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がん原遺伝子(プロトオンコジーン)とは?正常な働きと、がん遺伝子に変わる仕組み・最新の分子標的治療

仲田洋美 医師

この記事の監修:仲田洋美(臨床遺伝専門医・がん薬物療法専門医)

のべ10万人以上の意思決定に伴走。臨床遺伝専門医・総合内科専門医・がん薬物療法専門医として、遺伝性腫瘍の遺伝カウンセリングとがん薬物療法に長年従事。世界基準の遺伝医療を提供。

私たちの体をつくる約37兆個の細胞は、増えるべきときに増え、止まるべきときに止まるという精密なアクセルとブレーキの制御で成り立っています。そのアクセル役を担う正常な遺伝子が「がん原遺伝子(プロトオンコジーン)」です。ところがこのアクセルが「踏みっぱなし」で固定されると、細胞は際限なく増え、がんを駆動する「がん遺伝子(オンコジーン)」へと変わります。本記事では、KRAS・HER2・BRAFといった有名な遺伝子がどのようにがんを動かし、最新の分子標的治療がどのようにそれを止めるのかを、臨床遺伝専門医・がん薬物療法専門医がやさしく解説します。

この記事でわかること
📖 読了時間:約18分
🧬 がん遺伝子・分子標的治療・遺伝とがん
臨床遺伝専門医監修

Q. がん原遺伝子(プロトオンコジーン)とは何ですか?まず結論だけ知りたいです

A. がん原遺伝子は、細胞の正常な増殖・分化・生存を支える「正常なアクセル遺伝子」です。これが点突然変異・遺伝子増幅・染色体転座といった変化で過剰に働くと、がんを駆動する「がん遺伝子(オンコジーン)」に変わります。これらの変化の多くは生まれた後に体で生じる「体細胞変異」であり、原則として子どもに遺伝するものではありません。

  • 正体 → 細胞の増殖を促す正常な遺伝子。成長因子・受容体(RTK)・RAS/RAF・転写因子MYCなど4クラス
  • がん化の仕組み → 点突然変異・遺伝子増幅・染色体転座の3つで「踏みっぱなし」になる
  • 代表例 → KRAS・HER2・BRAF・ALK・MYC。多くのがんの「ドライバー(運転手)」
  • 最新治療 → 抗体薬物複合体(T-DXd)、KRAS G12C阻害薬、BRAF+MEK併用、MYC阻害ミニタンパク質
  • 遺伝との関係 → 大半は遺伝しない体細胞変異。ただし一部は遺伝性腫瘍にも関わり、遺伝カウンセリングが役立つ

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1. がん原遺伝子とは:細胞の正常な「アクセル」役

「がん原遺伝子」と聞くと、まるで“がんの種”のような怖い印象を受けるかもしれません。しかし実際はその逆で、がん原遺伝子は私たちが生きていくうえでなくてはならない正常な遺伝子です。米国国立がん研究所(NCI)も、がん原遺伝子を「細胞の正常な成長に関わる遺伝子で、変異が生じるとがん遺伝子(オンコジーン)に変わりうるもの」と定義しています[1]。細胞がいつ・どれだけ分裂するかを決める司令塔として、増殖・分化・細胞死(アポトーシス)の精密な調整を担っているのです。アポトーシス(プログラム細胞死)とのバランスを保つことも、その大切な役目のひとつです。

問題が起きるのは、このアクセル遺伝子が変異によって「踏みっぱなし」の状態に固定されたときです。正常な「がん原遺伝子(proto-oncogene)」が、増殖を暴走させる「がん遺伝子(オンコジーン)」へと変わると、細胞は制御を失って無秩序に増え続けます。ここで重要なのは、アクセル(がん遺伝子)の異常だけでがんになるわけではなく、ブレーキ役である腫瘍抑制遺伝子の故障とが重なって、はじめて本格的ながんが完成するという点です[14]

