβVスペクトリンは、5つのβのなかでもとびぬけて大きな「巨大スペクトリン」です。
SPTBN5は第15番染色体の長腕(15q15.1)にあり、現在のNCBI RefSeqでは69個のエクソンから構成され、3,674アミノ酸という非常に大きなタンパク質をつくります[7][1]。この分子は2000年にヒトの網膜のcDNAから初めて同定され、ショウジョウバエで知られていた巨大なβHスペクトリンの哺乳類版(オーソログ)であることが示されました[3]。読者やご家族にとって大切なのは、この遺伝子が「特定の一臓器の専用部品」ではなく、体じゅうの細胞が共通して使う土台の部品だという点です。だからこそ、その変化が起きたときには複数の臓器に影響が及びうる、という見通しにつながります。
2. 巨大な構造の秘密 ─ スペクトリンリピートが「30個」もある
βVスペクトリンが巨大なのは、中央にある「スペクトリンリピート」という繰り返し部品が30個もあるためです。ふつうのβスペクトリンは17個ほどで、その差がこの分子の独自性を生んでいます。
スペクトリンの分子は、大きく3つの部分でできています。まずN末端(先頭)にあるのがアクチン結合ドメインで、2つのカルポニン相同(CH1・CH2)ドメインが並び、アクチンという繊維とじかに結びついて、スペクトリンの網をアクチン骨格につなぎ止めます。次に中央にあるのが繰り返し部品のスペクトリンリピートで、1つが約106個のアミノ酸からなり、3本のらせんが束になった構造をとります。この部分が引っぱられると伸び縮みし、分子にしなやかさを与えます。最後にC末端(末尾)にあるのがプレクストリン相同(PH)ドメインで、細胞膜の脂質と結びつき、巨大なスペクトリンの複合体を膜の内側に留めます。
💡 用語解説:スペクトリンリピートとは
スペクトリンリピートは、スペクトリン分子の胴体を構成する「同じ形のブロック」です。3本のらせんが1組の束になっていて、これがいくつも数珠つなぎになって長い棒状の分子をつくります。引っぱられるとブロックが少しずつほどけて伸び、力が抜けると元に戻る─いわば分子のバネです。βVスペクトリンはこのブロックが30個と例外的に多く、他のβスペクトリン(約17個)よりずっと長い分子になっています。長い分子は、細胞膜の特定の場所で独自の足場をつくると考えられています。
この「30個」という数は、βVスペクトリンが最初に同定されたときの報告で明確に示されています。ショウジョウバエなどで知られる巨大なβHスペクトリンも同じく30個のリピートを持ち、分子量は40万を超え、上皮細胞の頂端(アピカル)側の膜に結びつくことが知られていました[3]。哺乳類のβVスペクトリンはその仲間にあたります。線虫やショウジョウバエの上皮細胞では、ふつうのβスペクトリンが細胞の基底外側の膜に、巨大なβHスペクトリンが頂端側の膜に、というように場所を分担して、細胞の上下の極性(アピカル・バソラテラル極性)をつくり出しています。哺乳類ではこの厳密なすみ分けは一部失われていますが、βVスペクトリンの長大な構造が特定の膜領域で特殊な機械的環境を提供していることは変わりません。読者にとっての意味を言い換えると、βVスペクトリンは「細胞のなかで最も長い物差しのような足場」であり、その長さそのものが役割の鍵になっている、ということです。
3. どこで働いているか ─ 体じゅうに、でも組織ごとに濃淡がある
βVスペクトリンは全身の多くの組織で発現しますが、量には明確な濃淡があり、特に小脳・脊髄・網膜の視細胞・精巣・胃・心臓などで目立ちます。
遺伝子が最初に特徴づけられた研究では、SPTBN5は多くのヒト組織で低いレベルながら広く発現し、なかでも小脳・脊髄・胃・下垂体・肝臓・膵臓・唾液腺・腎臓・膀胱・心臓で発現が強いと報告されています[4]。とりわけ小脳では11〜12キロベースという長い転写産物が検出されました。また、ラットの網膜では視細胞(杆体・錐体)の外節に、胃では胃上皮細胞の細胞質に存在することが免疫染色で示されています[4]。神経系では、細胞体だけでなく軸索や神経突起にも配置され、ランヴィエ絞輪や軸索起始部(AIS)といった、神経の電気信号にとって重要な構造の形成に関わる可能性が示唆されています。
