目次
おなかの調子は「脳が命令している」と思われがちですが、実際には腸そのものに、脳とは別に働く神経のネットワークが張りめぐらされています。それが腸管神経系(enteric nervous system/ENS)です。ENSは「第二の脳」と呼ばれることもありますが、正確には、脳や脊髄、自律神経、腸内細菌、免疫細胞などと連携しながら消化管を調節する、独立性の高い分散ネットワークです。この記事では、ENSの構造や成り立ち、働きから、ヒルシュスプルング病やパーキンソン病といった病気との関わり、そして幹細胞を使った最新の再生医療の研究までを、遺伝医学との接点も含めて解説します。
Q. 腸管神経系(ENS)とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. 腸管神経系(ENS)とは、食道から肛門までの消化管の壁の中にある、ニューロン(神経細胞)とグリア(支持細胞)からできた自律的な神経ネットワークのことです。脳や脊髄から切り離されても、腸の壁で局所の反射をつくり、ぜん動運動・分泌・血流などを自分で調節できます。ヒトのENSにはおよそ2億個のニューロンがあると見積もられ、「第二の脳」と呼ばれることもあります。ただし完全に独立しているわけではなく、脳・自律神経・腸内細菌・免疫と連携して働きます。ENSの発生には神経堤(しんけいてい)という細胞が深く関わり、その異常はヒルシュスプルング病などの病気につながります。
- ➤正体 → 消化管の壁の中にある、ニューロンとグリアからなる自律的な神経ネットワーク
- ➤なぜ「第二の脳」か → 脳から切り離されても局所反射で腸を動かせるほど独立性が高いから
- ➤どう作られるか → 神経堤由来の細胞が腸を長距離移動して形づくる。RET・SOX10などの遺伝子が関わる
- ➤病気とのつながり → ヒルシュスプルング病(発生異常)、パーキンソン病、炎症性腸疾患、過敏性腸症候群など
- ➤最新の治療研究 → 幹細胞を使ってENSを作り直す再生医療が、動物や患者組織で進みつつある
🧬 腸管神経系(ENS)の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方・別名 | ちょうかんしんけいけい/enteric nervous system(ENS)。「第二の脳(second brain)」とも呼ばれる |
| 場所 | 食道から肛門管まで、消化管の壁の中にほぼ連続して存在する |
| 主な構成 | ニューロン(神経細胞)と腸管グリア。ヒトでニューロンは概算約2億個とされる |
| 2つの神経叢 | 筋層間神経叢(アウエルバッハ神経叢/運動制御)と粘膜下神経叢(マイスナー神経叢/分泌・血流) |
| 主なはたらき | ぜん動運動・分泌・血流・上皮機能・免疫の局所調節 |
| 医療との関わり | ヒルシュスプルング病・パーキンソン病・IBD・IBSなどと関連。幹細胞治療の研究対象 |
※本記事は一般の方と遺伝診療に関わる方の両方に向けた用語解説です。特定の検査を勧めるものではありません。

図:腸管神経系(ENS)の構造・発生・機能と関連疾患。ENSは腸壁の粘膜下神経叢と筋層間神経叢を中心に形成され、ニューロンや腸管グリアなどが腸管運動、分泌、血流、バリア機能、免疫を調節します。ENSの大部分は発生期に神経堤由来細胞から形成され、この過程の異常はヒルシュスプルング病などにつながります。失われたENSを幹細胞などで再構築する研究も進められていますが、現時点では主に前臨床・ex vivo研究の段階です。
1. 腸管神経系(ENS)とは ─ 「第二の脳」の正体
腸管神経系(ENS)は、消化管の壁の中にあるニューロンとグリアからできた神経のネットワークです。最大の特徴は、その自律性の高さにあります。脳や脊髄との連絡を切り離した状態でも、ENSは腸の壁の中だけで反射回路をつくり、食べたものを先へ運ぶぜん動運動や、消化液の分泌、血流の調節、腸の粘膜の働きなどをみずから制御できます[1]。この「脳がなくても腸が動く」という性質から、ENSは「第二の脳」と呼ばれるようになりました。