💡 用語解説:がん原遺伝子 と がん遺伝子(オンコジーン)の違い

がん原遺伝子(プロトオンコジーン)は、正常に働いているときの「健康な状態」のアクセル遺伝子です。一方がん遺伝子(オンコジーン)は、その遺伝子が変異などで活性化し、がん化を強力に押し進める「異常な状態」を指します。つまり同じ遺伝子の“before(正常)”と“after(活性化)”の関係です。重要なのは、がん遺伝子は片方のコピー(アレル)が活性化するだけで作用する「優性(顕性)」に働く点で、両方のコピーが壊れて初めて病気につながる腫瘍抑制遺伝子(劣性・潜性)とは正反対の性質を持ちます。

そしてもう一つ、患者さんが最も気にされる「これは子どもに遺伝するの?」という疑問。がんで見つかるがん原遺伝子の変異は、その多くが生まれた後に体の細胞で起こる「体細胞変異」であり、生殖細胞(精子・卵子)には及ばないため、原則として子孫には受け継がれません。詳しくは体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがいをご覧ください。なお遺伝するがん(遺伝性腫瘍)では一部のがん関連遺伝子が生殖細胞系列で受け継がれる例外もあり、この見極めこそが遺伝カウンセリングの大切な役割になります。

2. がん原遺伝子の4つのクラスと正常な働き

がん原遺伝子が作るタンパク質は、細胞の外から届いた「増えろ」というメッセージを、核の中の遺伝子のスイッチへと届ける一本のリレー(シグナル伝達カスケード)を構成しています。その働きと細胞内の場所によって、大きく4つのクラスに分けられます[2]。下の図は、このリレーの流れを表したものです。

がん原遺伝子の4つのクラスと増殖シグナルの流れ 細胞の外から核へ、一方向に伝わる「増えろ」の信号 成長因子(EGFなど) 細胞に「増えろ」と伝えるメッセージ物質 クラス① 受容体(RTK):HER2・EGFR 膜のアンテナ。シグナルを内側へ取り込む クラス② RAS(Gタンパク質):KRAS 細胞質の中継スイッチ(オン/オフ) クラス③ RAF → MEK → ERK:BRAF 信号を順番にバトンタッチするキナーゼ群 クラス③ 核内・転写因子:MYC 最終地点。遺伝子のスイッチを操作する クラス④ 各段階の遺伝子が「がん原遺伝子」です

成長因子→受容体(RTK)→RAS→RAF/MEK/ERK→核(MYC)という一方向のリレー。どの段階の遺伝子が暴走しても、最終的に「増えろ」の信号が出っぱなしになります。

クラス 代表例 正常な働き
①成長因子 EGF など 細胞の外から「増殖して」と伝えるメッセージ物質。がんでは自分で出して自分を刺激する“自己分泌ループ”を作ることがあります。
②受容体(RTK) HER2(ErbB-2)・EGFR 膜のアンテナ。成長因子と結合して内側へ信号を伝えます。増えすぎると刺激がなくても作動し続けます。
③細胞内シグナル KRASBRAFNRAS 受容体からの信号を細胞質で中継。RASはオン/オフを切り替えるスイッチ、RAF/MEK/ERKはバトンリレーの担い手です。
④転写因子 MYC(c-Myc・N-Myc) 核の中で遺伝子のスイッチを操作する最終地点。細胞周期や分化を一時的かつ厳密に制御します。

💡 用語解説:GTP-GDPスイッチ(RASのオン・オフ)

RASは「GTPアーゼ」という分子スイッチです。GTPという燃料が結合すると「オン(信号を流す)」、それを分解してGDPに変えると「オフ(信号を止める)」になります。正常なRASは、GAPという介添え役の助けでGTPをすばやく分解し、こまめにスイッチを切ります。ところが変異したRASはこの分解ができなくなり、オンのまま固まって信号を流し続けます。これがKRAS変異がんの本質です。