この「広く、でも濃淡がある」発現の仕方は、患者さんやご家族の症状を理解するうえで手がかりになります。ある遺伝子が脳だけでなく心臓や消化管でも使われていれば、その遺伝子の変化が神経の症状に加えて心臓の構造の違いや胃食道逆流といった他臓器の所見を伴っても不思議ではない、と見通せるからです。実際、次の章以降で見るように、SPTBN5に関連する神経発達症では神経の症状と同時にさまざまな身体的特徴が報告されています。
4. TRPC4チャネルの制御 ─ 骨格でありながらシグナルにも関わる
βVスペクトリンは、ただの静かな支柱ではありません。カルシウムなどを通すTRPC4というイオンチャネルの結合相手として同定されており、スペクトリン細胞骨格がTRPC4の細胞表面での発現や活性化を調節する仕組みに関わっています。
TRPC4は、上皮成長因子(EGF)などの刺激に応じて開き、カルシウムやナトリウムなどの陽イオンを通すチャネルです。このチャネルがきちんと働くには、細胞のなかのプールから細胞表面の膜へ移動し、そこで安定して留まる必要があります。ヒトのTRPC4のC末端側を手がかりにした研究で、TRPC4の結合相手としてαIIスペクトリンとβVスペクトリンの2つが同定され、生化学的な実験(プルダウンや共免疫沈降)でその結合が確認されました[5]。TRPC4側では、アミノ酸730〜758付近の「スペクトリン結合部位」がこの結合に必要であることも示されています[5]。
同じ研究では、細胞のαIIスペクトリンを人工的に減らすと、TRPC4の細胞表面での発現が下がり、EGF刺激による膜への挿入も起こらなくなることが示されました[5]。つまりスペクトリンの網は、チャネルを細胞膜まで運び、安定させる「配送と固定」の仕組みの一部として働いているのです。TRPC4が表面に正しく置かれなければ、そこから始まるカルシウムの流入とその下流のシグナルも進みません。この研究で細胞表面発現への機能的影響が直接検証された中心はαIIスペクトリンですが、βVスペクトリンもTRPC4の結合相手として確認されています。ここから見えてくるのは、βVスペクトリンを含むスペクトリン細胞骨格が構造の部品でありながら、イオンチャネルの配置やシグナル調節にも関与しうる、というダイナミックな一面です。
💡 用語解説:イオンチャネルと足場タンパク質
イオンチャネルは、細胞膜にあいた「ゲート付きの通路」で、開いたり閉じたりしてイオンの出入りを調節します。TRPC4はその一種です。一方、足場タンパク質は、こうした部品を正しい場所に集めて固定する「土台・骨組み」の役割を担います。スペクトリンは代表的な足場で、チャネルを膜まで運び、そこに留める手助けをします。イオンチャネルそのものの異常が起こす病気はチャネロパチー(イオンチャネル病)と呼ばれますが、足場側の異常も、間接的にチャネルの働きに影響しうるのです。
5. スペクトリン異常症 ─ 一族の遺伝子が別々の神経疾患を起こす
スペクトリン一族の遺伝子は、どれも変化するとそれぞれ特有の神経疾患を起こすことが分かってきており、まとめてスペクトリノパチー(スペクトリン異常症)と呼ばれます。SPTBN5はその新しい一員です。
近年、スペクトリンをつくる遺伝子群の機能不全が、次々と重い神経疾患と結びつけられてきました。たとえばSPTAN1(αIIスペクトリン)の変異は早期発症のてんかん性脳症や痙性の麻痺を、SPTBN2(βIIIスペクトリン)の変異は脊髄小脳失調症5型(SCA5)や常染色体潜性の小脳失調症(SPARCA1/SCAR14)を起こすことが知られています。SPTBN1・SPTBN4の変異も、知的障害や発達の遅れなどの神経発達の障害と結びついています。
一方で、赤血球型のSPTA1・SPTBは、変異すると遺伝性球状赤血球症などの赤血球の病気を起こします。同じ「スペクトリン」でも、どの遺伝子が、どの組織で主に使われているかによって、現れる病気がまったく違うのです。長らくSPTBN5だけはヒトの病気との明確な関連が見出されていませんでしたが、2022年の報告で、この遺伝子の変化も神経発達の障害と関連しうることが初めて示されました[1]。これによりスペクトリン一族は、赤血球の病気から神経の病気まで、幅広い疾患に関わる遺伝子グループとして位置づけられるようになっています。
6. 関連する神経発達症 ─ 2022年に初めて報告された症候群
