目次
- 1 1. IRS1遺伝子とは ─ インスリンの合図を最初に受け取る「足場」
- 2 2. インスリンの合図が細胞に届くまで ─ IRS1の仕事の流れ
- 3 3. なぜ合図が届かなくなるのか ─ IRS1にかかる2つのブレーキ
- 4 4. IRS1とIRS2の役割分担 ─ 動物モデルが教えてくれたこと
- 5 5. Gly972Arg多型(rs1801278)をどう読むか
- 6 6. 糖尿病から血管・心臓へ ─ IRS1が弱ると連鎖して起こること
- 7 7. 脳とアルツハイマー病 ─ 「3型糖尿病」と呼ばれる理由
- 8 8. がんでのIRS1 ─ 「弱ると困る」の裏にある「強すぎても困る」顔
- 9 9. 遺伝子検査と遺伝カウンセリングの実際
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
📍 クイックナビゲーション
インスリンが「血糖を下げなさい」という合図を出しても、その合図を細胞の中まで運ぶ「最初の中継役」がいなければ、指令は届きません。その中継役の主役をつくるのがIRS1遺伝子(インスリン受容体基質1)です。IRS1は珍しい病気の遺伝子ではなく、2型糖尿病・アルツハイマー病・さまざまながんという、身近で大きな病気の分かれ道に共通して関わる「代謝の司令塔」です。ですからIRS1を理解することは、これらの病気が体の中でどうつながっているのかを理解することにもつながります。本記事では、IRS1が健康なときに何をしていて、うまく働かなくなると何が起きるのかを、遺伝専門医がやさしく解説します。
Q. IRS1遺伝子とは何をする遺伝子ですか?まず結論だけ知りたいです
A. IRS1は「インスリン受容体基質1」というタンパク質の設計図で、インスリンの合図を細胞の内側へ最初に受け渡す「足場(中継役)」をつくります。この中継がうまくいかないと、血糖を下げる指令が細胞に届きにくくなり、インスリン抵抗性という2型糖尿病の土台になります。同じ仕組みは脳(アルツハイマー病)でも働き、逆にがん細胞では過剰に使われて悪化を後押しすることが分かってきています。
- ➤基本の役割 → インスリン受容体からの合図を受け取り、PI3K/AktとMAPKという2本の下流経路へ橋渡しする足場タンパク質
- ➤壊れると → 骨格筋・脂肪でインスリン抵抗性が起こり、2型糖尿病・メタボリックシンドロームの土台になる
- ➤よく調べられる多型 → Gly972Arg(rs1801278)。機能研究ではインスリンの合図を弱めることが示されている一方、2型糖尿病との関連は集団研究で結果が一致しておらず、単独で発症リスクを予測できない、よく研究されている多型
- ➤脳との関係 → 脳内でのIRS1の機能不全はアルツハイマー病と関連し、研究・解説上「3型糖尿病」と表現されることがある
- ➤がんでの顔 → 一部のがんでは過剰にはたらき、進行や治療抵抗性を後押しする。新しい分子標的薬の開発対象
🧬 IRS1遺伝子の基本情報
各項目の根拠と詳しい解説は、本文の該当セクションをご覧ください。
1. IRS1遺伝子とは ─ インスリンの合図を最初に受け取る「足場」
IRS1は、インスリンの合図を細胞の内側へ受け渡す「最初の中継役」をつくる遺伝子です。この中継役があるからこそ、血糖を下げる指令が細胞の奥まで届きます。ここが弱ると指令が届きにくくなり、それがインスリン抵抗性の出発点になります。
IRS1は、Insulin Receptor Substrate 1(インスリン受容体基質1)の頭文字をとった遺伝子名です。この遺伝子は2番染色体の長腕(2q36.3)にあり、約1242個のアミノ酸からなる大きなタンパク質をつくります[1]。「基質(substrate)」という名前は、インスリン受容体という酵素によって加工(リン酸化)される相手である、という意味です。IRS1自身は酵素の力を持たず、いろいろな相手をつなぐ「足場(スキャフォールド)」として働きます。