ただし、「第二の脳」という言葉はENSの独立性をやや強調しすぎている面もあります。現在の理解では、ENSは孤立した小さな脳ではなく、迷走神経や骨盤の副交感神経、交感神経、脊髄・迷走神経の感覚経路、腸内細菌、腸内分泌細胞、免疫細胞、間質細胞、腸の上皮と密につながった、統合的な「神経−グリア−免疫−上皮ネットワーク」として捉えるほうが正確です[1]。腸は脳と一方的に命令される関係ではなく、たがいに情報をやり取りする双方向の調節関係にあります。
💡 用語解説:ニューロンとグリア
ニューロンとは、電気信号を伝える神経細胞のことです。一方のグリア(グリア細胞)は、長らくニューロンを支える「脇役」と見なされてきましたが、現在では信号伝達や免疫、腸のバリア機能の調節にも関わる重要な細胞だと分かってきています。ENSでは、この2種類の細胞が協力して腸を動かしています。
ヒトのENSには、概算で約2億個のニューロンがあると見積もられており、腸管グリアはその数倍にのぼると推定されています。ただし、これらの細胞数は組織をどう採取し、どう数えるかによって値が変わるため、あくまで概数として理解してください[1]。それでもこの数は、脊髄に含まれる神経細胞の数に匹敵するとも言われ、ENSがいかに大規模なネットワークであるかがうかがえます。
近年、ENSの研究は大きく様変わりしました。かつては、細胞の形と、どんな神経伝達物質を使うかという「神経化学」に基づいて、ニューロンを十数種類に分類していました。ところが、1個ずつの細胞の遺伝子発現を読み解く単一細胞RNA解析や、細胞の位置情報を保ったまま遺伝子を調べる空間トランスクリプトーム解析が進むと、ENSの細胞は想像以上に多様で、しかもマウスとヒトで単純に一対一対応しないことが明らかになってきました[2]。2020年にはヒトとマウスのENSを単一細胞レベルで比べた地図(アトラス)が発表され、この分野の理解は一気に深まりました[2]。
2. ENSの構造 ─ 2つの神経叢と多様な細胞
ENSは食道から肛門管までほぼ連続して存在しますが、場所によって神経のかたまり(神経節)の密度や構造が違います。中心となるのは、2つの神経叢(しんけいそう)と呼ばれる神経のネットワークです。まず、その位置関係を図で見てみましょう。
筋層間神経叢(アウエルバッハ神経叢)
1つめは筋層間神経叢(きんそうかんしんけいそう/アウエルバッハ神経叢)です。腸の壁には、縦方向の筋肉(縦走筋)と輪のように取り巻く筋肉(輪走筋)の2層があり、この神経叢はその間にはさまれるように位置します。おもに腸を動かす運動の制御を担当しており、食べたものを口側から肛門側へ送り出すぜん動運動の中心的なコントローラーです[1]。
粘膜下神経叢(マイスナー神経叢)
2つめは粘膜下神経叢(ねんまくかしんけいそう/マイスナー神経叢)です。腸の内側の粘膜に近い層にあり、消化液の分泌、栄養の吸収、局所の血流、粘膜の反応と強く結びついています。ヒトのような大型の哺乳類では、この粘膜下神経叢が内側と外側の複数の層に分かれて発達しているのが特徴です[1]。なお、食道や胃では腸に比べて粘膜下の神経節が少なく、筋層間の神経系が優勢になっています。
ニューロンは、はたらきの面から見ると、腸の伸び具合や内容物を感じ取る感覚ニューロン(IPAN)、信号を中継する介在ニューロン、筋肉を収縮・弛緩させる運動ニューロン、分泌や血管を調節するニューロンなどに分けられます。ただし、この「はたらきによる分類」は、最新の単一細胞解析で見えてくる「遺伝子発現による分類」と、きれいに一対一で対応するわけではありません[3]。2025年のマウスの研究では、遺伝子発現の異なるニューロン集団をねらって操作すると、便の排出量・便の水分・食べる量など別々のはたらきが変化することが示され、遺伝子による分類が実際の機能の違いを表していることが裏づけられ始めています[3]。
腸管グリアも、かつて思われていたような均一な「支持細胞」ではありません。グリアは神経節の内部、神経線維の束、筋層、粘膜など複数の場所に存在し、カルシウムイオンの信号を介してニューロンの活動や神経伝達、腸のバリア機能、免疫応答を調節しています[1]。2026年に発表されたマウスの研究では、粘膜のグリアと筋層のグリアで遺伝子発現や機能が異なること、そして筋層の一部に濃く存在するタンパク質(TACR3)を介したシグナルを操作すると、グリアの集団形成や腸の運動が変化することが実験的に示されました[4]。グリアを一様な脇役とみなすモデルは、はっきりと過去のものになりつつあります。