2022年、パキスタンとイタリアの4家系から、SPTBN5に変異をもつ患者さんが報告されました。共通する特徴は、知的障害・発達の遅れ・行動の問題で、加えて特徴的な顔つきや身体的な所見を伴います。詳しい臨床像はSPTBN5関連神経発達症候群のページでも解説しています。
🔍 関連記事:SPTBN5関連神経発達症候群/知的障害の遺伝子検査/自閉症遺伝子検査
この研究では、全エクソーム検査(WES)を用いて4家系(家系A:パキスタン、家系B〜D:イタリア)の患者さんが調べられました[1]。共通してみられたのは、程度に幅のある知的障害(軽度〜重度)、発達の遅れ、攻撃的な傾向で、そこに顔つきや体の特徴の違い、自閉症様の行動、胃食道逆流などが加わりました[1]。各家系の主な特徴を整理すると次のようになります。
これらの症例から、SPTBN5に関連する神経発達症は、軽度から重度の知的障害、自閉症スペクトラム様の行動、そして特徴的な顔つきを伴いうることが示されました[1]。注目すべきは、SPTBN1やSPTBN4の変異でよくみられる小脳や大脳の萎縮が、SPTBN5の患者さんでは目立たなかった点です。ただし脳梁の異常は両方のグループで見つかっています[1]。また、てんかん発作の頻度も、他のスペクトリン関連疾患に比べて相対的に低い傾向がありました[1]。全員の染色体核型は正常で、家系B〜Dではarray-CGH(染色体マイクロアレイ)も正常でした[1]。ご家族にとっての意味を添えると、これは「同じSPTBN5の変化でも症状の重さや現れ方には幅がある」ということであり、一人ひとりの経過を丁寧に見ていく必要がある、という点につながります。
7. 変異と病態メカニズム ─ 「変化=原因確定」ではない慎重さ
報告された4つの変異は分子の別々の場所にあり、それぞれ違う仕組みで骨組みの働きを損なうと考えられています。ただし専門家からは、頻度の高さなどを理由に、病原性の判定には慎重さが必要だという指摘も出ています。
報告された4変異は、それぞれ次のように予測されています[1]。まずp.His89Proは先頭のアクチン結合ドメイン(CH1)にあるミスセンス変異で、構造の自由度が低いプロリンへの置き換えによりCH1の形が歪み、アクチンとの結びつきが弱まると予測されます。p.Tyr311Terは先頭近くのナンセンス変異で、タンパク質が途中で途切れ、スペクトリンリピートとPHドメインをすべて失うため、機能を大きく損なうと考えられます。残るp.Asn2937Tyrとp.Glu3262Lysは中央のスペクトリンリピート内にあり、単独ではタンパク質の立体構造を大きく壊さないものの、表面の性質(形や電荷)を変えることで、他の分子との相互作用やネットワークの動きに影響しうると予測されています[1]。
💡 用語解説:変異の「型」と読み方
ミスセンス変異はアミノ酸が1個別のものに置き換わる変化、ナンセンス変異はタンパク質を途中で止めてしまう変化です。とくにナンセンス変異のように機能を失わせる変化では、片方の遺伝子が働かなくなることで量が足りなくなるハプロ不全という状態が問題になることがあります。
大切なのは、こうした予測はあくまで「そうなりやすい」という見立てであって、実際に病気を起こすかどうかは別に確かめる必要がある、という点です。SPTBN5の報告でも、追加の機能実験が今後必要だと述べられています[1]。
この報告は、SPTBN5を新たな疾患関連遺伝子の候補として位置づける画期的なものでしたが、専門家からは慎重論も提起されています。あるコメンタリー論文は、スペクトリンのような巨大なタンパク質(2,300アミノ酸以上)は変異が蓄積しやすく、見つかった変化の病原性判定には非常に厳格な基準が要ると指摘しました[2]。特に p.Glu3262Lys と p.Asn2937Tyr については、一般集団のデータベース(gnomAD)でそれぞれヘテロ接合として24回、1,042回(さらに4回のホモ接合)観察されており、早期発症で重い症状を確実に起こす原因変異にしては集団内での頻度が高すぎるのではないか、との懸念が示されています[2]。
