目次
リード密度の期待値とは、「この検体の21番染色体が正常(2本)なら、DNA断片がこれくらい読まれるはずだ」という見積もりの値です。全ゲノムを読むタイプのNIPT(WGSベースのNIPT)は、21番染色体などに由来するDNA断片の量を表す値(リード密度)を実際に数え、この期待値と比べて、ずれが偶然では説明できないほど大きいかどうかで判定します。実際に数えた値がどれだけ正確でも、比べる相手である期待値がずれていれば、判定そのものが狂います。このページでは、期待値の3つの求め方――検体の中の別の染色体と比べる方法、ほかの検体の同じ染色体と比べる方法、全部の情報を回帰モデルでまとめる方法――を、式と計算例を使って臨床遺伝専門医の視点で解説します。NIPT教科書シリーズ第3章「cffDNAを用いたNIPTのバイオインフォマティクスとテクノロジー」の一節です。
Q. NIPTの結果はどのように判定されるのですか?
A. 調べたい染色体のDNA断片の数(観測値)と、その染色体が正常なら得られるはずの数(期待値)を比べ、そのずれがばらつきの何倍にあたるか(Zスコア)で判定します。期待値の求め方には、同じ検体の別の染色体を基準にする方法、ほかの正常な検体の同じ染色体を基準にする方法、多数の領域と検体を使う回帰モデルの3つがあります。期待値の精度が上がるほどばらつきが小さくなり、胎児由来DNAが少ない検体でも異常を見分けやすくなります。
- ➤観測値(μobs) → 実際に数えた、ある染色体のリード密度
- ➤期待値(μexp) → その染色体が2本(正常)だと仮定したときに予想されるリード密度
- ➤3つの求め方 → 参照染色体法、背景検体法、回帰モデル
- ➤なぜ大事か → 期待値のばらつきが小さいほど、少ない胎児由来DNAでも判定できる
⏱️ 30秒でわかる要約
🧮 Q. リード密度の期待値とは?
「この染色体が正常なら、DNA断片はこれくらい読まれるはず」という見積もりです。実測値と比べる「ものさし」の役割をします。
⚖️ Q. どうやって求めるの?
同じ検体の別の染色体を基準にする、ほかの正常な検体と比べる、たくさんの領域と検体を回帰モデルでまとめる、の3通りがあります。
🎯 Q. なぜそれが大事なの?
期待値のぶれが小さいほど、胎児由来DNAが少なくても染色体の変化を偶然のぶれと区別しやすくなるからです。

1. リード密度の期待値とは
リード密度の期待値(μexp)とは、調べたい染色体の領域が2本(二倍体)であると仮定したときに、その検体で予想されるリード密度のことです。NIPTの判定は、実際に数えたリード密度(観測値、μobs)とこの期待値の「差」から出発します。
観測値と期待値を比べるという発想
妊婦さんの血液から取り出したセルフリーDNAを次世代シーケンサーで読むと、数百万〜数千万本の短い配列(リード)が得られます。それぞれのリードがヒトゲノムのどこから来たかを決め(アライメント)、染色体や一定の長さの区間(ビン)ごとにリードを数え、領域の長さや総リード数などを考慮して表した値がリード密度です。ここまでの流れはリードの密度で胎児の染色体の量を比べる仕組みで、ビンの数え方と補正は平均ビン値とGCバイアス補正で解説しています。
赤ちゃん(正確には胎盤)が21トリソミーであれば、血液中の21番染色体由来のDNAはほんの少しだけ多くなります。けれども「多い」かどうかは、比べる相手がなければ言えません。その比べる相手、つまり「正常ならこれくらい」というものさしが期待値です。リード数を比較する代表的な判定法では、次の式で表されるZスコアを用います。
🧮 判定の基本式
Z =(μobs − μexp)÷ σ
μobs:実際に数えたリード密度(観測値)/μexp:正常と仮定したときのリード密度(期待値)/σ:正常な検体で観測値と期待値の差がどれくらいばらつくか(ばらつきの大きさ)。Zが大きくプラスならトリソミー、大きくマイナスならモノソミーを疑います。Zスコアの閾値や境界域の考え方はZスコアとはで解説しています。
なぜ期待値を「計算」しなければならないのか
期待値がいつも同じ数なら、計算は不要です。ところが実際には、リード密度は検体ごと、検査の回ごとに少しずつ揺れます。読んだリードの総数、DNAの断片の長さ、配列のGC含量(G・Cの割合)によって読まれやすさが変わること、採血から処理までの条件などが、すべてリード密度に影響します。21トリソミーの胎児由来DNAが加える増加分は、全体からみればわずか数%にすぎず、この揺れと同じくらいの大きさになりえます。
