目次
- 1 1. AKAP11遺伝子とは ─ 神経細胞のなかの「作業台」をつくる設計図
- 2 2. 発症リスク約7倍 ─ 大規模研究が突き止めた「効果の大きさ」
- 3 3. 足場としての役割 ─ PKA・PP1・GSK3βを束ねるシグナルの司令塔
- 4 4. なぜ「波」が起きるのか ─ AKAP11から考えられる分子的仮説
- 5 5. もう一つの顔 ─ オートファジー受容体としての掃除役
- 6 6. ニューロンだけではない ─ グリア細胞と脂質代謝の破綻
- 7 7. モデルマウスが再現する ─ 脳波と行動の異常
- 8 8. リチウムとの関係 ─ 治療薬の仕組みを読み解く鍵
- 9 9. 遺伝子検査と遺伝カウンセリングの実際
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
📍 クイックナビゲーション
心の病気の多くは「たくさんの遺伝子が少しずつ関わる」ため、原因を一つに絞れないのが常識でした。ところがAKAP11遺伝子は、その常識を破った例外です。この遺伝子が壊れると、双極性障害(そううつ病)と統合失調症との関連について、機能喪失型変異でオッズ比(OR)7.06という大きな効果が、約2万8千人規模の双極性障害研究を含む大規模解析で報告されました。しかもAKAP11は、この2つの精神疾患に共通する、これまでで最も効果の大きいリスク遺伝子のひとつです。本記事では、AKAP11がふだん脳の中で何をしているのか、なぜ壊れると心の不調につながるのか、そして治療薬リチウムとの意外な関係までを、遺伝専門医がやさしく解説します。
Q. AKAP11遺伝子とは何をする遺伝子ですか?まず結論だけ知りたいです
A. AKAP11は、脳の神経細胞のなかで複数の「シグナル伝達酵素」を1か所に束ねる“作業台(足場)”をつくる遺伝子です。この作業台があることで、興奮を伝える合図が必要な場所だけで正確に処理されます。AKAP11の機能が失われると、この交通整理が崩れ、双極性障害・統合失調症との関連でオッズ比(OR)7.06が報告されています。ただし変化を持つ人が必ず発症するわけではなく、あくまで確率が上がるという意味です。
- ➤発症リスク → 機能を失う変異で双極性障害・統合失調症との関連がOR 7.06。既知の精神疾患関連遺伝子のなかでも大きな効果
- ➤2疾患に共通 → 双極性障害と統合失調症の双方との関連が強く示されたリスク遺伝子
- ➤分子の役割 → PKA・GSK3βといった酵素を束ねる足場。さらに不要なタンパク質を片づける“オートファジー受容体”も兼ねる
- ➤治療との関係 → 双極性障害の治療薬リチウムが標的とするGSK3βを、AKAP11が直接制御している
- ➤遺伝カウンセリングの要点 → リスク遺伝子であって「発症の確定」ではない。浸透率は不完全で、現時点で臨床の単独検査は確立していない
🧬 AKAP11遺伝子の基本情報
各項目の根拠と詳しい解説は、本文の該当セクションをご覧ください。
1. AKAP11遺伝子とは ─ 神経細胞のなかの「作業台」をつくる設計図
AKAP11は、A-Kinase Anchoring Protein 11(Aキナーゼ係留タンパク質11)の頭文字をとった遺伝子名です。プロテインキナーゼA(PKA)という酵素を細胞内の決まった場所につなぎ止める「AKAPファミリー」の一員で、別名としてAKAP220とも呼ばれます。この遺伝子は13番染色体の長腕(13q14.11)にあり、約1,901個のアミノ酸からなる大きなタンパク質(約220 kDa)をつくります。脳のなかでは、記憶をつかさどる海馬、思考や判断に関わる大脳皮質、意欲や報酬に関わる線条体、情動に関わる扁桃体など、心のはたらきの中枢にあたる領域で広く働いています。
この「どこで働いているか」は、読者にとって大切な意味を持ちます。AKAP11が集中して働くのは、まさに気分・思考・意欲を司る脳領域です。だからこそ、この遺伝子が壊れたときに現れやすいのが、身体の奇形や知的障害ではなく、気分の波(そううつ)や思考のまとまりにくさといった「心の症状」なのだ、と理解できます。名前の難しさに気後れする必要はありません。要は「脳の中の交通整理役」だと押さえておけば十分です。
