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PIK3R2遺伝子は、細胞の成長・増殖・生存をコントロールする「PI3K/AKT/mTOR経路」のブレーキ役(p85βタンパク質)をつくる遺伝子です。この遺伝子の不思議なところは、変異が「いつ」起きたかによって、まったく異なる2つの病気を引き起こす点にあります。受精のごく初期に変異が生じれば、脳が異常に大きくなる先天性疾患「MPPH症候群」を、大人になってから特定の細胞に変異が生じれば、子宮内膜がんなどの悪性腫瘍を引き起こします。本記事では、この二面性を持つPIK3R2遺伝子の働きから、関連する病気、最新の分子標的治療までを、臨床遺伝専門医が一般の方にもわかりやすく解説します。
Q. PIK3R2遺伝子とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. PIK3R2は、細胞増殖シグナル「PI3K経路」を抑える調節タンパク質p85βをつくる遺伝子です。この抑制(ブレーキ)が外れる「機能獲得型変異」が起きると経路が暴走します。発生初期の変異は脳が過成長するMPPH症候群を、成人後の変異は子宮内膜がんなどを引き起こします。同じ遺伝子・同じ変異でも、起きるタイミングと細胞によって正反対の病気になるのが最大の特徴です。
- ➤遺伝子の正体 → 19番染色体にあり、PI3Kの「調節サブユニットp85β」をコード
- ➤先天性疾患 → MPPH症候群(巨脳症・多小脳回・多指症・水頭症)の原因の一つ
- ➤ホットスポット変異 → 最も多いのはG373R(c.1117G>A)というミスセンス変異
- ➤がんとの関係 → 子宮内膜がんで高頻度に変異し、がん抑制タンパクPTENを壊す
- ➤最新治療 → PI3Kα阻害薬アルペリシブや、神経症状を狙うSESAM試験が進行中
1. PIK3R2遺伝子とは:PI3K経路の「ブレーキ役」が暴走するとき
私たちの体の細胞は、外から「成長しなさい」「増えなさい」という信号を受け取ると、その情報を細胞の奥へと伝えていきます。この情報伝達の中心となるのがPI3K/AKT/mTOR経路と呼ばれる一連の流れです。この経路は、細胞の生存・増殖・分化・代謝・細胞の形づくりまでをまとめて指揮する、生命の根幹に関わる仕組みです。PIK3R2遺伝子は、この経路の入り口にあたるPI3Kという酵素の「調節役」をつくる設計図にあたります[3]。
PI3K(クラスIA型)は、実際に化学反応を行う「触媒サブユニット(p110)」と、その働きを調節する「調節サブユニット」がペアになって機能します。PIK3R2がつくるタンパク質p85βは、この調節サブユニットの一つで、ふだんはp110にぴったり結合し、その酵素活性に「ふた」をするブレーキ役(抑制的な調節)として働いています。つまりp85βは、必要のないときに細胞が勝手に増殖しないよう見張る、安全装置のような存在です。
💡 用語解説:調節サブユニットとp85β
酵素は、しばしば複数の部品(サブユニット)が組み合わさってできています。PI3Kでは、実際に仕事をする「触媒サブユニット(p110)」と、それを見張る「調節サブユニット」のペアで一つの働きをします。p85βは後者にあたり、ふだんはp110にブレーキをかけ、必要なときだけブレーキを外して増殖シグナルを通します。このブレーキが壊れて外れっぱなしになると、細胞は「ずっと増えなさい」と命じられ続ける状態になります。