💡 用語解説:足場(スキャフォールド)タンパク質とリン酸化
足場タンパク質とは、それ自身は反応を起こさないけれど、必要な部品どうしを同じ場所に集めて反応を進みやすくする「作業台」のようなタンパク質です。リン酸化とは、タンパク質の特定の場所にリン酸という小さな目印を付ける操作で、スイッチのオン・オフのように働きます。IRS1では、チロシンという場所への目印は「オン(合図を伝える)」、セリンという別の場所への目印は多くの場合「オフ(合図を止める)」の意味を持ちます。この付け方の違いが、あとで出てくるインスリン抵抗性のカギになります。
IRS1は骨格筋・脂肪・肝臓・血管・脳など全身の多くの組織で働いていて、エネルギーの状態、栄養、炎症、酸化ストレスといったさまざまな環境の情報を一手に受け止める「代謝のハブ(中継点)」として機能します[1]。だからこそ、この1つの遺伝子の調子が、糖尿病から認知症、がんまで、幅広い病気に影響しうるのです。ここで押さえておきたいのは、「IRS1という名前を検査結果や記事で見かけたら、それはインスリンの効きやすさに関わる中心的な遺伝子のことだ」と理解すれば十分だという点です。
たった1つの遺伝子ではなく「家族」で働く
IRS1には、IRS2からIRS6までの兄弟(パラログ)がいます。このうち代謝と成長の調節で中心を担うのはIRS1とIRS2の2つです[18]。両者は構造がよく似ていますが、体の中では完全に代わりを務めることはできず、組織ごとに役割を分担しています。この「似ているけれど代わりがきかない」という関係が、次の章で説明するように、糖尿病の起こり方を理解するうえでとても重要になります。
2. インスリンの合図が細胞に届くまで ─ IRS1の仕事の流れ
🔍 関連記事:受容体とは/タンパクとは/ホスファターゼと脱リン酸化
インスリンが細胞の表面にくっつくと、IRS1が受け取り役となり、そこから「糖をとりこむ指令」と「細胞を増やす指令」という2本の道に合図が分かれて流れていきます。IRS1はいわば、1本の入り口を2本の道へ振り分ける分岐点です。
もう少し詳しく見てみましょう。インスリンが細胞膜のインスリン受容体に結合すると、受容体が自分自身をリン酸化して活性化します。活性化した受容体は、IRS1のN末端側にある「PTBドメイン」という部分としっかり結合します[1]。こうして受容体のそばに固定されたIRS1は、今度は自分のチロシンという場所を次々にリン酸化されます。このリン酸化された場所が「ドッキングサイト(連結ポート)」となり、下流のさまざまな部品を呼び寄せるのです[1]。
IRS1から分かれる2本の道(遺伝子から始まる合図の流れ)
足場をつくる
合図を受ける
中継役になる
糖のとりこみ(GLUT4)・グリコーゲン合成・細胞の生存
遺伝子発現の調節・細胞の増殖
IRS1は1つの入り口を「代謝の道」と「増殖の道」の2本へ振り分ける分岐点です。糖尿病では代謝の道が特に弱り、がんでは増殖の道が悪用されます。
呼び寄せられる代表格がPI3K(ホスファチジルイノシトール3-キナーゼ)で、これがAkt(プロテインキナーゼB)を活性化し、糖を細胞にとりこむ輸送体(GLUT4)を細胞膜へ移動させ、血糖を下げます[1]。これが「代謝の道」です。もう一方の「増殖の道」はGrb2という部品を経てMAPK経路を動かし、主に細胞の増殖や遺伝子発現を担います[1]。ここで大切なのは、この2本の道は別々に強く/弱くなりうるという点です。糖尿病では代謝の道だけが選択的に弱ることがあり、これが後で述べる血管の障害につながります。

3. なぜ合図が届かなくなるのか ─ IRS1にかかる2つのブレーキ
🔍 関連記事:ホスファターゼと脱リン酸化/タンパクとは