3. ENSの発生 ─ 神経堤細胞の長い旅
ENSがどのように作られるかは、遺伝診療とのつながりを理解するうえでとても大切です。ENSの大部分は、神経堤(しんけいてい)という胚の一部から生まれる神経堤由来細胞(ENCC)が、消化管の口側から肛門側へ向かって長い距離を移動しながら作り上げます[5]。この細胞は、移動しながら増殖を続け、適切なタイミングでニューロンやグリアへと分化し、さらに軸索を伸ばして神経のかたまり(神経節)を形づくります。
💡 用語解説:神経堤細胞(ENCC)
神経堤細胞とは、胚の発生の初期に、将来の脳や脊髄になる部分の縁(へり)にあらわれ、体のあちこちへ移動していく特別な細胞です。ここから、皮膚の色をつくる細胞、顔の骨、末梢神経、そして腸の神経(ENS)など、実にさまざまな組織が生まれます。神経堤の異常でまとめて起こる病気は神経堤病変(ニューロクリストパチー)と総称され、ヒルシュスプルング病もその一つに位置づけられます。
大切なのは、「腸に神経細胞が存在する」だけでは正常なENSとは言えない、という点です。細胞の密度、ニューロンのサブタイプの比率、空間的な配置、神経と筋肉のつなぎ目、シナプス(神経のつなぎ目)の機能まで、すべてが正常化して初めて、腸はきちんと動きます[5]。この「連続した過程のどこか一つでもつまずくと病気になりうる」という考え方は、後で述べる再生医療のむずかしさにも直結します。
ENSの発生を支える遺伝子とシグナル
神経堤細胞の旅を支えているのが、いくつかの重要な遺伝子とシグナル経路です。なかでも中心的な役割を果たすのがRET(レット)という遺伝子です。GDNFというタンパク質がGFRα1という受け手を介してRETという受容体を活性化すると、細胞の中で増殖や移動、分化を促す信号が流れます。2013年のマウス研究では、このシグナルの強さそのものが細胞の状態を変えることが示されました[6]。信号が弱いときは細胞は未熟なまま移動を続け、信号が強くなると神経への分化が進みます。GDNFは単なる「増殖因子」ではなく、時間と場所に応じた濃度で、移動と分化を巧みに切り替えるスイッチとして働いているのです[6]。
もう一つ重要なのがEDN3−EDNRBという経路です。これは特に腸の肛門側(後腸)で、神経堤細胞の増殖や未分化な状態の維持に関わり、RET/GDNFの経路と協力して、腸のいちばん奥まで神経を行きわたらせる(完全なコロナイゼーション)ことを可能にします[5]。さらに、SOX10は神経堤・グリア系の細胞のアイデンティティを保ち、PHOX2Bは自律神経系の系譜を方向づけます。これらに加えてNotch、BMP、レチノイン酸、SHH、Wntといった多くのシグナルが、場所と時期に応じて作用します。こうした複数の遺伝子ネットワークが少しずつ関与するため、後で述べるヒルシュスプルング病は「多くの遺伝子が関わる(多遺伝子性の)」病気になるのです[5]。
💡 用語解説:多遺伝子性(たいでんしせい)
1つの遺伝子だけで発症が決まる病気(単一遺伝子疾患)とは違い、複数の遺伝子の変化や体質、環境などが組み合わさって起こりやすくなる性質を「多遺伝子性」や「多因子性」といいます。ヒルシュスプルング病は、RETという主要な遺伝子に加えて、EDNRBやSOX10など多くの遺伝子が関わることが知られています。遺伝の伝わり方や再発の可能性を考えるうえで、この違いはとても重要です(遺伝形式について)。
起源については、注意が必要な論点もあります。長年のモデルでは、迷走神経のあたりの神経堤が大部分を、仙骨(せんこつ)のあたりの神経堤が肛門側の一部を供給すると考えられてきました。しかし2024年のマウスを使った厳密な細胞系譜の追跡研究では、調べたマウスのENSは迷走神経堤に由来すると説明でき、仙骨神経堤からの直接の寄与は検出されませんでした[7]。これは古い実験を見直させる重要な結果ですが、種の違いを越えて「ヒトでも仙骨からの寄与はゼロ」と結論づける根拠にはならず、現在も研究が続く進行中の論点です[7]。ヒトの胎児を対象とした2023年の研究では、妊娠の半ばごろにENSの空間構造と腸の運動パターンが段階的に成熟していくことも示されており、細胞の性質だけでなく機能の成熟にも時間差があることが分かってきています[8]。
🩺 院長コラム【「原因遺伝子が一つ」とは限らない】