3. がん遺伝子への変化:3つの活性化メカニズム

正常ながん原遺伝子が、暴走するがん遺伝子に変わる道筋は、大きく3つのパターンに整理できます[3]。①遺伝子の設計図そのものが書き換わる「点突然変異」、②同じ遺伝子のコピーが増えすぎる「遺伝子増幅」、③遺伝子が別の遺伝子とくっつく「染色体転座」です。下の図でイメージをつかんでください。

がん遺伝子になる3つの仕組み ① 点突然変異 正常な遺伝子 1文字だけ書き換わる 例:KRAS ② 遺伝子増幅 1コピー コピーが何倍にも増える 例:HER2 ③ 染色体転座 別々の2遺伝子 2つが融合し別物に 例:BCR-ABL・EML4-ALK いずれも結果は同じ:アクセル(がん原遺伝子)が「踏みっぱなし」に固定される

①は設計図の1文字、②はコピー数、③は遺伝子のつなぎ替え。経路は違っても、行き着く先は「増殖シグナルの出っぱなし」です。

① 点突然変異:設計図の「1文字」が運命を変える

最も有名なのがKRASの点突然変異です。たった1か所のアミノ酸が入れ替わる「ミスセンス変異」で、RASは前述のGTP-GDPスイッチを切れなくなり、オンのまま固まって無制限の増殖信号を出し続けます[2]。KRAS変異は膵臓がん・大腸がん・肺腺がんなどに高頻度で見られる、まさに代表的なドライバー変異です。

💡 用語解説:ミスセンス変異(点突然変異の一種)

DNAのたった1文字(1塩基)が入れ替わり、タンパク質を構成するアミノ酸が別のものに置き換わる変異です。設計図の1文字が変わるだけでタンパク質の「形」や「スイッチの効き」が変わり、機能が暴走することがあります。詳しくはミスセンス変異の解説ページへ。なお、途中で設計図が途切れるナンセンス変異とは、結果として現れる影響が大きく異なります。

② 遺伝子増幅:コピーが増えすぎて量で押し切る

タンパク質自体は正常な形のままでも、その遺伝子のコピー数が異常に増えると、作られるタンパク質の総量が過剰になり、シグナル経路がパンクします。乳がんや胃がんで知られるHER2(ErbB-2)遺伝子の増幅がその典型で、受容体が細胞表面にびっしりと並ぶことで、外からの刺激がなくても勝手に作動するようになります[2]。量が増えること自体が問題(アップレギュレーション)になる、わかりやすい例です。

③ 染色体転座:別々の遺伝子がくっついて「別物」が生まれる

細胞分裂のときに染色体の一部が切れて別の染色体とつなぎ替わる「転座」が起こると、2つの遺伝子が合体して、本来は存在しない融合タンパク質(キメラタンパク質)が生まれることがあります[3]。慢性骨髄性白血病(CML)のBCR-ABL(9番染色体のABLと22番染色体のBCRの融合)はその古典例で、ABL本来の活性制御部分が外れることで暴走します。肺がんのEML4-ALK融合も同じ仕組みで、EML4のコイルドコイルドメインが二量体化を仲介してALKキナーゼを常時オンにします。

💡 用語解説:融合遺伝子・キメラタンパク質

2つの異なる遺伝子が転座でつながり、1本の遺伝子として読み取られてできる“合体タンパク質”です。ギリシャ神話の合成獣(キメラ)にちなんで「キメラタンパク質」とも呼ばれます。BCR-ABL(白血病)やEML4-ALK(肺がん)が代表で、いずれも本来の安全装置が外れて酵素活性が暴走します。詳しくは融合遺伝子の解説ページをご覧ください。

4. MYCとRAS:二大がん遺伝子の協調と代謝の書き換え

単一のがん遺伝子の変異だけで、本格的ながんになることはむしろ稀です。複数のがん遺伝子の活性化と腫瘍抑制遺伝子の故障がネットワークで絡み合って、はじめて細胞は“がん化の壁”を突破します。その中心にいるのが、核の中で働く転写因子MYCと、細胞質で働くGタンパク質RASという二大がん遺伝子です[4]