なお、原著論文のなかでも、これらの変化を「候補変異」として扱う記述と、変異の型やゼロ接合性の呼び方には一貫していない部分があり、確定した結論というよりは今後の検証を要する段階にあります。実際、in silico(コンピュータ上)の予測でも、p.His89Pro と p.Tyr311Ter は「有害」寄りに、p.Glu3262Lys は「良性」寄りに評価されるなど、変異ごとに評価が分かれています[1]。こうした食い違いは、まさに意義不明変異(VUS)を扱ううえで避けて通れない論点です。頻度が極めて低い変異は、親のDNA検査で真の新生変異(de novo)だと確認できれば疾患との因果は強く見なされますが、頻度が高い変化はそれだけでは原因と断定できません。患者さんやご家族にとっては、「変化が見つかった=原因が確定した」ではない、という受け止め方がとても重要になります。VUSの臨床上の扱いについてはVUS(意義不明変異)の臨床的取り扱いで詳しく解説しています。
8. 聴覚と感覚神経 ─ マウスの研究が示した「意外な役割分担」
βVスペクトリンをなくしたマウスでは、内耳の感覚細胞そのものの働きは正常でしたが、音の情報を脳へ伝える神経の線維が減っていました。感覚を「感じる」部分より「伝える」神経のほうに、この分子は効いているようです。
かつて、内耳の蝸牛にある外有毛細胞(音を増幅する感覚細胞)の膜の裏に、βVスペクトリンが存在するという報告があり、この分子が音の増幅(電気運動性)に関わるのではないかと考えられていました。そこでβVスペクトリンをつくれないようにしたマウス(Sptbn5ノックアウト)が調べられました[6]。その結果は意外なもので、聴覚の閾値も外有毛細胞の電気機械的な働きも正常でした。実際、外有毛細胞ではSptbn5のmRNAが検出できず、他のスペクトリンが主役を担っていると考えられます[6]。
ところが、聴性脳幹反応(ABR)の第1波の振幅は有意に低下し、音の情報を脳へ運ぶ神経の線維(求心性・遠心性)の数が減っていました[6]。Sptbn5のmRNAは、感覚細胞ではなく、それにつながるラセン神経節ニューロンに存在していました[6]。つまりβVスペクトリンは、感覚細胞そのものの機械的な働きよりも、感覚の情報を中枢へ伝える神経ネットワークの構築・維持に重要だと考えられます。この「感じる部分ではなく、伝える部分に効く」という役割分担は、SPTBN5が神経の配線に関わるという理解と符合し、ヒトの神経発達症の症状を考えるうえでも示唆に富みます。
9. 検査と遺伝カウンセリングの実際
SPTBN5を含む神経発達症の遺伝子検査は、単一の遺伝子だけを狙うのではなく、多数の遺伝子をまとめて調べる網羅的な検査のなかで見つかることがほとんどです。結果の解釈には、頻度や遺伝形式を踏まえた慎重な評価が欠かせません。
知的障害や発達の遅れの背景を調べるとき、原因となりうる遺伝子は非常に多く、これまでに700を超える遺伝子が関わると報告されています[1]。そのため、症状から遺伝子を1つに絞り込むよりも、全エクソーム検査(WES)のように多くの遺伝子を一度に調べる方法が用いられます。SPTBN5の最初の報告も、患者さんとご両親の3人を同時に調べるトリオ解析によって候補変異にたどり着きました[1]。症状の中心がてんかんであればてんかん包括的遺伝子検査、自閉症様の特性が前面に出ていれば自閉症遺伝子検査といったように、状況に応じた検査の組み立てが検討されます。
当院では、こうした検査の前後で臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合う内容は、検査で何が分かり何が分からないのか、結果がご本人やご家族にとってどのような意味を持つのか、そして結果を受けてどのような選択肢があるのか、といった点です。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人・ご家族であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担います。SPTBN5のように候補段階の遺伝子では、「今わかっていることの輪郭」と「まだ分かっていないこと」を分けてお伝えすることを特に大切にしています。
10. よくある誤解
誤解①「SPTBN5に変化があれば必ず発症する」