遺伝性の病気というと、「一つの遺伝子が壊れて起こる」というイメージを持たれる方が少なくありません。しかしヒルシュスプルング病のように、RETという中心的な遺伝子がありながら、その周りに多くの遺伝子が関わって発症の起こりやすさが決まる病気もあります。同じ遺伝子の変化があっても発症する人としない人がいるという現象は、不完全浸透や修飾因子を含む遺伝医学の重要な考え方とつながっています。
遺伝子の情報を読むときは、「一つの答え」ではなく「複数の要因の重なり」として捉える視点が欠かせません。ENSの発生をめぐる研究は、そのことをあらためて教えてくれます。
4. ENSの神経伝達と運動 ─ 腸はどうやって動くのか
腸が食べたものを先へ送り出すしくみは、19世紀末に「腸の法則(law of the intestine)」として記述されました。腸のある場所が内容物で伸ばされると、その口側が収縮し、肛門側がゆるむことで、内容物が肛門側へ押し出される、という基本パターンです[9]。現在の回路モデルでは、感覚ニューロン(IPAN)が伸びを感じ取り、そこから上り方向・下り方向の介在ニューロンへ信号が分かれて伝わります。そして口側ではアセチルコリンやタキキニンを使う興奮性の運動ニューロンが筋肉を収縮させ、肛門側では一酸化窒素(NO)・プリン・VIPを使う抑制性の運動ニューロンが筋肉をゆるめます[9]。
ただし、実際の腸の動きは、この一本の反射だけで起きているわけではありません。腸の壁には、リズムをつくり出すカハール介在細胞(ICC)、PDGFRα陽性細胞、平滑筋からなる「SIPシンシチウム」と呼ばれる仕組みがあり、これらの筋肉自身が生み出す電気的なリズム(slow wave)と、ENSからの神経入力とが組み合わさって、腸の運動が生まれます[1]。つまり、ENSは腸の運動の唯一の指揮者ではなく、複数の細胞が協力するオーケストラの重要なパートの一つ、というイメージです。
💡 用語解説:セロトニン(5-HT)と「常識」の見直し
腸の粘膜には、セロトニン(5-HT)という神経伝達物質を多く含む細胞があります。かつては「粘膜のセロトニンがぜん動運動を始める絶対的なスイッチ」と考えられていました。しかし遺伝学的・薬理学的な研究で、粘膜のセロトニンを大きく減らしても基本的なぜん動運動が残ることが分かり、現在は「必須のスイッチ」ではなく「重要な調節役(モジュレーター)」と位置づけるのがより正確だと考えられています[10]。
神経伝達のしくみも、単純な「一物質=一作用」ではありません。同じ物質でも、細胞の種類や腸の場所によってはたらきが変わります。長らく「ENSの速い興奮性の伝達はほぼアセチルコリンが担う」と教科書的に説明されてきましたが、2025年のマウス研究では、グルタミン酸を使う介在ニューロンが腸の運動に因果的に関わることが示されました[11]。これはアセチルコリンの役割を否定するものではなく、介在回路の情報処理には、より多様な神経伝達物質の組み合わせがある、ということを付け加える成果です[11]。さらに2025年には、栄養素の種類ごとに小腸のENSニューロンが異なる活動パターンを示すことも報告され、ENSが単に「伸びたら動かす」だけでなく、腸の中身の化学的な情報を細かく読み取っている可能性が強まっています[12]。
5. ENSと腸内細菌・免疫 ─ 双方向のやりとり
ENSを理解するうえで欠かせないのが、腸内細菌や免疫細胞との関係です。ENSは「神経回路の外側に免疫系がある」のではなく、免疫細胞を回路の一部として扱う必要があるほど、両者は密接に結びついています。ニューロンやグリアはサイトカインの受容体などを備え、免疫細胞は神経伝達物質やニューロペプチドを感じ取ります[13]。腸内細菌がつくる短鎖脂肪酸や胆汁酸、細菌の成分は、複数の経路を通じてENSに届き、逆にENSは運動・分泌・バリア・免疫を介して、腸内細菌の住みかである環境そのものを変えます。つまり両者の関係は一方通行ではなく、多方向のフィードバックなのです[13]。
興味深いのは、腸内細菌がENSの発生や成熟そのものに影響するという証拠です。2014年の研究では、細菌にさらされるかどうかの違いが、マウスの出生後のENS発達に影響することが報告されました[14]。さらに2018年の研究では、無菌状態で育った成体のマウスに通常の腸内細菌を定着させると、ENSの形態や腸の通過時間が成熟し、その過程がセロトニンと5-HT4受容体に依存することが示されました[15]。これは「ENSは生まれる前に完成し、その後は固定される」という古い見方を否定する、重要な結果です。