💡 用語解説:足場タンパク質(AKAP)とは
細胞のなかには、酵素という「働き手」が無数に浮かんでいます。ただ漂わせておくだけでは、必要な相手にすばやく合図を伝えられません。そこで、関係する酵素どうしを1か所に集めて固定する“作業台”の役目をするのが足場タンパク質です。AKAP11はその代表格で、合図を出す酵素(PKA)と、合図を止める酵素(ホスファターゼ)を隣り合わせに並べます。オンとオフの両方のスイッチを一つの台の上に置くことで、合図を狭い範囲だけで正確にコントロールできるのです。
2. 発症リスク約7倍 ─ 大規模研究が突き止めた「効果の大きさ」
結論から言うと、AKAP11の機能を失う変異は、双極性障害・統合失調症との関連についてオッズ比(OR)7.06という大きな効果が推定されています[1]。これは、これまで見つかった精神疾患の関連遺伝子のなかでも最大級の効果の大きさです。
この発見の土台になったのは、2022年に報告された国際共同研究です。双極性障害の患者13,933人と対照14,422人のエクソーム(遺伝子の設計図のうちタンパク質になる部分)を丸ごと読み解いたBipExという解析に、統合失調症の患者24,248人と対照97,322人を調べたSCHEMAという解析を組み合わせました[1]。この統合解析で、AKAP11は統計的に極めて確かなリスク遺伝子(P = 2.83 × 10⁻⁹)として浮かび上がったのです[1]。
それまで精神疾患の遺伝研究では、ゲノムワイド関連解析(GWAS)によって多数の「よくある変異」が見つかっていました。ただ、そのひとつひとつの効果は非常に小さく、病気の仕組みを直接説明したり、新しい薬の標的を示したりするには力不足でした。そこに登場したのが、ごくまれにしか存在しないかわりに効果が桁違いに大きい「超希少なタンパク質切断変異(PTV)」という考え方です。AKAP11は、その代表例として発見されました。
💡 用語解説:タンパク質切断変異(PTV)と機能喪失
タンパク質切断変異(PTV)とは、遺伝子の設計図の途中に「ここで終わり」という誤った合図が入り、タンパク質が途中までしか作られなくなる変化です。設計図が途中で切れるため、多くの場合そのタンパク質は正しく働けなくなります(機能喪失)。AKAP11の場合、こうした変異があると足場の役目が果たせなくなり、脳のシグナル伝達の交通整理が崩れる、と考えられています。
読者にとって重要なのは、この「OR 7.06」という数字の受け止め方です。OR 7.06は症例対照研究から得られたオッズ比であり、「変異があれば発症確率が7倍になる」「約7%が発症する」「7割が発症する」という意味ではありません。AKAP11のタンパク質切断変異を持つ人について、生涯の絶対発症確率や浸透率を精密に示せるデータは現時点では十分ではありません。この点は、次のセクション以降でくり返し確認していきます。
AKAP11のもうひとつの際立った特徴は、双極性障害と統合失調症という2つの疾患に共通して関連することです。現在までの大規模遺伝学研究では、AKAP11の超希少なタンパク質切断変異について、特に双極性障害・統合失調症との強い関連が示されています。この事実は、2つの病気が地続きの生物学的基盤を共有していることを強く示唆しており、GRIN2A遺伝子とともに、精神疾患の生物学を解き明かす手がかりとして注目されています。
3. 足場としての役割 ─ PKA・PP1・GSK3βを束ねるシグナルの司令塔
AKAP11のいちばん古典的な役目は、複数のシグナル伝達酵素を1か所に集める「作業台」です。読者の立場で言えば、この作業台が正しく組まれているかどうかが、脳内の合図が暴走せずに済むかどうかを左右します。ここでは、その作業台に並ぶ主な酵素を順に見ていきます。
まず中心にいるのがプロテインキナーゼA(PKA)です。PKAは、cAMPという細胞内の合図物質を受け取って、さまざまなタンパク質に「リン酸」という目印をつけ、その働きを切り替える酵素です。AKAP11はこのPKAを2か所でつかまえることができ、局所的な合図に対する反応を増幅する仕組みになっています。関連する遺伝子として、PKAの調節部分の設計図であるPRKAR1A遺伝子もあり、AKAP11はこの調節サブユニットと結合します。