IRS1には合図を弱める「ブレーキ」がいくつも備わっています。ふだんは合図を出しすぎないための安全装置ですが、肥満や慢性炎症があるとこのブレーキが効きすぎて、インスリン抵抗性が起こります。つまりインスリン抵抗性は「アクセルが壊れた」というより「ブレーキがかかりっぱなし」の状態に近いのです。
第1のブレーキはセリンリン酸化です。通常はインスリンで活性化したAktやmTORが、合図の出しすぎを抑えるためにIRS1のセリンという場所へ目印を付けます。ところが肥満・高脂肪食で血中の遊離脂肪酸やTNF-αなどの炎症性物質が増えると、JNKやPKCといったストレス由来のキナーゼが暴走し、インスリンとは関係なくIRS1のセリンを過剰にリン酸化してしまいます[1]。セリンリン酸化されたIRS1は受容体と結びつきにくくなり、さらに分解も進むため、合図がほとんど伝わらなくなります。これが「脂肪毒性」や「慢性炎症」によるインスリン抵抗性の中心的な仕組みです。
第2のブレーキは、近年発見されたS-ニトロシル化という修飾です。一酸化窒素(NO)をIRS1に付ける反応で、これを選択的に行う新しい酵素「SCAN(SNO-CoA補助ニトロシラーゼ)」が2023年に報告されました[3]。ふだんSCANはインスリンの合図を適度に止める生理的なブレーキですが、肥満になるとSCANの活性が上がり、IRS1が「付けすぎ(過剰ニトロシル化)」の状態になって強いインスリン抵抗性を招きます。実際に、SCANを持たないマウスは食事による糖尿病から守られることが示されており[3]、この経路は新しい治療の的として注目されています。
このほか、慢性的な高血糖では糖がIRS1に直接くっつくO-GlcNAc修飾が合図をさえぎり(糖毒性)、複数の分解酵素(E3ユビキチンリガーゼ)がIRS1そのものの量を減らすことも知られています[1]。ここで重要なのは、生活習慣(体重・食事・運動)がIRS1のブレーキの強さを左右しうるということです。遺伝子は変えられませんが、ブレーキのかかり具合には、日々の生活が関わっているのです。
4. IRS1とIRS2の役割分担 ─ 動物モデルが教えてくれたこと
IRS1とIRS2は似た兄弟ですが、担当が違います。IRS1は主に「体の成長」と筋肉での糖のとりこみ、IRS2は主に肝臓とインスリンをつくる膵臓の細胞を担当します。だから片方が欠けたときに起きることも、まったく違います。この違いは、「糖尿病」と一口に言っても中身は一様ではないことを理解する助けになります。
この役割分担を決定づけたのが、遺伝子を働かなくしたノックアウトマウスの研究です。1994年に報告されたIRS1ノックアウトマウスは、生まれる前後を通じて著しい成長遅延(子宮内での成長が約50%減少)を示し、軽いインスリン抵抗性も持っていました[4][5]。ところが重い糖尿病にはなりません。膵臓が代わりにインスリンをたくさん出して(代償性の分泌増加)、抵抗性を補うからです[5]。この事実は、IRS1が体の成長と筋肉での糖のとりこみの主役であることを証明しました。
💡 用語解説:ノックアウトマウスと「ヒトとの距離」
特定の遺伝子をわざと働かないようにしたマウスをノックアウトマウスと呼びます。遺伝子が「なくなると何が起きるか」を直接見られる強力な方法です。ただしマウスで起きたことがそのままヒトに当てはまるとは限りません。マウスで劇的な変化が出ても、ヒトでは別の遺伝子が補ったり、程度が軽かったりすることは珍しくありません。この距離感は、遺伝子の話を読むうえでいつも大切にしたい視点です。
対照的に、1998年に報告されたIRS2ノックアウトマウスは体の大きさはほぼ正常なのに、若くして重い2型糖尿病を発症します[6]。IRS2は肝臓でのインスリン作用の主役であると同時に、インスリンをつくる膵臓β細胞の発生・維持に欠かせません。IRS2が失われると、抵抗性を補うべきβ細胞が減ってしまい、インスリン分泌が足りなくなって糖尿病に至るのです[6]。つまり「IRS1が弱ると土台が傾き、IRS2が弱ると支柱が折れる」というイメージです。ヒトの2型糖尿病は、この両方の要素が程度の差で混ざり合って起こる多因子疾患です。