両者は働く場所も役割も違いますが、互いに緊密に協調します。詳細な解析では、MYCは活性化のごく早期(わずか1日)からDNA複製のストレスを引き起こすのに対し、RASは初期に爆発的な増殖を促した後、数日かけてエネルギー代謝そのものを書き換えることがわかっています[5]。本来であればこうした過剰なストレスは細胞老化やアポトーシス(自爆)の引き金になりますが、MYCとRASが手を組むと、これらの“安全弁”が無効化され、悪性化が完成してしまうのです[4]

さらに上流のHER2やEGFRといった受容体は、このRAS・MYCの活性化を支える土台になります。たとえばHER2の信号はMYCタンパク質の特定部位(Ser62)のリン酸化を強めて分解されにくくすることで、発がんを加速させることが乳腺腫瘍モデルで示されています[6]。一方、これにブレーキをかけるはずの腫瘍抑制因子PTENが多くのがんで失われているため、増殖シグナルは完全にブレーキを失った状態になります[14]

仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「発がんは無秩序な暴走ではない」という発見】

がん薬物療法に長く携わってきて、私が最も美しいと感じる知見のひとつが、この「がんは正常なプログラムのハイジャックである」という考え方です。がん細胞は、でたらめに暴れているのではありません。正常な細胞が持っている“増えろ”という設計図を、極めて論理的に乗っ取っているのです。

この視点が定着したことで、がん治療は「とにかく細胞を叩く」時代から、「どの遺伝子が運転手(ドライバー)なのかを見極め、そこを狙い撃つ」時代へと大きく変わりました。患者さんお一人おひとりのがんの“言葉”を読み解くことが、治療選択の出発点になっています。

5. 最新の分子標的治療①:HER2とKRAS

がん細胞は、暴走させたがん遺伝子に「依存」してしまう性質(オンコジーン中毒)を持つことがあります。この弱点を突くのが分子標的治療です。ここではまず、HER2とKRASという2つの代表例を見ていきます。

💡 用語解説:抗体薬物複合体(ADC)とバイスタンダー効果

抗体薬物複合体(ADC)は、がん細胞の目印(HER2など)に結合する「抗体」と、強力な「抗がん剤(ペイロード)」を、特殊なひも(リンカー)でつないだ“ミサイル型”の薬です。標的だけに薬を届けるので、正常細胞へのダメージを抑えられます。

バイスタンダー効果とは、ADCが運んだ抗がん剤が細胞の中で切り離されたあと、膜を通り抜けて隣のHER2が少ない(または無い)がん細胞まで巻き込んで攻撃する現象です。目印が乏しい細胞も“とばっちり”で倒せるのが強みです。

HER2に対する治療は、抗体薬トラスツズマブ(ハーセプチン)から始まり、いまやトラスツズマブ デルクステカン(T-DXd)というADCが大きな進歩をもたらしています。T-DXdはヒト化抗HER2抗体に、トポイソメラーゼ阻害剤(DXd)を切断可能なリンカーで結合させた薬で、上記のバイスタンダー効果によってHER2が少ししかない(HER2低発現)がん細胞にも効果を発揮します[7]。下のグラフは、HER2低発現の転移性乳がんを対象とした臨床試験(DESTINY-Breast04)の結果です。

T-DXd(トラスツズマブ デルクステカン)による生存期間の延長

DESTINY-Breast04試験・HER2低発現/ホルモン受容体陽性コホート(単位:月)

10.1
5.4
23.9
17.5

無増悪生存
T-DXd

無増悪生存
化学療法

全生存
T-DXd

全生存
化学療法

T-DXdは医師選択の化学療法と比べ、無増悪生存期間(PFS)を約2倍、全生存期間(OS)も延長しました。HER2をわずかしか持たない「HER2低発現」乳がんでも、HER2標的治療が有効だと示した歴史的な結果です。[7]