そのため、期待値は「教科書に載った一つの数」ではなく、検体ごとに、その検体の条件を織り込んで計算する必要があります。期待値の計算が上手なほど、式の分母σ(ばらつき)は小さくなり、同じ量の増加でもZスコアが大きくなります。この点が、このページ全体を通しての核心です。
期待値は染色体ごとにも、区間ごとにも計算する
ここでは主に21番染色体全体を例にしますが、期待値は染色体1本ごとだけでなく、ゲノムを一定の長さに区切ったビンごとにも計算されます。染色体全体で比べればトリソミーやモノソミーのような大きな変化を、ビンごとに比べれば染色体の一部だけが欠けたり増えたりする変化を調べることができます。ただし、区間が短くなるほど、そこに入るリードの数は少なくなり、偶然による揺れが相対的に大きくなります。小さな区間で判定するほど、期待値の精度とばらつきの扱いがいっそう重要になるのはこのためです。
2. 期待値の3つの求め方
期待値の求め方は、「どこから情報を借りてくるか」によって3つに分けられます。同じ検体の中の別の染色体から借りるか、ほかの検体の同じ染色体から借りるか、その両方から借りるかです。
🧭 期待値(μexp)をどこから借りてくるか
① 参照染色体法
借りる先:同じ検体の別の染色体
検体内の揺れに強い/参照にした染色体の異常に弱い
② 背景検体法
借りる先:ほかの検体の同じ染色体
領域ごとの癖に強い/検体固有の偏りに弱い
③ 回帰モデル
借りる先:両方(多数の領域×多数の検体)
両方の長所を生かせる/学習用の検体が必要
※本文の内容をもとに作成した模式図です。
📊 期待値の3つの求め方の比較
| 項目 | ① 参照染色体法 | ② 背景検体法 | ③ 回帰モデル |
|---|---|---|---|
| 使う情報 | 同じ検体の、性質の似た少数の染色体 | 正常な検体群の、同じ染色体 | 多数の領域と多数の検体 |
| 強み | その検体全体の揺れを打ち消せる | 染色体ごとの読まれやすさの癖を反映できる | 両方の長所を合わせ、ばらつきを減らせる場合がある |
| 弱み | 参照にした染色体の異常がそのまま判定を狂わせる | 平均から外れた癖をもつ検体を偽の異常に見てしまう | 学習に多数の正常検体が必要で、しくみが複雑 |
| 代表例 | 正規化染色体値(NCV) | 標準的なZスコア | 回帰ベースのZスコア(RBZ) |
3. 方法①参照染色体法:同じ検体の別の染色体と比べる
参照染色体法は、調べたい染色体と性質(GC含量など)の似た別の染色体を「参照」として選び、その参照染色体が正常(2本)だと仮定して、そこから期待値を求める方法です。式で書くと、検体jの関心領域iの期待値は、同じ検体jの参照染色体kの観測値に、正常検体群から求めた換算係数をかけて見積もります。
🧮 参照染色体法の考え方
μexp(i, j) = c(i, k) × μobs(k, j)
i:調べたい領域(例:21番染色体)/j:今調べている検体/k:参照染色体/c(i, k):正常検体群から求めた領域間の換算係数。両領域を同じ尺度に正規化し、係数が1となる場合には、期待値を参照領域の観測値に等しいと置けます。実際には「21番のリード数 ÷ 参照染色体のリード数」という比を作り、正常な検体群でのこの比の分布と比べます。
この考え方を発展させたのが、2011年に報告された正規化染色体値(normalized chromosome value:NCV)です。NCVでは、正常な検体の学習用データを使って、調べたい染色体との比のばらつき(変動係数)が最も小さくなる参照染色体の組み合わせをあらかじめ選んでおきます[1][2]。同じ検体の中で比を取るので、その検体全体のリード数が多い・少ない、全体に読まれやすさが偏っている、といった揺れは分子と分母の両方にかかり、打ち消し合います。
弱点:「卵を1つのかごに盛る」
参照染色体法の最大の弱点は、参照にした染色体そのものに変化があると、判定が丸ごと狂ってしまうことです。たとえば、参照に選んだ染色体の一部にお母さんのコピー数変化(CNV)があって、その部分のリードが多ければ、分母が大きくなり、21番染色体は実際より少なく見えます。卵をすべて1つのかごに盛ると、かごを落としたときにすべてが割れるのと同じです。
