みなさま。こんばんわ。
実はわたしは、がん薬物療法専門医というがんの専門医です。
これ自体も少ない専門医で、わたしはそもそも遺伝性腫瘍を診療するために臨床遺伝専門医となりました。
臨床遺伝専門医としては、わたしは日本で最も古くから臨床遺伝部をもつ兵庫医科大学で研修しました。
そこで出生前診断も指導医のもと当然お勉強したわけですが。
わたしが臨床遺伝専門医修行中の2010年ごろ、すでに遺伝性腫瘍は世界では出生前診断の対象としている国があったから、いつか日本もそんな時代が来るのでガンの専門家として備えねばならないという危機感からでしたが。
それとは別に、わたしのターニングポイントとなったかなという症例についてお話しします。
その人は、救急車で入院してきました。
最初は別の科に入院していたのですが、翌日腫瘍内科の私のところにかわりました。
乳がんの眼球転移でほとんど失明してたんです。
全身のありとあらゆる骨転移もありました。
乳がん自体は7年まえに本人としては気づいていたそうです。
どうして病院にいかなかったの?
そう尋ねた私に彼女は言いました。
生きる希望がなかったから。
彼女は20代で結婚しました。
そして順調に妊娠し、出産しました。
ところが、生まれたお子さんは、メロシン欠損型筋ジストロフィーという非常に珍しい常染色体劣性遺伝形式の筋ジストロフィーだったんです。
当時、あまりよい人工呼吸器はありませんでした。
彼女は広尾にある日赤の近くに転居し、一生懸命通ったそうです。
お子さんが無事に大きくなることだけを願って。
しかし。今みたいに在宅医療も充実していません。家で痰を取ることも難しかった時代。お子さんは1歳になるかならないかくらいでなくなってしまいました。
それからの彼女は、妊娠することも怖くて仕方がなくて。
彼女はずっとそれから亡くなった我が子のことばかり考えて暮らしました。
そして15年近くの歳月が流れ。彼女の胸にはしこりができたのですが。彼女は病院に行こうとしませんでした。
夫は病院に行くことを勧めたそうですが、彼女は拒否したそうです。
無理に受診させることもできず。
7年の歳月が流れ。
全身の骨に転移して。脊髄が侵されて動けなくなり。
眼球に転移して目も光がかすかに見える程度となり。
夫の病院に行こうという言葉に彼女は初めてうなづきました。
そして救急車を呼びましたが。そんな状態なので受け入れてくれる医療機関を探すのに3時間以上かかったそうです。
隣の市町村にあるわたしの勤務先に運ばれてきて。
入院翌日から担当医になった私は、心を閉ざし続ける彼女から何があったのか聞き出すのに時間がかかりました。
一日一日。
痛みを取ったり、いろんな話をしたり。
彼女と信頼関係を築いていくと、段々と話をしてくれるようになりました。
そして完全に失明した彼女はわたしに言いました。
先生、わたしを殺してください。
どんな理由があれ、安楽死させることはできません。わたしの医師免許がなくなります。
しかし、彼女は言いました。
目も見えなくなり、体も動かせなくなり、いまから死ぬまでこの真っ暗な世界でただひたすら待てって言うんですか?