一方のKRASは、約40年もの間「薬が効かせられない(Undruggable)」標的とされてきました。タンパク質の表面に薬が結合する“くぼみ”が無く、燃料であるGTPとの結びつきが極めて強いためです。しかし2013年、不活性なKRASにだけ開く「スイッチIIポケット」が発見され、状況が一変します[9]。ここに共有結合するKRAS G12C阻害薬(ソトラシブ・アダグラシブ)が登場し、非小細胞肺がんで約37%の奏効率を示してKRAS阻害が現実になりました[9]

💡 用語解説:適応抵抗性(フィードバック再活性化)

同じKRAS G12C阻害薬でも、肺がんでは効くのに大腸がんでは効きにくい——これが適応抵抗性です。大腸がんでは、KRASを止めると上流のEGFRがすぐに再起動し、薬の効かない別ルートで増殖信号を“迂回”させてしまいます。そこで、KRASとEGFR(やSHP2)を同時に叩く併用療法が研究されています。詳しくは大腸がん(体細胞性)と遺伝子もご覧ください。

実際、大腸がんではソトラシブ単剤の奏効率は1割前後にとどまります。これはEGFRを介したフィードバック再活性化が原因で、阻害薬の影響を受けない正常型のRASを駆動してしまうためです[8]。経路の複数地点を同時に抑える「垂直的阻害」が、この壁を越える鍵になると示されています。

6. 最新の分子標的治療②:BRAF・ALK・MYC

🔍 関連記事:BRAF遺伝子RAFファミリー

BRAFはRASのすぐ下流で働くキナーゼで、メラノーマ・大腸がん・一部の肺がんなどでV600E(600番目のアミノ酸がバリンからグルタミン酸へ置換)という変異が高頻度で見られます。BRAF阻害薬は単独だと耐性が早く出るため、すぐ下流のMEKも同時に止める「二重阻害」が標準となり、生存期間が大きく改善しました。大腸がんではさらにEGFRも加えた強力な多剤併用(エンコラフェニブ+セツキシマブ+化学療法)が試験で高い奏効率を示し、2024年に米国で迅速承認されています[10]。なおV600EやV600Kといった典型例だけでなく、V600R等の非V600E/K変異でもBRAF/MEK併用が有効と示されつつあります。

ALKは、成人の正常組織ではほとんど働いていないため、これを止めても副作用が出にくい“狙いやすい標的”です[11]。非小細胞肺がんでは前述のEML4-ALK融合が代表的で、リアルワールド解析では融合の約8割をEML4-ALKが占める一方、DCTN1-ALKやKIF5B-ALKなど29種類もの稀な融合パートナーが存在することもわかってきました[12]。診断には免疫染色(IHC)・FISH・次世代シーケンサー(NGS)が組み合わせて使われ、近年はブレイクポイントまで詳細に読めるNGSが欠かせません。

💡 用語解説:本質的無秩序構造(IDP)と「創薬困難」

多くのタンパク質は決まった立体的な形を持ちますが、MYCは大部分が定まった形を持たない「本質的無秩序構造(IDP)」です。形が無いと、小さな薬がはまり込む“くぼみ”も無いため、長年「薬が作れない(Undruggable)」標的とされてきました。この常識を破ったのが、形ではなく“相棒との結合”を狙う新しい発想の薬です。

ヒトのがんの約7割に関わるとされる「マスターオンコジーン」MYCは、まさに最後のフロンティアでした。これを攻略したのがOMO-103(Omomyc)です。これはMYC自身のタンパク質を改変した90アミノ酸のミニタンパク質(ドミナントネガティブ型)で、MYCやそのパートナーMAXと結合して、MYCをDNAに結合できない不活性な形に閉じ込める“わな”として働きます[13]。第I相臨床試験では、重度に進行した固形腫瘍の患者に対して安全性が確認され、腫瘍の安定化など予備的な抗腫瘍活性も示されました[13]。タンパク質を分解へ導くPROTACという新技術も、MYC攻略の有力な切り札として注目されています。