臨床遺伝学の視点から見ると、PIK3R2はきわめて特異な「二面性」を持つ遺伝子です。第一に、受精直後など発生のごく初期にこの遺伝子のブレーキが壊れる変異が起きると、脳が爆発的に過成長する重篤な先天性疾患「MPPH症候群」を引き起こします[1]。第二に、大人になってから成熟した細胞で後天的に変異が起きると、子宮内膜がん・乳がん・悪性黒色腫・膠芽腫などで細胞の無秩序な増殖を駆動する「がん遺伝子」として働きます[5]。同じG373Rという1か所のアミノ酸の置き換わりが、発達期の脳では「神経細胞の異常な肥大」を、成人の組織では「がん化」を引き起こすという事実は、PI3Kシグナルの「時間と場所の制御」がいかに生命維持の根幹であるかを物語っています。
2. 基本データと分子構造:染色体19番とp85βのドメイン
🔍 関連記事:ミスセンス変異とは/遺伝子バリアントの種類
ヒトのPIK3R2遺伝子は第19番染色体の短腕(19p13.11)に位置し、16個のエクソンから構成されています[3]。この遺伝子からつくられるタンパク質コーディング型の主要バリアントは、728個のアミノ酸からなる調節タンパク質p85βです。p85βは中枢神経系で特に強く発現しており、視覚野・海馬・小脳皮質・嗅球などで高い発現がみられます。この「脳での強い発現」こそが、変異したときになぜ脳の発達異常(巨脳症・多小脳回)が前面に出るのか、という病態の解剖学的な理由になっています。一方で子宮内膜の間質細胞でも高く発現しており、これが子宮内膜がんでの高頻度変異と結びついていると考えられています。
p85βタンパク質は、複数の機能ドメイン(タンパク質の機能的な区画)が数珠つなぎになった、精巧なモジュール構造をしています。N末端側から順に、他のタンパク質と結合するSH3ドメイン、細胞骨格の動きを調節するRhoGAPドメイン、リン酸化された受容体を認識するnSH2ドメイン、p110とがっちり結合して複合体を安定させるiSH2ドメイン、結合を補強するcSH2ドメインが並びます。重要なのは、病気の原因となる変異の多くが、p110を抑え込むカギを握るnSH2やiSH2のドメインに集中しているという点です。
p85βの主要な機能ドメインと代表的な病的変異の位置。nSH2のG373RはMPPH症候群の中核変異であり、がんでも観察される。これらの変異はp110への抑制(ブレーキ)を解除し、PI3K経路の常時オン状態を引き起こす。
3. PI3K/AKT/mTOR経路の仕組み:抑制と「脱抑制」
PIK3R2の変異がなぜ病気を起こすのかを理解する鍵は、p85βがどのようにp110を「抑え」「放す」かという、精巧なメカニズムにあります。ふだん、細胞が外から増殖の信号を受けていない静止状態では、p85βのnSH2ドメインがp110の活性領域に「ふた」をするように接触し、その酵素活性を封じ込めています。これが正常時のブレーキです。
インスリンや上皮成長因子(EGF)などの信号が細胞膜に届くと、膜の上の受容体(受容体型チロシンキナーゼ)が活性化して自分自身にリン酸という目印を付けます。すると、p85βのnSH2・cSH2ドメインがこのリン酸の目印を高い精度で認識して結合します。この結合が引き金になってp85β全体の立体構造が変化し、これまでp110を抑えていたnSH2の接触が外れ、抑制が解除されます(脱抑制)。放たれたp110は、細胞膜の脂質PIP2をリン酸化してPIP3に変換し、このPIP3が合図となってAKT、続いてmTORが活性化し、細胞のタンパク質合成・成長・増殖が促されます。これが「必要なときだけブレーキを外す」正常な流れです。
💡 用語解説:PIP3・AKT・mTORって何?