報告された変化の一部は、一般集団のデータベースにも一定の頻度で存在します。早期発症で重い病気の原因にしては頻度が高すぎるとの指摘もあり、変化が見つかること自体は発症を意味しません。多くは意義不明変異(VUS)として扱われます。
誤解②「小脳や大脳が必ず萎縮する」
SPTBN1やSPTBN4の異常では脳の萎縮が目立ちますが、SPTBN5の報告例では小脳・大脳の萎縮は目立ちませんでした。同じ「スペクトリン異常症」でも、画像所見は遺伝子ごとに異なります。脳梁の所見は両者でみられています。
誤解③「1つの遺伝子検査で原因が確定する」
知的障害の原因遺伝子は700以上あり、SPTBN5はそのなかの候補段階の1つです。変化が見つかっても、家族歴や他の所見と合わせて総合的に評価する必要があり、単独では原因と断定できないことがほとんどです。
誤解④「もう治療法が確立している」
SPTBN5に関連する神経発達症は報告されて日が浅く、この遺伝子を標的にした確立した治療法はありません。現在は症状に応じた支援やケアが中心です。まずは正確な診断と、ご本人に合った支援体制づくりが基本になります。
🧭 このページを読んだあなたへ
検査でSPTBN5の変化を指摘された方、これから神経発達症の遺伝子検査を考えている方、ご家族に知的障害や発達の遅れが見つかった方─それぞれ次に確かめるとよい観点は少しずつ違います。次のような点を、一つずつ整理していきましょう。
まず、その変化が意義不明変異(VUS)ではないか、ご両親の検査で新生変異(de novo)かどうかを確かめられるか。次に、症状の中心(てんかん・自閉症様特性・発達の遅れ)に応じてどの遺伝子検査が向いているか。そして、疾患そのものの経過や支援についてはSPTBN5関連神経発達症候群のページも参考になります。判断に迷うときは、遺伝カウンセリングで一緒に整理していくことができます。
よくある質問(FAQ)
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参考文献
- [1] SPTBN5, Encoding the βV-Spectrin Protein, Leads to a Syndrome of Intellectual Disability, Developmental Delay, and Seizures. Front Mol Neurosci. 2022. [PMC9248767]
- [2] Commentary: SPTBN5, encoding the βV-spectrin protein, leads to a syndrome of intellectual disability, developmental delay, and seizures. Front Mol Neurosci. 2022. [PMC9478934]
- [3] Identification and characterization of beta V spectrin, a mammalian ortholog of Drosophila beta H spectrin. J Biol Chem. 2000. [PubMed 10764729]
- [4] OMIM #605916. SPECTRIN, BETA, NONERYTHROCYTIC, 5; SPTBN5. Johns Hopkins University. [OMIM 605916]
- [5] The spectrin cytoskeleton influences the surface expression and activation of human transient receptor potential channel 4 channels. J Biol Chem. 2008. [PubMed 18048348]
- [6] Outer hair cell function is normal in βV spectrin knockout mice. Hear Res. 2022. [PubMed 35864018]
- [7] NCBI Gene: SPTBN5 spectrin beta, non-erythrocytic 5 [Homo sapiens]. Gene ID: 51332. [NCBI Gene 51332]