💡 用語解説:PROTAC(タンパク質分解誘導)

従来の薬が標的の“働きを止める”のに対し、PROTACは標的タンパク質に「分解の目印(ユビキチン)」を付けさせて、細胞内のゴミ処理装置で丸ごと分解させる技術です。形にくぼみが無いMYCのような“つかみどころのない”標的でも、存在ごと消し去れる可能性があり、新しいモダリティとして急速に発展しています。

7. 新しい治療モダリティ:核酸・天然化合物・免疫

がん遺伝子への介入は、低分子薬や抗体だけにとどまりません。第一に、遺伝子の“メッセージ”であるmRNAを直接狙うアンチセンスオリゴヌクレオチド(ASO)。標的mRNAに相補的に結合してタンパク質への翻訳を止める短い核酸で、がんの遺伝子変化に合わせてカスタム設計できる薬として研究が進んでいます[15]。第二に、天然化合物の再評価です。クルクミンやゲニステインなどの成分が、腫瘍抑制因子p53を分解させてしまうMDM2の働きを邪魔して、失われたブレーキ機能を取り戻す方向で研究されています[14]

第三が、自然免疫を活性化するSTING経路を狙う免疫修飾薬です。これらは免疫チェックポイント阻害薬との併用で評価が進められており、がん細胞自体を叩くだけでなく、患者さん自身の免疫にがんを再認識させるという、新しい治療の方向性を示しています[15]。なお、これらの一部はまだ研究段階・臨床試験中であり、確立した標準治療ではない点にはご注意ください。

8. 遺伝学的診断・遺伝カウンセリングとの接続

分子標的治療の前提は、「どのがん遺伝子が運転手なのかを正しく調べること」です。ここで多くの方が混乱しやすいのが、「がんの遺伝子検査」と「遺伝するかどうかの検査」がまったく別物だという点です。

🧬 がん組織を調べる検査(体細胞)

KRASやHER2、BRAF、ALKなどの変異を腫瘍そのもので調べ、効く分子標的薬を選ぶための検査(コンパニオン診断・がん遺伝子パネル)。これは体細胞変異を見るもので、原則として子どもには遺伝しません。主にがん治療を行う医療機関で実施されます。

🛡️ 遺伝するリスクを調べる検査(生殖細胞系列)

家系に受け継がれる遺伝性腫瘍(遺伝性乳がん卵巣がん、リンチ症候群など)のリスクを、血液などで調べる検査。こちらは生殖細胞系列変異を見るもので、結果はご本人だけでなくご家族にも関わります。臨床遺伝専門医による遺伝カウンセリングが不可欠です。

本記事で扱ったKRAS・HER2・BRAF・MYCなどのがん遺伝子変異は、その大半が体細胞変異であり、これ自体が直接お子さんへ受け継がれるわけではありません。詳しくは体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがいをご覧ください。ただし、若くしてがんを発症した、血縁者に同じがんが多い、といった場合には遺伝性腫瘍の可能性を考える価値があります。当院では、こうした「遺伝するがんかもしれない」という不安に対し、臨床遺伝専門医が中立的な立場で情報を整理し、検査の意義や限界を一緒に考えるお手伝いをしています。

仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「うちもがん家系だから」という不安に向き合って】

遺伝性腫瘍の遺伝カウンセリングをしていると、「がん原遺伝子の変異が見つかった=家族みんなが危ない」と思い込んでこられる方が少なくありません。けれども、がんで見つかる遺伝子変異の多くは“その人のその腫瘍だけ”に起きた体細胞変異で、ご家族に受け継がれるものではない、というのが出発点です。

一方で、ごく一部には本当に家系に受け継がれるタイプもあります。大切なのは、その境目を正しく見極めること。検査を「受けるべき」「受けないべき」と私が決めるのではなく、ご本人とご家族が納得して選べるよう、事実を整理してお渡しするのが私の役割だと考えています。