このほかにも、ゲノム全体のデータのうちごく一部(数本の染色体)しか基準に使わないため情報を捨てていること、調べたい領域によっては性質の似た参照染色体が見つからないことも弱点です。母体のCNVを解析の中でどう見つけて除くかは、前のページ母親のコピー数変化(CNV)を見分けて除外する仕組みで解説しています。
4. 方法②背景検体法:ほかの検体の同じ染色体と比べる
背景検体法は、正常であることがわかっている多数の検体(背景検体)で、同じ染色体のリード密度がどれくらいになるかを調べ、その平均を期待値とする方法です。標準的なZスコアは、調べたい染色体のリードが常染色体全体のリードに占める割合を求め、そこから正常検体群での平均の割合を引き、正常検体群の標準偏差で割って計算します[2]。
🧮 背景検体法の考え方
μexp(i, j) = 背景検体(j以外)での μobs(i) の平均(または中央値)
同じ領域iの値を、ほかの検体から借りてきて基準にします。
この方法の強みは、領域ごとの読まれやすさの癖をそのまま反映できることです。21番染色体がもともと読まれにくい性質をもっていても、背景検体も同じように読まれにくいので、癖は基準の側にすでに含まれています。
注意点1:背景に異常な検体が混ざる
調べたい染色体は、そもそも異常がよく見つかる染色体です。背景検体の中にトリソミーの検体が混ざっていると、基準の平均が引き上げられ、ばらつきも大きく見積もられてしまいます。とくに胎児由来DNAの割合が高いトリソミーの検体は大きな外れ値になるので、背景からは除くか、少なくとも外れ値に強い集計を使う必要があります。平均の代わりに中央値を、標準偏差の代わりに中央値絶対偏差(MAD:各値と中央値の差の絶対値の中央値)を、標準偏差に相当する尺度へ換算して使うと、少数の外れ値に引きずられにくくなります。2017年の研究でも、MADを0.6745で割って標準偏差相当の尺度にしたZスコアが比較の対象に含まれています[2]。
注意点2:検体ごとの偏りに対応できない
背景検体法は、今調べている検体の「個性」を考えません。検査室がどれだけ手順を整えても、まれにゲノム全体のリードの分布が多数派と少し違う検体が出てきます。背景の平均と比べると、そうした検体は染色体の数に変化がなくても、ずれが大きく見え、偽の異常に見えるおそれがあります。参照染色体法が得意な「検体内の揺れの打ち消し」が、この方法では効きません。
背景検体はどう選ぶか
背景検体法と、後で述べる回帰モデルはどちらも「正常な検体の集まり」を基準にするため、その集まりをどう作るかが結果を左右します。基本になるのは、調べる検体と同じ手順・同じ種類の試薬と機器で処理された検体を、十分な数そろえることです。シーケンサーの機種や試薬のロット、DNAの抽出法やライブラリー調製の手順が変わると、領域ごとの読まれやすさの癖も変わります。そのため、手順を変えたときには基準となる検体群が引き続き適切か再検証し、必要に応じて期待値とばらつきを計算し直します。
また、基準に使う検体は、確定検査や出生後の追跡などで、対象の染色体異常がないと確認されたものが望まれます。出生後の外見や経過だけで、すべての染色体異常がないと断定することはできません。確認できない検体を使う場合には、前に述べた中央値やMADのような外れ値に強い集計を使い、異常な検体が紛れ込んでも基準がゆがみにくいようにします。こうした基準づくりは結果の報告書には現れませんが、判定の土台そのものです。
5. 方法③回帰モデル:全部の領域と全部の検体を使う
多数の背景検体と複数の領域の情報を組み合わせて期待値を予測する方法として、線形回帰などの統計モデル(機械学習モデル)があります。対象領域そのものを予測因子から除き、学習に使っていない検体で性能を検証することが重要です。領域ごとの癖(背景検体法の長所)と、検体ごとの偏り(参照染色体法の長所)を同時に考慮できます。
回帰は参照染色体法を広げたもの
回帰モデルは、参照染色体法の拡張と考えると理解しやすくなります。参照染色体法は、同じ尺度に正規化した値を使う単純な場合には、1本の参照染色体に重み1.0を置き、ほかの染色体には重み0を置くモデルとして表せます。回帰モデルでは、たとえば1番染色体に0.12、2番染色体に−0.05、3番染色体に0.2、というように、多くの領域に少しずつ重みを配ります。