PIP3は細胞膜にできる「集合の合図(セカンドメッセンジャー)」のようなもので、これができるとAKTという司令塔タンパクが膜に呼び寄せられて活性化します。AKTはさらにmTORという成長エンジンを動かし、細胞は「大きくなれ・増えろ・死ぬな」という方向に動きます。PIK3R2はこの一連の流れの最上流で「アクセルを踏むか踏まないか」を決める係なので、ここが壊れると下流すべてが暴走します。
成長因子 → 受容体 → p85β/p110 → PIP3 → AKT/mTOR という上から下への一方向の流れ。PIK3R2変異でブレーキ(p85β)が外れると経路が常時オンになる。暴走しているp110αを直接止めるのがアルペリシブの戦略。
MPPHやがんで見つかるPIK3R2変異の多くは、この自己抑制のしくみを物理的に壊す機能獲得型(Gain-of-function)変異です[1]。たとえばnSH2の内部にあるG373Rが起きると、外からの成長因子が全くなくても、p85βの立体構造が異常に変化してp110への抑制が常に外れたままになります。その結果、細胞は「ずっと増えろ」という命令を受け続けていると勘違いし、PIP3が際限なくつくられ、AKT/mTOR経路が暴走します。この無秩序な暴走こそが、発生期の脳の異常な細胞肥大(巨脳症)や、成人組織のがん化の直接の引き金です。
💡 用語解説:機能獲得型変異(きのうかくとくがたへんい)
遺伝子の変異は、働きが「弱まる・なくなる」方向(機能喪失型)と、働きが「強まる・余計な働きを得る」方向(機能獲得型)に大きく分かれます。PIK3R2の病気は後者で、ブレーキ役のp85βが「ブレーキをかけられなくなる」ことで、結果的にアクセルが踏まれっぱなしになります。仕組みをもっと知りたい方は機能獲得型変異の解説と機能喪失型変異の解説もご覧ください。
4. MPPH症候群:脳の過成長を引き起こす先天性疾患
🔍 関連記事:MPPH症候群1型(疾患ページ)/AKT3遺伝子
発生のごく初期、受精卵の形成時や胚発生の最初期にPIK3R2に変異が生じると、シグナルの暴走は脳を中心とした劇的な発育異常をもたらします。これがMPPH症候群です。MPPHは「巨脳症(Megalencephaly)・多小脳回(Polymicrogyria)・多指症(Polydactyly)・水頭症(Hydrocephalus)」の頭文字をとった名称で、これまで世界で詳細に報告された患者は100名未満という超希少疾患です[2]。PIK3R2のほか、同じPI3K経路を構成するAKT3やCCND2の変異でも引き起こされます。詳しい臨床像はMPPH症候群1型の疾患ページで詳述しています。
4つの中核症状
🧠 巨脳症
脳が異常な速さで過成長し、頭囲が平均より大きく拡大します。mTORが神経細胞のタンパク質合成を異常に促し、細胞そのものが大きくなることが原因です。
🌀 多小脳回(BPP)
大脳皮質の脳のシワ(脳回)の形成が乱れ、正常な大きなシワの代わりに小さく不規則なヒダが無数にできます。てんかんや知的障害の土台になります。
✋ 多指症・多趾症
約半数の患者で、手足の小指側に余分な指ができる軸後性多指症がみられます。PIK3R2変異ではこの合併頻度が比較的高いことが知られています。
💧 水頭症・脳室拡大
ほぼ全例で脳室の拡大がみられ、約半数で脳圧亢進を伴う水頭症に進行します。生後2年間がリスクの高い時期で、外科的介入が必要になることがあります。
これらの構造的な異常は、さまざまな神経学的合併症につながります。患者さんは軽度から重度まで幅広い発達遅滞・知的障害を示し、口や舌の協調が難しくなる口腔運動機能障害(過剰なよだれ・嚥下困難・発話の遅れ)を伴うことがあります[2]。約半数で小児期早期からてんかんを発症し、しばしば難治性です。また、自閉症スペクトラム障害(ASD)の研究データベース「SFARI」にもPIK3R2はリスク遺伝子として登録されており、知的障害だけでなくASDとの関連も報告されています[11]。
最も多い変異「G373R」とマウスが教えてくれたこと