9. よくある誤解

誤解①「がん原遺伝子=悪い遺伝子」

がん原遺伝子は正常で必要な遺伝子です。私たちが成長し、傷を治し、生きていくために欠かせません。問題は遺伝子の存在ではなく、それが変異で“踏みっぱなし”になることです。

誤解②「がん遺伝子が見つかった=必ず遺伝する」

がんで見つかる変異の多くは体細胞変異で、子どもには受け継がれません。遺伝するのは一部の遺伝性腫瘍に限られ、その見極めには遺伝カウンセリングが役立ちます。

誤解③「標的薬は一度効けばずっと効く」

がん細胞は別ルートを再起動させる適応抵抗性・耐性を獲得します。だからこそ、複数の地点を同時に叩く併用療法や、次世代の薬の開発が続いているのです。

誤解④「MYCのような標的は薬にできない」

かつては“創薬困難”でしたが、ミニタンパク質(Omomyc)やPROTACといった新発想で、転写因子の領域にまで治療の手が届き始めています。

よくある質問(FAQ)

Q1. がん原遺伝子とがん遺伝子(オンコジーン)は何が違うのですか?

同じ遺伝子の「正常な状態」と「異常な状態」を指す言葉です。正常に増殖を調整しているときががん原遺伝子(プロトオンコジーン)、変異などで活性化してがん化を押し進めるようになった状態ががん遺伝子(オンコジーン)です。アクセルが正常に踏める状態と、踏みっぱなしで固定された状態の違いとイメージするとわかりやすいです。

Q2. がん原遺伝子の変異は子どもに遺伝しますか?

がんで見つかるがん原遺伝子の変異は、その多くが生まれた後に体の細胞で生じる体細胞変異であり、精子や卵子には及ばないため、原則として子どもには遺伝しません。ただし、ごく一部には家系に受け継がれる遺伝性腫瘍もあります。気になる場合は体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがいをご覧ください。

Q3. KRASやHER2の検査はミネルバクリニックで受けられますか?

腫瘍そのものを調べて分子標的薬を選ぶ「コンパニオン診断・がん遺伝子パネル(体細胞)」は、主にがん治療を行う医療機関で実施されます。当院は遺伝性腫瘍(生殖細胞系列)の遺伝カウンセリングと遺伝学的検査を専門としており、「このがんは遺伝するタイプか」を見極めるご相談を承っています。必要に応じて適切な医療機関へのご案内も行います。

Q4. がん原遺伝子と腫瘍抑制遺伝子はどう違うのですか?

がん原遺伝子は細胞増殖の「アクセル」、腫瘍抑制遺伝子は「ブレーキ」です。アクセルは片方のコピーが活性化するだけで暴走しますが(優性・顕性)、ブレーキは両方のコピーが壊れて初めて効かなくなります(劣性・潜性)。本格的ながんは、アクセルの暴走とブレーキの故障が重なって完成します。詳しくは腫瘍抑制遺伝子の解説へ。

Q5. 分子標的薬はなぜ「効かなくなる(耐性)」のですか?

がん細胞は、止められた経路の代わりに別ルートを再起動させて増殖信号を迂回させるためです。たとえばKRASを止めると上流のEGFRが再活性化する「適応抵抗性」が知られています。これを防ぐため、経路の複数地点を同時に叩く併用療法や、耐性変異にも効く次世代薬の開発が進められています。

Q6. なぜ正常な体に「がんの原因になりうる遺伝子」があるのですか?

がん原遺伝子は本来、細胞が増えたり成熟したりするために絶対に必要な遺伝子だからです。胎児の発生や傷の治癒、免疫の働きなど、生命活動の土台を支えています。これらが偶発的な変異で“踏みっぱなし”になったときに、はじめてがんの引き金になります。つまり「がんの種」ではなく、「使い方を誤ると危険になる必須の道具」と理解するのが正確です。

Q7. MYCのような「創薬困難」な標的にも、本当に薬はできるのですか?