5. Gly972Arg多型(rs1801278)をどう読むか
IRS1でいちばんよく調べられている多型がGly972Arg(rs1801278)です。機能研究ではインスリンの合図をわずかに弱めることが示されています。一方、2型糖尿病そのものとの関連は集団研究で結果が一致しておらず、大規模メタ解析でも全体として有意な関連は確認されませんでした[16]。したがって、これ1つで発症が決まるものではありません。この多型を持っていても発症しない人は多く、単独で将来の糖尿病を予測することはできません。
この多型は、972番目のアミノ酸がグリシン(Gly)からアルギニン(Arg)に入れ替わるミスセンス変異です。ちょうどPI3Kを呼び寄せる大事な場所の近くにあるため、合図の伝わりが少し弱くなります。細胞を使った実験では、この多型を持つIRS1はインスリン依存的なPI3K活性が約36%、DNA合成(増殖)が約32%低下し、p85というPI3Kの部品との結合が約25%減ることが示されました[7]。
💡 用語解説:一塩基多型(SNP)とミスセンス変異
一塩基多型(SNP)とは、DNAの1文字だけが人によって違う、ありふれた個人差のことです。多くは無害で、私たちの体質の多様性そのものです。そのうち、タンパク質のアミノ酸が別のものに入れ替わるタイプをミスセンス変異と呼びます。ミスセンスでも影響がほとんどないものから、機能を少し変えるものまでさまざまで、Gly972Argは「機能を少し弱めるタイプ」に当たります。SNPについての詳しい解説はこちらをご覧ください。
この多型は膵臓β細胞でのインスリン分泌もわずかに低下させることが、細胞実験とヒトの研究の両方で確かめられています[8]。また、多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)や肥満との関連も報告されていますが、集団によって結果が食い違うことも多く、一律の結論は出ていません[9]。ここで大切なのは、「Gly972Argを持っている=糖尿病になる」ではないという点です。これは多数あるリスク要因のごく一部で、生活習慣や他の遺伝子と合わさって初めて意味を持ちます。もし体質検査などでこの結果を見かけても、それだけで将来を決めつけず、血糖・血圧・脂質など実際に測れる指標の管理を優先するのが現実的です。
6. 糖尿病から血管・心臓へ ─ IRS1が弱ると連鎖して起こること
IRS1の合図の弱まりは、血糖の問題だけにとどまりません。血管や心臓にも連鎖していきます。これは、糖尿病の合併症がなぜ血管に集中するのかを理解する手がかりになります。
健康な血管では、インスリンが血管内皮のIRS1/PI3K/Akt経路を通じて一酸化窒素(NO)をつくらせ、血管を広げ、動脈硬化を防いでいます[10]。ところが糖尿病やメタボリックシンドロームでは、第2章でふれた「2本の道」のうち、代謝の道(IRS1/Akt/NOの道)だけが選択的に弱り、増殖・炎症の道はむしろ保たれるという偏った抵抗性が起こります[10]。その結果、血管を守るNOが減り、血管が収縮しやすく、炎症や血栓が起こりやすくなって、動脈硬化や糖尿病性腎症へと進みます。
心臓でも同じことが起こります。冠動脈疾患や高血圧がなくても心筋がだんだん傷んでいく「糖尿病性心筋症」の背景には、IRS1シグナルの喪失によるエネルギー代謝の破綻があります。合図が弱ると、本来は核の外へ追い出されるべきFoxO1という転写因子が核内にとどまり、ミトコンドリアの働きを妨げてATP(エネルギー)産生を落とします[1]。心臓の燃料がグルコースから脂肪酸へ強制的に切り替わり、「代謝の柔軟性」が失われることで、活性酸素や脂肪毒性が増えるのです。この知見から分かるのは、「糖尿病は血管と心臓の病気でもある」という理解につながります。血糖の数値だけでなく血圧・脂質を含めた総合的な管理が大切にされる理由が、分子の視点からも裏づけられているのです。