免疫との具体的なつながりも、動物実験で次々と示されています。2021年の研究では、ENSのニューロンがつくるIL-6というタンパク質を操作すると、腸の免疫のバランスを取る制御性T細胞(Treg)の数や性質が変わることが分かり、ニューロンから免疫への直接的な調節軸が明らかになりました[16]。また同じく2021年、寄生虫の感染モデルで、腸管グリアがインターフェロンγ(IFNγ)を感知して腸の免疫や組織修復を制御することが示されました[17]。この結果は、グリアを単なる「ニューロンの栄養係」から、免疫や組織修復を担う信号処理細胞へと位置づけ直す転換点になりました[17]。
6. 脳腸軸 ─ ストレスが腸に伝わるしくみ
「脳と腸はつながっている」という話は、いまや広く知られるようになりました。この脳腸軸(のうちょうじく)のしくみにも、ENSが深く関わっています。2023年のマウスの研究では、慢性的な心理的ストレスが、グルココルチコイド(ストレスホルモン)に依存する形で、腸のグリアやニューロンのプログラムを通じて腸の炎症や運動異常を悪化させることが示されました[18]。つまりENSは、脳から腸へ炎症の信号を中継する「脳→腸のリレー」として働きうる、ということです[18]。ただし、この分子レベルのしくみが、ヒトの炎症性腸疾患の患者で同じだけの影響力を持つかどうかは、まだ確立していません。
💡 「相関」と「因果」は分けて考える
腸内細菌や脳腸軸の研究では、「関連がある(相関)」ことと「原因である(因果)」ことを区別するのがとても大切です。無菌動物などを使った実験では原因と結果を確かめられますが、ヒトでは食事・便通・薬・年齢・炎症・病気そのものが腸内細菌のバランスを変えてしまいます。そのため、病気の人とそうでない人で菌の種類が違っても、それだけでは「細菌がENSの異常を起こした」とは証明できないのです。
7. ENSと関連する病気
ENSと病気の関係は、「ENSそのものが一次的な原因である病気」と、「炎症や神経変性、脳腸相互作用の標的あるいは増幅役になる病気」に分けて考えると整理しやすくなります。前者の代表がヒルシュスプルング病、後者に近いのが炎症性腸疾患(IBD)、パーキンソン病、過敏性腸症候群(IBS)ですが、それぞれの病気の中にも大きな多様性があります[1]。
ヒルシュスプルング病(先天性巨大結腸症)
ヒルシュスプルング病は、ENSの発生異常が病気の原因になる、最もはっきりした例です。神経堤細胞が腸の肛門側まで十分に到達・増殖・分化できず、神経節細胞を欠く腸管が残ってしまう先天性の病気で、先天性巨大結腸症とも呼ばれます[1]。原因遺伝子としてはRETの経路が最大の軸の一つで、EDNRBやEDN3、SOX10など多くの遺伝子が関わります。神経節を欠く部分では協調したゆるみが失われるため、機能的な腸閉塞が起こり、その口側の腸が拡張します。治療の基本は、神経節を欠く腸を切除する外科手術(プルスルー手術)ですが、正常な神経節のある腸を残しても、便失禁・便秘・腸炎などが長期的な課題として残ることがあります。
なお2025年には、典型的には神経節を欠くとされるヒルシュスプルング病の腸にも、一部の筋層内グリアが残っている可能性が報告されました。「神経節を欠く=神経堤由来の細胞がすべて完全に消えている」という単純な図式も、少しずつ見直されつつあります[27]。
💡 用語解説:RET遺伝子の「二つの顔」
RET遺伝子は、はたらきが失われる方向の変化ではヒルシュスプルング病に関わる一方、はたらきが強まる方向の変化では多発性内分泌腫瘍症2型(MEN2)という別の病気の原因になります。同じ遺伝子でも、変化の性質によって正反対の結果が生じる、遺伝の奥深さを示す例です。また、SOX10やEDNRBの変化は、難聴や色素異常をあわせもつワールデンブルグ症候群(4型)の原因にもなります。
炎症性腸疾患(IBD)