はい、近年大きく前進しています。MYCは決まった形を持たない「本質的無秩序構造」のため小分子薬が作りにくかったのですが、MYC由来のミニタンパク質Omomycが第I相試験で安全性と予備的な活性を示しました。さらに、標的を丸ごと分解させるPROTAC技術も有力で、これまで不可能とされた転写因子への治療開発が現実味を帯びています。

Q8. 「ドライバー遺伝子」と「がん原遺伝子」は同じ意味ですか?

近い概念ですが少し異なります。ドライバー遺伝子は、そのがんの増殖を実際に“運転”している遺伝子を指す言葉で、活性化したがん原遺伝子(KRASなど)も、故障した腫瘍抑制遺伝子も含まれます。つまり「がん原遺伝子の活性化」はドライバーの一形態です。一方、ただ乗っているだけで増殖には関与しない変異は「パッセンジャー」と呼ばれます。

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参考文献

  • [1] Definition of proto-oncogene. NCI Dictionary of Cancer Terms, National Cancer Institute. [NCI]
  • [2] Oncogenes. The Cell, NCBI Bookshelf. [NBK9840]
  • [3] Mechanisms of oncogene activation. Holland-Frei Cancer Medicine, NCBI Bookshelf. [NBK12538]
  • [4] The Myc and Ras Partnership in Cancer: Indistinguishable Alliance or Contextual Relationship? PMC. [PMC7501217]
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  • [7] Clinical Review: Trastuzumab deruxtecan (Enhertu) — DESTINY-Breast04. NCBI Bookshelf. [NBK599780]
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  • [11] ALK-Targeted Therapy: Resistance Mechanisms and Emerging Precision Strategies. PMC. [PMC12731652]
  • [12] Real-World Outcomes of ALK Fusion Types and Treatment Patterns in ALK-Positive NSCLC. Tempus. [Tempus]
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  • [14] Tumor Suppressor Genes. The Cell, NCBI Bookshelf. [NBK9894]
  • [15] Therapeutic Antisense Oligonucleotides in Oncology: From Bench to Bedside. PMC. [PMC11394571]

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仲田洋美 医師(臨床遺伝専門医)

この記事の監修・執筆者:仲田 洋美

(臨床遺伝専門医/がん薬物療法専門医/総合内科専門医)

ミネルバクリニック院長。1995年に医師免許を取得後、 臨床遺伝学・内科学・腫瘍学を軸に診療を続けてきました。 のべ10万人以上のご家族の意思決定と向き合ってきた臨床遺伝専門医です。

出生前診断(NIPT・確定検査・遺伝カウンセリング)においては、 検査結果の数値そのものだけでなく、 「結果をどう受け止め、どう生きるか」までを医療の責任と捉え、 一貫した遺伝カウンセリングと医学的支援を行っています。

ハイティーンの時期にベルギーで過ごし、 日本人として異文化の中で生活した経験があります。 価値観や宗教観、医療への向き合い方が国や文化によって異なることを体感しました。 この経験は現在の診療においても、 「医学的に正しいこと」と「その人にとって受け止められること」の両立を考える姿勢の基盤となっています。

また、初めての妊娠・出産で一卵性双生児を妊娠し、 36週6日で一人を死産した経験があります。 その出来事は、妊娠・出産が女性の心身に与える影響の大きさ、 そして「トラウマ」となり得る体験の重みを深く考える契機となりました。 現在は、女性を妊娠・出産のトラウマから守る医療を使命の一つとし、 出生前診断や遺伝カウンセリングに取り組んでいます。

出生前診断は単なる検査ではなく、 家族の未来に関わる重要な意思決定です。 年齢や統計だけで判断するのではなく、 医学的根拠と心理的支援の両面から、 ご家族が後悔の少ない選択をできるよう伴走することを大切にしています。

日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医/日本内科学会認定 総合内科専門医/ 日本臨床腫瘍学会認定 がん薬物療法専門医。 2025年には APAC地域における出生前検査分野のリーダーとして国際的評価を受け、 複数の海外メディア・専門誌で特集掲載されました。

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