🧮 回帰モデルの考え方
μexp(i, j) = b(i) + Σ w(i, k) × μobs(k, j) (k ≠ i)
b(i):切片(基準となる定数)/w(i, k):領域iを予測するための領域kの重み。中心化したデータなど、切片を0とするモデルもあります。正常な背景検体のデータから、「領域iを最もよく予測できる重み」を学習します。学習が終われば、今調べている検体jのほかの領域の値に重みをかけて足し合わせることで、領域iの期待値が予測できます。上の重み(0.12、−0.05、0.2…)は考え方を示すための例です。
重みは、背景検体のすべてで、領域iの値を最もよく当てられるように決まります。今の検体の他の領域の値を使うので検体固有の偏りが反映され、重みはたくさんの検体から学ぶので領域固有の癖も反映されます。複数の領域を使っても、予測因子に含まれる領域の異常の影響は、その重みと異常の大きさに左右されます。異なる予測因子の組で結果を比較するなど、特定の領域の異常に依存しない確認が必要です。
2017年の研究:回帰でばらつきが小さくなった
2017年に報告された研究では、回帰ベースのZスコア(regression-based Z-score:RBZ)が検討されました。前向き選択の回帰で、4つの予測因子からなる組を4通り作り、1つの組の中では1つの染色体から1つの予測因子しか選ばないようにして、偏りが入り込む危険を抑えています。正常な対照検体それぞれでモデルを作って期待される割合を求め、観測値をそれで割り、予測の標準偏差と組み合わせてZスコアを計算します[2]。
結果として、RBZはほとんどの条件で変動係数(ばらつき)が最も小さく、検出された真陽性49例では4つのRBZモデルすべてでZスコアが3を超えました。ただし、確認済みの18トリソミー1例は、どの解析法の組み合わせでも陽性になりませんでした。胎児由来DNAの割合が5〜6%と低めのトリソミー検体3例で比べると、NCVとRBZは標準的なZスコアやMADを使ったZスコアより一貫して高いZスコアを示しました[2]。同じデータでも解析法によって検出力が変わることを示した結果です。一方、この研究ではNCVとRBZで偽陽性も増えており、過学習(学習データに合わせすぎて新しい検体への予測が不正確になること)にも注意が必要です。
2018年以降:検体の中で「似た動きをする領域」を探す
2019年に報告されたWisecondorXは、浅い全ゲノムシーケンスからコピー数の変化を検出するための解析法で、検体の中で比べるという参照染色体法の考え方を、ビン(区間)の単位まで細かくしたものと位置づけられます[3]。正常な検体群をもとに、調べたいビンと似た動きをする別の場所のビンを参照として選び、同じ検体の中で比べることで、検体ごとの偏りを打ち消します。染色体全体の数だけでなく、部分的な欠失・重複の検出にも使われる考え方で、その仕組みは微細欠失(微小欠失)の同定につながります。
6. 計算例:期待値の精度が判定を左右する理由
期待値の計算の良し悪しは、「胎児由来DNAがどこまで少なくても判定できるか」に直結します。簡単な計算で確かめてみます。
トリソミーで増える量は胎児分画の半分
血液中のセルフリーDNAのうち胎盤に由来するものの割合を胎児分画(fetal fraction:FF)と呼びます。母体が二倍体で、胎盤由来DNAが非モザイクの21トリソミーを反映すると仮定すると、胎盤由来のDNAでは21番染色体が2本ではなく3本、つまり1.5倍になります。母体と胎盤のDNAの混合を単純化した近似では、21番染色体由来のリードの相対的な増え方は「胎児分画×0.5」です。胎児分画が10%なら5%、4%なら2%増えるだけです。胎児分画の測り方と、低いときの考え方は胎児ゲノム率が低い=異常?4%基準と再検査の考え方で解説しています。
ばらつきが半分になると、見分けられる範囲が広がる
ここで、正常な検体での観測値と期待値の差のばらつき(相対的な標準偏差)を、期待値の求め方が粗い場合に0.6%、工夫した場合に0.3%と仮定して、Zスコアを計算してみます。Zスコアは「増え方÷ばらつき」で近似できます。