さらにAKAP11は、リン酸の目印を外す消しゴム役の酵素、プロテインホスファターゼ1(PP1)とも結びつきます。合図をつける酵素(PKA)と消す酵素(PP1)を同じ台の上に並べることで、AKAP11はオンとオフを狭い範囲のなかで完結させる「シグナロソーム」という装置をつくります。この関係は、PP1の働きを調節するタンパク質群、PPP1Rの一部としても位置づけられます。
そして、精神科の視点から最も重要なのが、グリコーゲンシンターゼキナーゼ3β(GSK3β)という酵素との関係です。GSK3βは、シナプス可塑性(神経のつながりが強くなったり弱くなったりする性質)や神経の伸長を制御する要の酵素であると同時に、双極性障害の第一選択薬リチウムが狙う主要な標的でもあります[1]。この結びつきは古くから知られており、AKAP11(旧名AKAP220)がGSK3βと結合してPKA依存的にその働きを抑えることは、2002年の生化学研究で報告されていました[2]。
AKAP11に束ねられたGSK3βは、隣に置かれたPKAによってSer9という場所にリン酸をつけられ、その働きを強力に抑え込まれます。つまりAKAP11は、単にGSK3βを置いておくだけでなく、GSK3βの暴走を抑える最適な足場として機能しているのです。この一点を押さえると、なぜAKAP11の異常が、リチウムが効く病気(双極性障害)と深く結びつくのかが見えてきます。GSK3βという同じ酵素が、遺伝子側(AKAP11)と薬側(リチウム)の両方から制御される交差点になっているのです。
4. なぜ「波」が起きるのか ─ AKAP11から考えられる分子的仮説
双極性障害を理解するうえで大きな謎がありました。AKAP11の機能が生涯を通じて欠けているのに、なぜ症状は「ずっと同じ知的障害」ではなく、そう状態とうつ状態を周期的にくり返す「波」として現れるのか、という点です。この問いを考えるための概念的モデルの一つが「分子的ダム(Molecular Dam)」という考え方です。これは現時点で確立した発症機序ではなく、AKAP11が複数のシグナル分子を局所に配置する足場機能から提案されている仮説です。
健康な状態では、AKAP11はPKAやGSK3βを特定の狭い区画に閉じ込め、過剰な合図を堰き止める頑丈な「ダム」として働いています。AKAP11が半分に減っている(片方の遺伝子が機能を失っている=ハプロ不全の)人でも、安静時であれば残ったAKAP11や別の仕組みで、ほぼ正常に近い状態が保たれます。ここが「ふだんは大きな問題が出にくい」ことの説明になります。
強いストレス・睡眠不足・薬物刺激などに伴ってドーパミンやcAMPを介するシグナルが大きく変動したとき、AKAP11による局所的なシグナル制御の余裕が小さい細胞では、PKAやGSK3βを含む経路の調整が不安定になりやすい可能性があります。こうした局所シグナルの破綻が、気分状態の変化に関わる可能性が「分子的ダム」というモデルで提案されています。ただし、ストレスや睡眠不足からGSK3βの局在変化、さらにそう転・うつ転へ至る一連の因果関係がヒトで実証されたわけではありません。
💡 この仮説が読者にとって持つ意味
分子的ダムの考え方は、「なぜ調子の良い時期と悪い時期があるのか」という疑問を考えるための一つの概念モデルです。ふだんは保たれている均衡が、負荷がかかったときに崩れやすい——この見方は、睡眠や生活リズムを整えることが再発予防で重視される理由とも自然につながります。ただしこれはあくまで研究に基づく仮説であり、個々の患者さんの経過をこの一つのモデルだけで説明できるわけではない点には注意が必要です。
5. もう一つの顔 ─ オートファジー受容体としての掃除役
🔍 関連記事:オートファジーとは/シナプスとは/早発アルツハイマー病
AKAP11の役目は、酵素を並べる受け身の足場だけではありません。近年の研究で、AKAP11が不要になったタンパク質を分解へと積極的に運ぶ「オートファジー受容体」としても働くことが分かってきました[3]。読者にとってのポイントは、AKAP11が「並べる係」と「片づける係」を兼ねている点です。片づけが滞ると、脳内にゴミがたまり、それ自体が神経のはたらきを乱します。