MPPH症候群を引き起こすPIK3R2変異は、これまで報告されたものがすべて機能獲得型のミスセンス変異です。なかでも圧倒的に多いのが、nSH2ドメインの373番目のグリシンがアルギニンに置き換わるG373R(c.1117G>A)で、大多数の患者で見つかります[1]。この変異がくり返し独立に起こりやすいのは、変異が生じた塩基がCpGと呼ばれるメチル化を受けやすい配列上にあり、変化しやすい性質を持つためと考えられています[4]。ほかにK376E、L401P、D557Hなどの稀な変異も報告されています。
💡 用語解説:ミスセンス変異
DNAの1文字(1塩基)が別の文字に置き換わった結果、つくられるタンパク質のアミノ酸が1個だけ別のものに変わる変異です。「G373R」は373番目のアミノ酸がグリシン(G)からアルギニン(R)に変わったことを意味します。たった1か所の変化でもタンパク質の働きが大きく変わることがあり、PIK3R2ではこれがブレーキの破綻を招きます。詳しくはミスセンス変異の解説をご覧ください。
この病態を個体レベルで解き明かすため、ヒトのG373Rに対応する変異を持つマウス(Pik3r2 G367Rノックインマウス)が作製されました[8]。このマウスはヒトの患者と同じく脳が大きくなり、脳波の異常も示しました。さらに重要だったのは、脳の巨大化が「細胞の数が増えた(過形成)」のではなく、「一つひとつの神経細胞の体積が大きくなった(肥大)」ことによると判明した点です。mTORがリボソーム合成やタンパク質の翻訳を強力に促し、神経細胞のサイズが異常に拡大すると、本来あるべき大脳皮質の層構造をつくるための神経細胞の移動に物理的な支障が生じ、これが多小脳回やてんかんの土台になっていく——という発生学的なメカニズムが、このモデルで確かめられました。
5. 遺伝形式とモザイク現象:再発リスクをどう考えるか
🔍 関連記事:母体・生殖腺モザイクと再発リスク/遺伝カウンセリングとは
PIK3R2関連疾患の遺伝学は、単純なメンデル遺伝の枠を超えた複雑さを持ちます。大多数のMPPH患者は、精子や卵子がつくられる際、あるいは受精直後に生じた新生突然変異(de novo変異)が原因です[2]。この場合、患者さんの全身の細胞が変異を持ち、遺伝形式としては常染色体顕性遺伝(優性遺伝)に分類されますが、ご両親の血液を調べても変異は見つからないのが一般的です。
💡 用語解説:新生突然変異(de novo変異)
「de novo」は日本語で新生突然変異と呼ばれます。ご両親のどちらも持っていない変異が、お子さんで初めて生じることを指します。家族歴がなくても発症するのはこのためで、決して「親のせい」ではなく、偶然に起こる現象です。多くのPIK3R2関連MPPHはこのタイプです。
一方、胚発生がある程度進んだ段階で細胞分裂のミスによって変異が生じると、体内に「変異を持つ細胞」と「正常な細胞」がモザイク状に混在します(体細胞モザイク)。この場合、症状は変異細胞の割合(モザイク率)と分布に強く依存します。たとえばG373Rを持っていても、それが低い割合のモザイクであれば、巨脳症や水頭症・多指症を発症せず、限定的な脳の形態異常だけを呈する患者さんも報告されています。
遺伝カウンセリングで最も重要になるのが生殖腺モザイク(Germline mosaicism)です。これは、見た目も血液検査も健康なご両親の卵巣や精巣の一部だけに変異細胞が隠れている状態です。この場合、ご両親自身は発症していなくても、同じ変異を持つ卵子や精子がくり返しつくられるため、第2子以降にも一定の確率で再発しうることになります[2]。実際に同一家系で複数のMPPH患者が生じたケースも報告されており、「再発リスクは非常に低いが、ゼロではない」ことを、十分なエビデンスにもとづいて丁寧にお伝えする必要があります。モザイクと再発リスクの考え方は母体・生殖腺モザイクの解説も参考になります。
6. 過成長症候群クラスター:PROS・MCAPとの違い
🔍 関連記事:過成長症候群(総論)/PIK3CA遺伝子