7. 脳とアルツハイマー病 ─ 「3型糖尿病」と呼ばれる理由
🔍 関連記事:早発アルツハイマー病/アルツハイマー・認知症遺伝子検査
脳もインスリンの合図を使っており、IRS1はそこでも中継役を務めます。脳内でのIRS1の機能不全がアルツハイマー病と深く関わることから、研究・解説上、この病気が「3型糖尿病」と表現されることがあります。ただし「3型糖尿病」は正式な病名ではなく、糖尿病と脳のインスリン抵抗性の共通点を表す通称です。
かつて脳はインスリンと無関係と考えられていましたが、今ではIRS1を介した合図が記憶やエネルギー調節に欠かせないと分かっています。アルツハイマー病の脳では、mTORやJNKが過剰に働いてIRS1が異常にセリンリン酸化され(=第3章のブレーキがかかりすぎた状態)、合図がさえぎられます[11]。実際に、亡くなった患者さんの海馬などの脳組織を調べた研究では、セリンリン酸化されたIRS1が健康な人より著しく多く、その量が記憶や認知機能の低下と逆相関することが示されました[12]。アミロイドβという物質が炎症を介してこのブレーキを強めることも報告されています[12]。
この知見は「体の代謝の健康と脳の健康は地続きかもしれない」という見通しを与えてくれます。ただし、これは研究段階の理解であり、「糖尿病になれば必ず認知症になる」という単純な話ではありません。抗糖尿病薬をアルツハイマー病に応用する研究も進んでいますが[11]、まだ確立した治療ではない点にはご注意ください。なお、家族性のアルツハイマー病そのものの原因遺伝子はIRS1とは別であり、遺伝性が心配な場合は早発アルツハイマー病の解説もあわせてご覧ください。
8. がんでのIRS1 ─ 「弱ると困る」の裏にある「強すぎても困る」顔
ここまでは「IRS1が弱ると病気になる」という話でした。ところががんの世界では逆で、IRS1が強すぎる(過剰にはたらく)ことが問題になります。同じ遺伝子が、場面によって正反対の顔を見せるのです。
IRS1は細胞の増殖・生存の合図(第2章の「増殖の道」)を束ねる中継点でもあります。乳がん・大腸がん・肺がん・胆管がんなど多くのがんでIRS1の過剰発現が報告され、進行や治療抵抗性を後押しします[1]。たとえば胆管がんでは、IRS1が多いほど患者さんの生存期間が短く、IRS1を人工的に減らすとがん細胞の増殖・浸潤・幹細胞性・酸化ストレス抵抗性がそろって抑えられることが示されています[13]。ここでのIRS1は、守り役ではなく「悪化を後押しする役」に回っているのです。
この「がんを後押しする顔」を止める新しい薬の開発も進んでいます。IRS1は酵素の力を持たない足場タンパク質で、従来の「活性ポケットをふさぐ」タイプの薬が効きにくく、長く「創薬が難しい標的」とされてきました。そこで登場したのが、IRS1/IRS2およびSTAT3シグナルを標的とし、IRS1/IRS2を分解へ導く作用をもつNT219という低分子薬です。NT219は、①IGF-1受容体からIRSを引きはがし、②IRSをセリンリン酸化して、③プロテアソームで分解させる、という3段階でIRS1/IRS2を枯渇させ、同時にがんの生存に関わるSTAT3も抑えます[14]。頭頸部がんを対象にセツキシマブ(抗EGFR抗体)と併用した第1/2相試験(NCT04474470)では、初期の中間解析で50/100 mg/kg群7例中2例に部分奏効がみられ、約29%の奏効率が報告されました[15]。ただし少数例の初期データであり、有効性が確立した段階ではありません。その後も、NT219をペムブロリズマブまたはセツキシマブと併用する第Ib/II相試験(NCT06919666)が行われています[17]。