💡 用語解説:オートファジーとは
オートファジーは、細胞が自分のなかの古くなった部品や不要なタンパク質を袋(オートファゴソーム)で包み込み、分解して再利用する「細胞のリサイクル工場」です。ここで大事なのは、何でも無差別に分解するのではなく、「これを分解して」と目印をつけて選ぶ仕組みがあること。その目印役の一つがAKAP11で、役目を終えたPKAの部品を選んで分解へ送り出します。
具体的には、AKAP11は自身のなかにあるLIRという目印を使って、分解用の袋の膜にあるLC3というタンパク質と直接結合します。そして、役目を終えたPKAの調節部品(RIα・RIβ型。RII型は対象外)を捕まえ、リサイクル工場へと運びます[3]。AKAP11を失った神経細胞では、この片づけの仕組みが根本から崩れ、不要なPKA部品が細胞のなかにたまります。その結果、シナプスでのPKAの働きが異常に高まり、多くのタンパク質が過剰にリン酸化されてしまうことが示されています[3]。この掃除役の破綻は、先ほどの「足場の破綻」と表裏一体で、AKAP11の異常がシグナルの乱れを二重に引き起こすことを意味します。
さらに、この片づけの仕組みは核のなかの遺伝子スイッチにもつながっています。2026年に報告された研究では、AKAP11がTFEB(オートファジー関連の遺伝子群をまとめて動かす司令塔)の活性化を支えていることが示されました[4]。AKAP11が失われるとTFEBが核へ移れなくなり、リサイクルに必要な遺伝子群の働きが全体的に低下します。その結果、毒性を持つタンパク質のかたまりが神経細胞にたまり、これが認知機能の低下につながる、という道筋です[4]。興味深いことに、この仕組みの乱れはアルツハイマー病の病態とも交差しており、AKAP11のタンパク質管理の破綻が、精神疾患と神経変性の両方に関わる共通の基盤かもしれない、と考えられ始めています[4]。
6. ニューロンだけではない ─ グリア細胞と脂質代謝の破綻
長らくAKAP11の研究は神経細胞(ニューロン)を中心に進められてきました。しかし2025年にbioRxivで公開されたプレプリントの多層的解析によって、脳を支えるもう一つの主役、アストロサイトというグリア細胞におけるAKAP11の重要な役割が明らかになりました[5]。これは、精神疾患を「神経細胞だけの病気」ではなく「神経細胞とグリアの協調の乱れ」として捉える、新しい見方につながります。
💡 用語解説:アストロサイトとは
脳には神経細胞のほかに、それを支えるグリア細胞と呼ばれる細胞があります。アストロサイトはその代表で、神経細胞にエネルギーを供給したり、シナプスに漏れ出た余分な神経伝達物質を回収したりして、神経回路の興奮の強さを細やかに調整しています。いわば脳の「裏方の管理人」で、この管理人が不調になると、神経細胞そのものは正常でも回路全体のバランスが崩れます。
AKAP11を失ったアストロサイトでは、コレステロールや脂肪酸をつくる経路が過剰に働き、細胞のなかに脂肪のかたまり(脂肪滴)が異常にたまることが確認されました[5]。詳しい脂質解析では、71種類もの脂質分子が有意に増えていたと報告されています[5]。この背景には、脂質の合成を統括する転写因子SREBF1の過剰な働きと、アストロサイト内でのcAMP/PKAシグナルの異常な持続があると考えられています[5]。
さらに重要なのは、この裏方の不調が神経細胞にも影響することです。変異アストロサイトと、ヒトのiPS細胞からつくった神経細胞を一緒に育てる実験では、AKAP11を失ったアストロサイトの存在下で神経細胞の興奮性の伝達が異常に強まり、回路全体が過活動になることが示されました[5]。双極性障害や統合失調症で見られる大脳皮質の過剰な興奮が、こうしたグリアの脂質代謝の不調に由来している可能性を、この知見は示唆しています。読者にとっては、「病気の舞台は神経細胞だけではない」という視点が、将来の新しい治療の入り口になりうる、という前向きな含意があります。