PIK3R2によるMPPH症候群は、臨床的にMCAP(巨脳症-毛細血管奇形症候群)とよく似ており、しばしば見分けが難しくなります。MCAPは、PI3Kの触媒サブユニットであるPIK3CA遺伝子の体細胞モザイク変異が原因で、「PROS(PIK3CA関連過成長スペクトラム)」を代表する疾患群の一つです。両者はともに発生期のPI3K経路の暴走を原因とするため、巨脳症・多小脳回・水頭症といった中枢神経の異常を強く共有します。
両者は身体的な特徴で区別できます。MPPHでは多指症が多く局所過成長が目立たないのに対し、MCAPでは皮膚の毛細血管奇形と局所的な巨大症が特徴的です。注意したいのは、MPPH(PIK3R2/AKT3/CCND2が原因)は、厳密にはPROS(PIK3CAが原因)には含まれないという点です。両者は「並列する巨脳症スペクトラム」と理解するのが正確です。ただし、遺伝的原因は違っても、PI3K/AKT/mTORという同じ経路の暴走を背景に持つため、後述する分子標的薬の治療戦略では本質的に共通したアプローチが検討されています。クラスター全体の整理は過成長症候群の総論をご覧ください。
7. がんとの関係:オンコジーンとしてのPIK3R2
🔍 関連記事:PTEN遺伝子(がん抑制因子)
発生期の細胞ではなく、成熟した上皮細胞などで後天的にPIK3R2変異が起きると、それは強力ながんのドライバー(推進役)として働きます。長年、PI3K経路の異常はPIK3CA(触媒サブユニット)の変異やPTENの喪失に注目が集まっていましたが、大規模ながんゲノム解析により、PIK3R2自体が重要な「がん遺伝子(オンコジーン)」であることが立証されました[6]。
💡 用語解説:がん遺伝子(オンコジーン)とがん抑制遺伝子
がん遺伝子(オンコジーン)は、活性化すると細胞をがん化へ押し進める「アクセル」のような遺伝子です。一方がん抑制遺伝子は、細胞の異常な増殖を防ぐ「ブレーキ」です。PIK3R2はアクセル側(がん遺伝子)として働き、後述するPTENはブレーキ側(がん抑制遺伝子)の代表です。PIK3R2変異は、アクセルを踏みながら同時にブレーキ(PTEN)も壊すという、二重に悪性度を高める性質を持ちます。
興味深いのは、同じp85ファミリーに属するPIK3R1(p85α)とPIK3R2(p85β)が、がんでは正反対の役割を果たすことです。正常組織で主に発現するPIK3R1は多くのがんで「がん抑制」側に働きますが、PIK3R1が減るとp110はかわりにPIK3R2(p85β)と複合体をつくるようになります。p85βはp85αよりもAKTシグナルを強力かつ持続的に駆動する性質があるため、PIK3R2の過剰発現や機能獲得型変異は細胞の不死化・異常増殖を直接引き起こす、完全な「がん遺伝子」としてふるまいます[6]。
PIK3R2の体細胞変異は悪性黒色腫・卵巣がん・神経膠腫など様々な固形がんで観察されますが、特に頻度が高いのが子宮内膜がんです[7]。通常、がんでは経路内の遺伝子変異は「どれか一つ」のことが多いのですが、子宮内膜がんではPTEN・PIK3CA・PIK3R1・KRAS変異とPIK3R2変異が同一腫瘍内で高頻度に共存するという特異な現象がみられます。さらに重要な知見として、PIK3R1・PIK3R2の特定の変異は、PI3Kの活性を高めるだけでなく、最強のがん抑制タンパク「PTEN」を物理的に不安定化させて分解に導くという、二重の悪性化メカニズムを持つことが解明されています[7]。代表的ながん原性変異としては、子宮内膜がんで同定され、p110αとの相互作用を壊してキナーゼの抑制を完全に解除するN561Dが知られています[5]。PTENの働きについてはPTEN遺伝子の解説もご覧ください。
8. 標的治療の最前線:アルペリシブとSESAM試験
PIK3R2の異常がPI3K/AKT/mTOR経路の過剰活性化に直結するという明確なメカニズムの解明は、これまで対症療法(抗てんかん薬や水頭症へのシャント術)しか選択肢のなかった疾患に対して、分子標的療法という新たな扉を開きました。
mTOR阻害薬(シロリムス)の可能性と限界