🧮 胎児分画とばらつきによるZスコアの違い(計算例)
| 胎児分画 | 21番のリードの増え方 | ばらつき0.6%のときのZ | ばらつき0.3%のときのZ |
|---|---|---|---|
| 10% | 5% | 約8.3 | 約16.7 |
| 4% | 2% | 約3.3 | 約6.7 |
| 3% | 1.5% | 2.5(閾値3に届かない) | 5.0 |
※ばらつきの値(0.6%・0.3%)とZ=3の閾値は、考え方を示すための仮定です。実際の値は検査法・シーケンス量・補正法によって異なります。
この計算からわかるように、期待値の求め方が粗くばらつきが大きいと、胎児分画が低い検体では、本当はトリソミーでもZスコアが閾値に届かず、見逃し(偽陰性)や判定保留につながります。反対に、期待値の計算を工夫してばらつきを半分にできれば、同じ胎児分画でもZスコアは2倍になり、より少ない胎児由来DNAで判定できるようになります。ただし、この仮定上の計算だけで臨床での検出率を求めることはできません。2022年の系統的レビューでは、一般リスクの単胎妊娠での21トリソミーの統合検出率は98.8%と報告されており[4]、見逃しには低い胎児分画や胎盤のモザイクなど複数の要因が関わるため、そのすべてが期待値の計算だけで解決するわけではありません。期待値とばらつきの扱いも、検出力を左右する重要な課題です。
ばらつきを減らすもう一つの手段:リードを増やす
ばらつきを小さくする方法には、リードの数を増やすこともあります。数えるリードが多いほど、偶然による数の揺れは相対的に小さくなるからです。ただし、リードを増やすには費用がかかり、偶然の揺れ以外の偏り(GC含量による読まれやすさの差など)は、リードを増やしても消えません。期待値の計算を工夫することは、シーケンス量を増やす以外にばらつきを減らす手段です。ただし、モデルの開発・検証や運用にも費用はかかります。リード数と解像度の関係はビンの最適サイズとリード数・解像度のバランスで扱っています。
7. 期待値がずれると何が起きるか
期待値は判定の「ものさし」なので、ものさしそのものがずれると、胎児の染色体に変化がなくても偽陽性が、変化があっても偽陰性が起こりえます。ISPD(国際出生前診断学会)は、胎児分画が非常に低いとNIPTの結果の正確さが落ちると述べています[5]。期待値のばらつきは、その「低い胎児分画でどこまで戦えるか」を決める要素の一つです。
ものさしがずれる代表的な原因は、参照にした染色体や領域にお母さん側の変化があることです。参照染色体法では、参照の染色体にお母さんのCNVがあると、調べたい染色体が実際より少なく、あるいは多く見えます。こうした母体側の要因による偽陽性の臨床的な意味は、第5章のNIPTの偽陽性の原因:母体側の要因で扱っています。また、胎盤と赤ちゃんの染色体が食い違う胎盤限局性モザイクのように、期待値をどれだけ正確に計算しても越えられない限界もあり、それはNIPTの生物学的限界で解説しています。
💡 用語解説:変動係数(CV)
変動係数(coefficient of variation:CV)は、標準偏差を平均で割った値で、ばらつきの大きさを「平均の何%か」で表します。NIPTの解析では、正常な検体群で染色体の割合がどれくらい揺れるかを比べる指標として使われ、CVが小さい方法ほど、わずかな増減を見分けやすくなります。
🩺 院長コラム【「ものさし」の質がNIPTの質を決める】
NIPTの性能というと、シーケンサーの性能やリードの数に目が向きがちです。けれども、この章で見てきたように、21トリソミーで増えるリードはわずか数%で、その増加を偶然の揺れと見分けられるかどうかは、「正常ならこれくらい」という期待値の計算の質に大きく左右されます。同じ機械で読んだ同じデータでも、ものさしの作り方が違えば、判定できる胎児分画の下限が変わります。
検査の説明で「どの機械を使っているか」だけでなく、「どのように判定しているか」が語られることは多くありません。けれども、陽性・陰性・判定保留という結果の裏には、このような計算の積み重ねがあります。結果の意味を正しく理解するためには、こうした解析の仕組みを知っておくことが大切だと考えています。
よくある質問(FAQ)
Q1. リード密度の期待値とは何ですか?