炎症性腸疾患(IBD)では、炎症のあいだにENSのニューロンの興奮性が高まったり、シナプス伝達が変化したり、ニューロンが失われたり、グリアが反応性に変化したりします。こうした変化は、炎症が治まった後も一部が残ることがあり、寛解しても腸の運動異常や痛みの感じ方の異常が続く一因になりうると考えられています[1]。一方で、前に述べたグリア−免疫の関係やストレス−ENSの関係は、ENSが炎症を能動的に増幅する可能性も示しています。つまりENSの変化は「炎症が残した傷あと」だけとは言い切れません。ヒトの患者における因果的な寄与の大きさは、動物モデルほど明確ではないのが現状です。
パーキンソン病と脳腸軸
パーキンソン病では、便秘などの消化管の症状が運動症状に先行する患者がいることが知られ、腸の神経や組織にもα−シヌクレインという異常タンパク質の蓄積、炎症、神経化学的な変化が報告されています。マウスの腸にあらかじめ形成したα−シヌクレインの線維を投与した2019年の研究では、病的なα−シヌクレインが迷走神経を介して脳へ伝わり、パーキンソン病に似た病態を生じることが示されました[19]。この「腸から始まる(gut-first)」という仮説には、強い動物実験の証拠があります。
しかし、これは「ヒトのパーキンソン病はすべて腸から始まる」という意味ではありません。ヒトでは正常な腸にもα−シヌクレインが存在し、検出方法や採取部位、病気の期間、薬、便秘そのものが結果を左右します。現在は、末梢の自律神経から始まるbody-first型と、中枢から末梢へ広がるbrain-first型を含む、多様な病態モデルのほうが有力です[20]。2026年のENSを中心にしたレビューでも、腸内細菌−ENS−α−シヌクレインの軸の重要性を認めつつ、再現性のある腸内細菌の特徴や、ヒトでの伝わる方向の確定が今後の課題だと評価されています[20]。
過敏性腸症候群(IBS)・機能性消化管疾患
過敏性腸症候群(IBS)は、現在では「脳腸相互作用の障害(disorder of gut-brain interaction)」として理解されています。腸の運動、内臓の過敏性、粘膜の免疫、バリア機能、腸内細菌、ENS、脊髄・脳での感覚処理が重なり合って症状が生まれます[21]。2009年のヒトの研究では、IBS患者の大腸の組織から得た上清(じょうせい)が、ヒトの粘膜下神経叢のニューロンの発火を増やし、そこにヒスタミンやセロトニン、プロテアーゼなどが関わることが示されました[22]。これは「患者の粘膜から放出される物質が、ヒトのENSを直接敏感にできる」という重要な橋渡しの証拠ですが、IBSのすべての人に単一のENSの異常があることを意味するわけではありません。
8. ENSの再生医療と治療
ENSの治療は、大きく4つの方向に整理できます。すなわち、①既存の回路を薬で調節する、②迷走神経などの外来神経を介して調節する(神経調節)、③腸内細菌・免疫・グリアを介して間接的に修飾する、④失われたENSを細胞・組織工学で作り直す再生医療、の4つです。2026年時点で最も大きな概念的な飛躍があるのは細胞治療ですが、それは「臨床での証拠が最も成熟している」という意味ではない点に注意が必要です[1]。
細胞治療 ─ ENSを作り直す試み
研究が進んでいる方向の一つが、幹細胞を使ってENSを再構築する試みです。2024年には、マウスの自家(自分由来の)腸管神経幹細胞を、神経のない結腸へ移植し、ニューロンとグリアへの分化、新しい神経節の形成、電気刺激への応答と腸の運動の改善を示した研究が発表されました[23]。同じ年、ヒルシュスプルング病のマウスモデルで、腸管神経幹細胞の移植によってぜん動運動や炎症、生存が改善したという報告もありました[24]。これらは「移植した細胞が生き残った」という段階を超えて、実際の機能の回復(機能的な統合)を示した点で重要です。
さらに、ヒトの多能性幹細胞(iPS細胞など)から作ったENSの前駆細胞を、ヒルシュスプルング病の患者から切除した神経のない腸へ、体の外で移植した2024年の研究では、移植した細胞が組織の中を移動し、ニューロンやグリアへ分化するとともに、腸の基礎的な収縮や電気刺激への反応を高めたことが示されました[25]。ただし、これは患者の体内への移植試験ではなく、患者から切除した組織を使った体外(ex vivo)の研究である、という点が、臨床的な解釈のうえで最も重要です[25]。
💡 用語解説:iPS細胞と「機能する」ことのむずかしさ