7. モデルマウスが再現する ─ 脳波と行動の異常
ヒトの遺伝学的な発見が「本当に脳の働きを変えるのか」を確かめるため、AKAP11を欠いたマウスが詳しく調べられてきました。結論として、これらのマウスは驚くほど高い再現性で、患者さんに見られる神経回路レベルの特徴を映し出します。ここが読者にとって重要なのは、「気のせい」や「性格の問題」ではなく、測定できる脳の変化として異常が現れることが示されている点です。
まず、意欲・報酬・精神病症状に深く関わる線条体という領域で、AKAP11の欠損は特に大きな影響を及ぼします。生きたマウスでPKAの活性をリアルタイムに測る研究では、線条体で基礎的なPKA活性が慢性的に高くなっていることが確認され、ドーパミンに対する過敏性が生じていました[6]。ドーパミンを放出させるアンフェタミンという薬を投与すると、変異マウスは異常に長く続く活動性の亢進を示し、これは精神病症状のモデルに合致します[6]。
さらに、動物と患者を橋渡しする客観的な指標として、脳波(EEG)が有用です。AKAP11変異マウスは、患者さんで臨床的に観測される複数の脳波異常を再現します。具体的には、安静時のガンマ波(速い脳波)の増大、音に対する脳の同調反応(ASSR)の減弱、予測外の音への反応(ミスマッチ陰性電位)の低下、そして睡眠紡錘波の遺伝子量に応じた減少などです[7]。同じ研究では、もう一つの統合失調症リスク遺伝子であるGRIN2Aのマウスも並行して調べられ、多くの脳波異常を共有する一方、睡眠紡錘波はAKAP11で減少・GRIN2Aで増加と逆方向になるという違いも見つかりました[7]。異なるリスク遺伝子が、共通点と相違点の両方を持つことが分かってきたのです。
これらの脳波異常は、脳全体のネットワークレベルでの協調の乱れを反映していると考えられ、いずれ患者さんを生物学的に分類(層別化)するためのバイオマーカーとして役立つ可能性があります。今はまだ研究段階ですが、「同じ診断名でも、背景にある脳の状態は人によって違う」という理解は、将来の個別化医療の出発点になります。
8. リチウムとの関係 ─ 治療薬の仕組みを読み解く鍵
AKAP11研究のなかで、当事者やご家族にとって最も希望につながるのが、双極性障害の第一選択薬リチウムとの関係です。すでに述べたとおり、AKAP11はリチウムの主要な標的であるGSK3βを制御しています。つまりAKAP11の異常とリチウムの効き方は、同じGSK3βという酵素の上で交差しているのです。
この関係を実際に確かめた研究があります。ヒトのiPS細胞からつくったAKAP11の片方を欠いた神経細胞に、治療で使う濃度のリチウムを持続的に加えると、機能喪失によって乱れていた遺伝子の働きが、正常な状態に部分的に戻る(レスキューされる)ことが報告されました[8]。リチウムが、AKAP11を欠くことで下がっていた重要な経路の働きを引き上げ、その一部は双極性障害・統合失調症の死後脳で報告されている変化とも重なっていた、という内容です[8]。
ただし、ここは冷静に受け止める必要があります。これは細胞を使った前臨床の研究であり、「AKAP11に変異がある人にリチウムが特によく効く」と臨床で確立したわけではありません。リチウムは以前から双極性障害に広く使われている薬であり、この研究はその効き方の一端をAKAP11の視点から説明したものです。とはいえ、遺伝子の情報をもとに「どの患者さんがどの薬から恩恵を受けやすいか」を考える手がかりになりうる点で、将来の個別化医療に向けた重要な一歩といえます。
同じ流れで、AKAP11欠損によるTFEBの不調に着目した治療の考え方も研究されています。TFEBの働きを回復させる化合物(TFEBアクティベーター)をマウスに投与すると、たまっていた毒性タンパク質が排除され、認知機能が改善したと報告されています[4]。症状を抑える従来の対症療法とは異なり、細胞のなかのタンパク質管理の乱れそのものに介入しようとする発想で、今後の展開が注目されます。いずれも研究段階であり、現時点でヒトの治療として確立したものではない点は、あらためて強調しておきます。
9. 遺伝子検査と遺伝カウンセリングの実際