mTORはPI3K・AKTの下流に位置する酵素で、シロリムス(ラパマイシン)などのmTOR阻害薬は過成長症候群や血管奇形に対する第一世代の標的薬として長く研究されてきました[9]。一部の患者で病変の縮小や症状の緩和に効果を示しますが、シロリムスはmTOR複合体1のみを阻害するため、経路の最上流に位置するAKTの活性化を完全には抑えきれず、持続的・劇的な退縮効果は限定的でした。長期使用に伴う免疫抑制などの副作用もあり、より根本的な治療法が求められていました。
PI3Kα阻害薬アルペリシブの登場
この限界を打ち破ったのが、触媒サブユニットPI3Kα(p110α)を直接かつ特異的に阻害するアルペリシブ(Alpelisib/BYL719)です。PIK3R2変異は「p110の抑制を解除する」ことで病気を起こすため、暴走しているp110αそのものを止めれば、シグナルを最上流でシャットダウンできるという論理にもとづきます[9]。2022年、米国FDAは重度のPROS(PIK3CA関連過成長スペクトラム)の2歳以上の患者に対してアルペリシブを承認し、外科的切除や硬化療法をくり返すしかなかった患者に、病変の大幅な縮小と臨床症状の改善をもたらしつつあります。
💡 用語解説:アルペリシブ(PI3Kα阻害薬)
PI3Kの触媒部分であるp110αの働きをピンポイントで止める分子標的薬です。PIK3R2のブレーキ破綻で暴走したp110αを直接抑えることで、経路の最上流でシグナルを止めます。なお本記事は最新の研究動向の紹介であり、特定の治療を推奨するものではありません。投与の可否や適応は、専門の医療機関で個別に判断されるべきものです。
神経認知機能の改善を狙うSESAM試験
アルペリシブは軟部組織や血管奇形の過成長には劇的な効果を示しますが、MPPHやMCAPで最大の課題である中枢神経症状(重度の知的障害・自閉症様症状・てんかん)に効くかは、これまで未知数でした。薬が血液脳関門を十分に通過し、脳内で効果を発揮できるかが明確でなかったためです。この疑問に答えるべく、フランスを中心とする多施設共同第II相試験「SESAM試験」が進行中です[10]。神経認知機能障害を持つMCAP/PROS患者(2〜40歳)を対象に、最初の6か月は二重盲検プラセボ対照で有効性を評価し、その後オープンラベルに移行する設計です。
この試験が画期的なのは、主要評価項目を単なる腫瘍の縮小ではなく、「Vineland適応行動尺度(VABS-II)における改善」——つまり言語発達・運動スキル・社会性といった生活の質の改善に置いている点です[10]。この結果は、PIK3R2を原因とするMPPH患者にとっても、難治性の神経症状に対する根本的治療の適応拡大につながる試金石として注目されています。また、成長期の小児での高血糖などの副作用を考慮し、糖尿病治療薬メトホルミンを補助的に用いる基礎研究も進んでおり、年齢や重症度に応じたテーラーメイド治療の確立が模索されています[9]。
9. 遺伝学的診断との接続:出生前と出生後
🔍 関連記事:遺伝カウンセリングとは/臨床遺伝専門医とは
PIK3R2変異の同定は「出生前」と「出生後」で目的も方法も異なります。両者を混同しないことが大切です。なおPIK3R2関連疾患の多くは新生突然変異(de novo変異)で生じ、家族歴がないことが大半である点も、検査設計を考えるうえで重要です。
遺伝子の変異が見つかった後は、ご家族への丁寧な遺伝カウンセリングが欠かせません。PIK3R2関連疾患は症状の幅が広く、出生前に見つけることが常に利益になるとは限りません。だからこそ、特定の検査を勧めたり、安心を保証したり、不安をあおったりすることなく、医師はあくまで情報提供者として中立・非指示的な立場を保ち、決定はご家族に委ねることが大切です。当院では臨床遺伝専門医が、検査で得られるもの・得られないもの・結果の意味づけ・再発リスク・選択肢の整理までを一貫してお伝えします。なおNIPTで気がかりな結果が出た際の経済的・心理的サポートとして、互助会の仕組みも整えています。
よくある誤解
誤解①「がん遺伝子だから、変異があれば必ずがんになる」