これは文献・研究動向に基づく専門的な解説であり、当院がこの治療を行っているという意味ではありません。がん薬物療法の実施主体はがん専門の医療機関です。この章で重要なのは、「1つの遺伝子でも、体の場所や状況によって役割が正反対になりうる」という遺伝子の奥深さと、その理解が新しい治療の入り口になっているという点です。
9. 遺伝子検査と遺伝カウンセリングの実際
🔍 関連記事:遺伝カウンセリングとは/臨床遺伝専門医とは/遺伝子検査とは
IRS1は、1か所調べれば病気が分かるタイプの遺伝子ではありません。単独ではなく、生活習慣や多数の遺伝子と合わさって初めて意味を持つ「多因子疾患の感受性遺伝子」です。ですから検査の位置づけを正しく理解することが、いちばん大切になります。
2型糖尿病のような多因子疾患は、単一の遺伝子検査で発症を予測できるものではありません遺伝形式のうち、こうした病気は「多因子遺伝」に分類され、多数の遺伝子のわずかな影響と環境が積み重なって起こります。一方で、若くして強い糖尿病を発症する場合などには、単一遺伝子が原因となる特殊なタイプ(MODYなど)が隠れていることがあり、その際は原因遺伝子を調べる検査が役に立ちます。IRS1を含む代謝関連遺伝子をまとめて調べたい場合には、糖尿病・肥満遺伝子検査(NGSパネル)のような複数遺伝子を一度に調べる方法もあります。
当院では、こうした検査の前後で臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合う内容は、検査で何が分かり何が分からないのか、結果がご本人やご家族にどのような意味を持つのか、そして結果を受けてどのような選択肢があるのか、といった点です。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担います。とくにIRS1の多型のように「持っていても大多数は発症しない」情報は、受け止め方次第で過剰な不安にも、過剰な安心にもつながりうるため、丁寧な説明が欠かせないと考えています。
10. よくある誤解
IRS1をめぐっては、情報がひとり歩きしやすい誤解がいくつかあります。ここで整理しておくと、検査結果や記事を落ち着いて読めるようになります。
📌 このページを読んだあなたへ
この記事にたどりついた方には、いくつかの状況が考えられます。たとえば、健康診断や体質検査でIRS1やGly972Argという名前を見かけて意味を知りたい方、ご家族に糖尿病が多く自分のリスクが気になる方、あるいは糖尿病と認知症・がんのつながりを知りたい方などです。次に確認するとよい観点を、いくつか挙げておきます。
・遺伝形式の理解:2型糖尿病は多因子遺伝であり、単一遺伝子で決まらないこと(遺伝形式の解説)
・多型の読み方:リスク多型は「傾き」であって「運命」ではないこと(SNPとは)
・検査の選択肢:複数遺伝子をまとめて調べる方法があること(糖尿病・肥満遺伝子検査)
・相談先:結果の意味を一緒に整理する場があること(遺伝カウンセリングとは)
よくある質問(FAQ)
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参考文献
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- [2] Deletion of IRS-1 leads to growth failure and insulin resistance with downregulation of liver and muscle insulin signaling in rats. Sci Rep. 2025. [PMC11711447]
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