🔍 関連記事:遺伝カウンセリングとは/ハプロ不全/浸透率
ここまで読んで、「では自分や家族のAKAP11を調べれば、発症するかどうか分かるのか」と気になった方も多いと思います。結論を先にお伝えすると、現時点でAKAP11単独を狙った臨床検査は確立しておらず、主に研究段階です。この事実を正しく知っておくことが、過度な期待や不安を防ぐ第一歩になります。
その理由は、これまで説明してきた性質から理解できます。まず、AKAP11はリスク遺伝子であって、発症を確定する遺伝子ではありません。片方の遺伝子が機能を失うハプロ不全でリスクは上がりますが、その浸透率は不完全で、変異があっても発症しない人が大多数です。つまり検査で変異が見つかっても、「必ず発症する」とも「絶対に発症しない」とも言えない、という結果になりがちなのです。
💡 用語解説:不完全浸透(浸透率が不完全)とは
不完全浸透とは、同じ変異を持っていても、発症する人としない人がいる状態を指します。AKAP11のようなリスク遺伝子はまさにこの典型で、変異は発症の「確率を上げる要因」の一つにすぎません。遺伝子の変化=運命ではない——この点が、遺伝子検査の結果を読むときにいちばん誤解されやすいところです。
また、集団による違いもあります。欧米のコホートで見つかった超希少なタンパク質切断変異は、中国の漢民族を対象とした研究では検出されず、かわりに別のアミノ酸置換を伴うミスセンス変異がいくつか報告されました[9]。この研究では統計的に有意な水準には達していませんでしたが、特定の変異の頻度や影響には集団ごとの個性があることを示しています[9]。こうした背景から、AKAP11に変化が見つかっても、多くは意義不明変異(VUS)として扱われるのが現状です。
当院では、遺伝子検査の前後で臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合う内容は、検査で何が分かり何が分からないのか、結果がご本人やご家族にどのような意味を持つのか、そして結果を受けてどのような選択肢があるのか、といった点です。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担います。とりわけAKAP11のように「リスクは上げるが発症を決めない」遺伝子では、数字の意味を丁寧に共有することが何より大切だと考えています。
10. よくある誤解
誤解①「AKAP11に変異があると必ず発症する」
AKAP11の機能喪失型変異についてOR 7.06という大きな関連が報告されていますが、これは症例対照研究から得られたオッズ比であって、個人の絶対発症確率を直接示すものではありません。浸透率は十分に確立しておらず、変異が見つかっても発症を確定することはできません。「変異あり=発症確定」という単純な図式は成り立ちません。
誤解②「双極性障害の原因遺伝子が判明した」
AKAP11は効果の大きいリスク遺伝子ですが、双極性障害・統合失調症はもともと多くの遺伝子と環境が関わる病気です。AKAP11の変異で説明できるのはごく一部の患者さんであり、「これですべてが解明された」わけではありません。
誤解③「検査すれば発症するか分かる」
現時点でAKAP11単独の臨床検査は確立しておらず、主に研究段階です。変化が見つかっても意義不明変異(VUS)となることが多く、発症予測に使える段階ではありません。
誤解④「もうAKAP11向けの治療薬がある」
リチウムによる部分的な回復や、TFEBアクティベーターによる改善は報告されていますが、いずれも細胞・動物実験の段階です。AKAP11を狙った専用の治療薬がすでに実用化されている、という事実はありません。
📌 このページを読んだあなたへ
この記事にたどり着いた方は、たとえば「ご自身やご家族が双極性障害・統合失調症と診断され、遺伝的な背景が気になっている」「研究のニュースでAKAP11を知り、遺伝の意味を知りたい」「これから遺伝について相談すべきか迷っている」といった状況かもしれません。
次に確認しておくとよい観点を挙げます。①この病気は多因子性で、AKAP11は数ある要因の一つにすぎないこと(双極性障害・統合失調症)/②リスク遺伝子と発症確定の違い(浸透率)/③血縁者への意味を整理したいとき(遺伝カウンセリング)。気になる点から読み進めてみてください。