PIK3R2が「がん遺伝子」として働くのは、大人になってから特定の細胞に後天的に変異が起きた場合です。MPPHの患者さんが持つ生まれつきの変異は、脳の発達に影響するものであり、そのまま全身のがん化を意味するわけではありません。
誤解②「親に変異がなければ次の子は絶対に大丈夫」
血液検査で親に変異がなくても、生殖腺モザイクの可能性があるため、再発リスクはゼロとは言い切れません。確率は非常に低いものの、丁寧な遺伝カウンセリングで正確に理解することが大切です。
誤解③「日本ですぐにアルペリシブで治療できる」
アルペリシブはPROSに対して海外で承認されていますが、SESAM試験など神経症状への効果は現在も研究段階です。適応や投与の可否は専門施設での慎重な判断が必要で、本記事は治療を推奨するものではありません。
誤解④「NIPTで陽性なら診断確定」
NIPTはあくまでスクリーニング(ふるい分け)検査です。陽性の場合は羊水検査・絨毛検査による確定診断が必要で、結果の意味づけは遺伝カウンセリングで丁寧に行われます。
よくある質問(FAQ)
🏥 PIK3R2・過成長症候群のご相談
MPPH症候群・過成長症候群など
PIK3R2に関する遺伝子検査・遺伝カウンセリングは
臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにお気軽にご相談ください。
参考文献
- [1] Rivière JB, Mirzaa GM, O’Roak BJ, et al. De novo germline and postzygotic mutations in AKT3, PIK3R2 and PIK3CA cause a spectrum of related megalencephaly syndromes. Nat Genet. 2012. [PubMed 22729224]
- [2] MPPH Syndrome. GeneReviews®, NCBI Bookshelf. [NBK396098]
- [3] PIK3R2 gene. MedlinePlus Genetics. [MedlinePlus]
- [4] Megalencephaly-Polymicrogyria-Polydactyly-Hydrocephalus Syndrome 1 (MPPH1). OMIM #603387. [OMIM 603387]
- [5] Somatic PIK3R2 / PIK3R2 N561D. OncoKB™. [OncoKB]
- [6] The Opposing Roles of PIK3R1/p85α and PIK3R2/p85β in Cancer. Trends in Cancer (review). [ResearchGate]
- [7] High Frequency of PIK3R1 and PIK3R2 Mutations in Endometrial Cancer Elucidates a Novel Mechanism for Regulation of PTEN Protein Stability. Cancer Discovery. [PMC3187555]
- [8] PIK3R2/Pik3r2 Activating Mutations Result in Brain Overgrowth and EEG Changes. Ann Neurol. [PMC8176885]
- [9] PIK3CA-related overgrowth spectrum: From genetic mechanisms to targeted treatment with alpelisib. Journal of Genetic Medicine. [J Genet Med]
- [10] A phase II double-blind, placebo-controlled trial to assess alpelisib (BYL719) in MCAP: the SESAM study protocol. PMC. [PMC11667470]
- [11] PIK3R2. SFARI Gene. [SFARI Gene]