調べたい染色体の領域が正常(2本)だと仮定したときに、その検体で予想されるリード密度のことです。NIPTは、実際に数えたリード密度(観測値)とこの期待値を比べ、その差がばらつきの何倍にあたるか(Zスコア)で判定します。
Q2. NIPTの結果はどのように判定されるのですか?
リード数を比較する全ゲノム型NIPTの代表的な方法では、染色体ごとのリード密度を求め、正常なら予想される値(期待値)との差を、正常な検体でのばらつきで割ったZスコアを計算します。Zスコアが閾値を大きく超えてプラスならトリソミー、マイナスならモノソミーを疑います。
Q3. 参照染色体法と回帰モデルの違いは何ですか?
参照染色体法は、同じ検体の中で性質の似た少数の染色体を基準にします。回帰モデルは、多数の領域に少しずつ重みを配り、正常な検体群から学んだ重みで期待値を予測します。回帰モデルでも参照領域の異常や過学習の影響を受けるため、独立した検体での検証が必要です。2017年の研究では、比較したほとんどの条件でRBZのばらつきが最も小さくなりましたが、偽陽性や見逃しもありました。
Q4. 期待値の計算が悪いとどうなりますか?
ばらつきが大きくなり、胎児由来DNAの割合が低い検体では、本当にトリソミーでもZスコアが閾値に届かず、見逃しや判定保留につながりやすくなります。また、参照にした染色体にお母さん側の変化があると、ものさしがずれて偽陽性や偽陰性の原因になります。
Q5. リードの数を増やせば期待値の問題は解決しますか?
リードを増やすと偶然による揺れは小さくなりますが、GC含量による読まれやすさの差などの偏りは消えません。また費用もかかります。期待値の計算を工夫することは、リードを増やすのとは別に、ばらつきを減らすための重要な手段です。
まとめ:期待値はNIPTの判定の「ものさし」
リード密度の期待値は、「この染色体が正常ならこれくらい読まれるはず」という見積もりで、観測値と比べるためのものさしです。求め方には、同じ検体の別の染色体を基準にする参照染色体法[1]、ほかの正常な検体の同じ染色体を基準にする背景検体法、多数の領域と検体から重みを学ぶ回帰モデルがあり、回帰モデルは両方の長所を生かして、研究で比較された多くの条件でばらつきを減らせることが示されています[2]。2019年には、検体の中で似た動きをするビンを参照にする解析法も報告されています[3]。
ばらつきが小さくなるほど、胎児由来DNAが少ない検体でも異常を偶然の揺れと見分けやすくなり、見逃しや判定保留を減らすことにつながります[5]。次のページZスコアとはでは、観測値と期待値の差を、どの基準で「異常」と判定するのかを見ていきます。
🧬 NIPT・出生前診断をご検討の方へ
ミネルバクリニックでは、臨床遺伝専門医によるNIPTの検査前の説明・遺伝カウンセリングと、当院で受けたNIPTの結果に応じた確定検査の案内を行っています。当院の検査をご検討の方には、検査でわかることと限界、陽性・陰性・判定保留という結果の意味を説明します。検査内容や予約については、以下の案内をご確認ください。
参考文献
- [1] Sehnert AJ, et al. Optimal Detection of Fetal Chromosomal Abnormalities by Massively Parallel DNA Sequencing of Cell-Free Fetal DNA from Maternal Blood. Clin Chem. 2011;57(7):1042-1049. [DOI]
- [2] Johansson LF, et al. Novel Algorithms for Improved Sensitivity in Non-Invasive Prenatal Testing. Sci Rep. 2017;7:1838. [DOI]
- [3] Raman L, et al. WisecondorX: improved copy number detection for routine shallow whole-genome sequencing. Nucleic Acids Res. 2019;47(4):1605-1614. [DOI]
- [4] Rose NC, Barrie ES, Malinowski J, et al. Systematic evidence-based review: The application of noninvasive prenatal screening using cell-free DNA in general-risk pregnancies. Genet Med. 2022;24(7):1379-1391. [DOI]
- [5] Hui L, et al. Position statement from the International Society for Prenatal Diagnosis on the use of non-invasive prenatal testing for the detection of fetal chromosomal conditions in singleton pregnancies. Prenat Diagn. 2023;43(7):814-828. [DOI]
関連記事
📚 NIPT教科書シリーズ 第3章