iPS細胞(人工多能性幹細胞)は、さまざまな細胞に変化できる能力を持つ細胞です。ENSの再生では、細胞を「作る」だけでは不十分で、正しい向きに軸索を伸ばし、適切な種類のニューロンを適切な比率でそろえ、筋肉や既存の神経とつなぎ、正しい反射回路として統合されて初めて「ENSの再生」と呼べます。ここに大きなハードルがあります。
臨床応用には、長い無神経節の領域を十分に細胞で埋められるか、興奮性・抑制性・感覚・分泌の各ニューロンを適切な比率で作れるか、口側−肛門側という正しい向きを持った回路を作れるか、宿主の平滑筋やICC、上皮、外来神経とつながれるか、腫瘍形成やあらぬ場所での分化を防げるか、そして数十年にわたって機能し続けるか、といった難題が残ります。したがって現時点の証拠は、非常に有望な前臨床・体外での概念実証(proof-of-concept)と評価するのが妥当で、確立した患者治療と表現できる段階ではありません[25]。
神経調節と薬物療法
神経調節では、迷走神経刺激(VNS)が、脳−自律神経−ENS−免疫のネットワークを利用する戦略として研究されています。2023年のクローン病を対象とした前向きの研究では、17人が装置の埋め込みを受け、症状や炎症の指標の改善が観察されましたが、これは対照群を持つ確証的な試験ではありません[26]。したがって「VNSはクローン病に効く」と確定するより、「ヒトで生物学的・臨床的な手ごたえが得られており、ランダム化した検証に値する」と評価するのが適切です[26]。
薬物療法の多くは、ENSそのものを作り直すのではなく、残っている回路のはたらき方を変えるものです。たとえば5-HT4受容体を刺激する薬は、腸のアセチルコリン経路を促してぜん動運動を高めます。5-HT3受容体を抑える薬は感覚・分泌の回路を抑え、末梢のμ−オピオイド受容体を抑える薬は、オピオイドによる神経伝達の抑制を解除します[1]。一方、2026年に同定されたグリアのNKB−TACR3という経路のような標的は、将来の候補ではありますが、現段階ではマウスでのしくみの研究であり、ヒトでの治療効果を意味するものではありません[4]。
9. 遺伝診療との接点
ENSは基礎研究が中心のテーマですが、遺伝診療とは確かな接点があります。最もはっきりしているのが、ヒルシュスプルング病を通じたつながりです。ヒルシュスプルング病は、RETを中心に、EDNRB・SOX10など複数の遺伝子が関わる多遺伝子性の発生異常であり、その遺伝の伝わり方は、単純なメンデル遺伝では説明しきれません[5]。同じ遺伝子の変化があっても発症する人としない人がいたり、家族内で再発の可能性が一般集団より高かったりするため、遺伝相談の実務でていねいな説明が求められる領域です。
また、RET遺伝子のように、変化の性質によってヒルシュスプルング病にも多発性内分泌腫瘍症2型(MEN2)にもなりうる遺伝子や、SOX10・EDNRBのように難聴・色素異常をあわせもつワールデンブルグ症候群4型に関わる遺伝子もあります。一つの遺伝子が複数の病気に関わるこうした例は、遺伝子検査の結果を解釈するうえで、専門的な視点が欠かせないことを示しています。
当院では、遺伝子や染色体に関わる検査の前後で、臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行っています。検査で何が分かり何が分からないのか、見つかった変化がご本人やご家族にとってどういう意味を持つのか、どのような選択肢があるのか、といった点を、中立の立場で整理します。ENSという基礎的なテーマも、遺伝子のはたらきや遺伝性疾患の病態を理解する土台になります。遺伝子検査の結果は、病的バリアントの種類、浸透率、家族歴、臨床所見などを合わせて解釈することが重要です。
10. よくある誤解
誤解①「ENSは脳から完全に独立した“第二の脳”」
ENSは脳から切り離されても局所反射で腸を動かせるほど自律的ですが、完全に独立してはいません。実際には迷走神経・交感神経・腸内細菌・免疫と密に連携する、統合的なネットワークです。
誤解②「ぜん動運動はENSだけが起こしている」
腸の運動は、ENSに加えてカハール介在細胞(ICC)や平滑筋が生むリズムとの協力で生まれます。ENSは唯一の指揮者ではなく、オーケストラの重要なパートの一つです。
誤解③「パーキンソン病は必ず腸から始まる」
「腸から始まる」型の強い動物実験の証拠はありますが、ヒトではbody-first型とbrain-first型が混在すると考えられています。すべての患者に当てはまるわけではありません。