よくある質問(FAQ)
🏥 遺伝性リスクと遺伝カウンセリングのご相談
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臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにご相談ください。
参考文献
- [1] Exome sequencing in bipolar disorder identifies AKAP11 as a risk gene shared with schizophrenia. Nat Genet. 2022. [Nature Genetics]
- [2] A-kinase anchoring protein AKAP220 binds to glycogen synthase kinase-3beta (GSK-3beta) and mediates protein kinase A-dependent inhibition of GSK-3beta. J Biol Chem. 2002. [J Biol Chem]
- [3] Bipolar and schizophrenia risk gene AKAP11 encodes an autophagy receptor coupling the regulation of PKA kinase network homeostasis to synaptic transmission. Nat Commun. 2025. [Nature Communications]
- [4] Schizophrenia and bipolar disorder risk gene AKAP11 sustains cognitive function by regulating TFEB-mediated autophagy. Cell Death Differ. 2026. [Cell Death Differ]
- [5] Abnormal Lipid Metabolism and Altered Neuronal Support by Astrocytes Lacking Akap11, a Risk Gene for Schizophrenia and Bipolar Disorder. bioRxiv. 2025. [bioRxiv]
- [6] Elevated synaptic PKA activity and abnormal striatal dopamine signaling in Akap11 mutant mice, a genetic model of schizophrenia and bipolar disorder. Nat Commun. 2025. [Nature Communications]
- [7] Mouse mutants in schizophrenia risk genes GRIN2A and AKAP11 show EEG abnormalities in common with schizophrenia patients. Transl Psychiatry. 2023. [PMC10011509]
- [8] Lithium partially rescues gene expression and enhancer activity from heterozygous knockout of AKAP11 while inducing novel differential changes. Sci Rep. 2025. [PubMed 41162554]
- [9] Associations of Rare Variants in the AKAP11 Gene with Bipolar Disorder in Chinese Population. Neuropsychiatr Dis Treat. 2025;21:1823–1830. [PMC12404207]