誤解④「幹細胞でENSはもう治せる」
動物や患者組織での有望な成果はありますが、多くは前臨床・体外での概念実証の段階です。患者への臨床移植で確立した治療、という段階ではまだありません。
まとめ ─ 「腸の中の小さな脳」から「分散する制御系」へ
腸管神経系(ENS)をめぐる研究は、「腸の中に小さな脳がある」という素朴なイメージを、より正確な姿へと更新してきました。2026年時点の理解を一つにまとめると、ENSは固定された小型の脳ではなく、発生の起源を共有する多様なニューロンとグリアが、ICCやPDGFRα陽性細胞、上皮、免疫、腸内細菌、外来神経とともに形づくる適応的な分散制御系と捉えるのが最も妥当です[1]。
研究として最も確実な領域は、ヒルシュスプルング病における神経堤・RET関連の発生障害、基本的な「口側の収縮と肛門側のゆるみ」という回路、そしてニューロン・グリアの多様性です。動物レベルで強い証拠がある領域として、腸内細菌によるENSの成熟、神経と免疫の回路、グリアの可塑性、腸から脳へのα−シヌクレインの伝播、細胞を使ったENS再生があります。一方で、最も慎重な解釈を要するのが、ヒトのパーキンソン病における普遍的な「腸から始まる」モデル、特定の腸内細菌の特徴から病気の因果を推定すること、成人のヒトの腸で日常的に神経が新生するのか、そして細胞治療の臨床的な有効性です[1][20]。ENSの研究は、記載的な解剖学から回路の生物学を経て、いまや「病気の回路を組み替えられるか」を問う段階に入りつつあります。
よくある質問(FAQ)
Q1. 腸管神経系(ENS)とは何ですか?
腸管神経系(ENS)とは、食道から肛門までの消化管の壁の中にある、ニューロン(神経細胞)とグリア(支持細胞)からできた自律的な神経ネットワークのことです。脳や脊髄から切り離されても、腸の壁だけで局所の反射をつくり、ぜん動運動・分泌・血流などを調節できます。その独立性の高さから「第二の脳」と呼ばれることもありますが、実際には脳・自律神経・腸内細菌・免疫と連携して働いています。
Q2. ENSはなぜ「第二の脳」と呼ばれるのですか?
脳や脊髄との連絡を断っても、ENSは腸の壁の中だけで反射回路をつくり、腸をみずから動かせるからです。ヒトのENSにはおよそ2億個のニューロンがあると見積もられ、脊髄に匹敵する規模とも言われます。ただし「第二の脳」という表現は独立性を強調しすぎている面があり、実際には脳や腸内細菌、免疫と密接につながった統合的なネットワークとして理解するのがより正確です。
Q3. ENSはどのように作られるのですか?
ENSの大部分は、神経堤(しんけいてい)という胚の一部から生まれる神経堤由来細胞が、消化管を口側から肛門側へ長い距離を移動しながら作り上げます。この過程には、RET・GDNF、EDNRB・EDN3、SOX10、PHOX2Bといった遺伝子やシグナルが深く関わります。細胞が存在するだけでなく、正しい密度・比率・配置・接続がそろって初めて、腸は正常に動きます。
Q4. ENSはどんな病気と関係がありますか?
最もはっきりした例が、ENSの発生異常で起こるヒルシュスプルング病(先天性巨大結腸症)です。このほか、炎症性腸疾患(IBD)、パーキンソン病、過敏性腸症候群(IBS)などとも関わります。ただしヒルシュスプルング病以外では、ENSの異常が病気の原因なのか結果なのかは一様ではなく、それぞれの病気の中にも大きな多様性があります。
Q5. 幹細胞でENSを再生する治療はもう受けられますか?
現時点では、確立した患者治療として受けられる段階ではありません。マウスでの移植や、ヒルシュスプルング病の患者から切除した腸を使った体外(ex vivo)の研究では、移植した細胞がニューロンやグリアへ分化し、腸の収縮を改善するといった有望な成果が報告されています。ただし、これらは前臨床・体外での概念実証であり、患者の体内への臨床移植で有効性が確立したわけではありません。治療に関する判断は、必ず主治医とご相談ください。
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参考文献
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