そしてわたしは、患者さんの夫と話し合いました。どういう意見をお持ちなのか。
患者の夫は、好きなようにさせてあげてほしいといいました。
その夫の一言も大きいですよね。
だって、我が子を失ってからずっと妻は失った我が子のことばかり見ていて、自分がいても幸せだとは思ってくれなかったんですよね。その状態でそれでも彼は妻を思い続け、最後の最後に妻を眠らせてあげてくれ、とわたしに懇願したんです。
わたしは、がん専門医として「最後の瞬間まで自分らしく生きる支援をする」ことを大切にしてきましたので、「眠らせる」つまり、意識レベルを落とすという選択は当然好きではありません。
そしてそこには、倫理的な問題も横たわっています。
わたしは、一晩悩みました。
そして決めたんです。
彼女を眠らせよう、と。
もちろん、わたしの診療スタンスからすると彼女を眠らせることは敗北です。
彼女を支えきれなかったので彼女はそう願っているわけなので。
しかし。それはもう、わたしの好き嫌いの問題なので。彼女とは関係ないことです。
一人の人間として、死に方を選んだ彼女。
合法的である限り、医師としてそれを支えよう。
そう思いました。
そしてそれを決断することを後押ししたわたしの経験が、医学部6年生の臨床実習にあります。
小児科で、脊髄性筋萎縮症SMAの最重症型、ウェルドニッヒ・ホフマン(Werdnig-Hoffmann)病のお子さんが産まれてからずっと小児科病棟に入院していて、1歳くらいでしたが、やはり肺炎でなくなったのを見てたんです。お母さんはやっぱり、こんなからだに産んでごめんねって言ってました。
脊髄性筋萎縮症もメロシン欠損型筋ジストロフィーも常染色体劣性遺伝性疾患です。
たまたまの組み合わせでお子さんが病気になる。
小児科はお子さんしか診療しません。
産婦人科は胎児の間しか診療しません。
だけど、ママとパパの人生はそれからも続いていく。
実際我が家も一卵性双生児の一人を失って、一人無事に産まれましたが、一人失ったことは大きく、もうすぐ29年になろうとしていますが、やはり大きな影をおとしています。
彼女は失った子供を思い、殻に閉じこもってしまいました。
そんな彼女のことを、小児科は気にしません。小児科はお子さんを見るのが仕事なので。
そして彼女は取り残され。
お子さんをなくして15年後、乳がんを発症したのに気づいていたのに、「やっと死ねる」と思って病院に行くのを拒んだ。
7年もかかるなんて思っていなかったそうです。
そういう人がいるという現実は、がん専門医としてではなく、臨床遺伝専門医としてのわたしを押しつぶしました。
なんてことだ…
そしてわたしには、彼女の願いを拒絶する勇気なんてありませんでした。
彼女はまさに、遺伝診療の被害者です。全然その後なんの支援も受けなかったので。
もちろん。これは別に広尾日赤を非難するものではありません。
そういう時代だったので。
しかし。これからはそんなことがないようにしていかないといけないのではないか?
少なくともいまだに、遺伝病のお子さんが生まれたのに、次子のリスクもちゃんと説明しない医療機関がたくさんあります。
わたしは彼女の消極的安楽死を受け入れました。
輸液は必要最小限、痛み止めのモルヒネはちゃんと使う。
そして、意識レベルを落とすための薬を持続投与する。
麻酔科標榜医の資格も持っているので、この辺はお得意です。
眠る薬を投与する前、わたしは彼女に言いました。
旦那様にちゃんと気持ちをつたえて頂戴。
彼女はこれまでの伴侶としてまったく申し分なかったと言いました。
そしていよいよ意識がなくなるよ、と言う前に彼女は言いました。
先生、ありがとう。目が見えなくて残念だけど、きっと先生はとても美しいと思うわ。
最高の笑顔で。
そして彼女は眠りにつき、1週間くらいしてなくなりました。
それがわたしの中で、遺伝専門医の免許ががん専門医の免許より重くなった瞬間かな。
きっと彼女はどこかからわたしを見守っていると思います。
先生はがんばってるよ。
あなたのような思いをもう、誰にもさせたくないから。
苦しい時
悩んだ時
涙が出るとき
あなたががんになったころにはあまりインターネットも発達していなかったけど
今はネット社会。
わたしがこうして発信していると、本当に悩んでいる人たちは、わたしを見つけてくれる。
そして連絡をくれる。
誰かの暗闇を照らす灯台でわたしはありたい。
先生がんばるよ。
そっちにいったらちゃんと言ってよね。
先生、がんばったねって。いつかそう言ってよね。
思い出したら涙が出たよ。
いつまでも泣き虫だ(笑)
先生は約束するよ。
いつまでもしつこく頑張るって。
貴方のように生きる希望を失う人が出ないように。
もっとはやくわたしに出会っていたら、あなたは乳癌の治療を受けてくれたのかな?
だからがんばる。
だって。がんの専門医はたくさんいるけど。
がんのことも遺伝のこともわかってる専門医はほとんどいない。
でも。ちゃんとわかっている人がもっとずっと増えるように、先生がんばるね。いつまでも。
あの日、眠るあなたにさよならってわたし、言わなかったでしょ?
さよならっていう代わりに、あなたのような人を出さないようにする、と誓ってたのよ。
壮大な目標だけどね。
課題は尽きないね。
でも。ただただ頑張るよ。
人生ってほんと、シンクロナイズドスイミングみたいだよね。
笑顔で頑張って、見えないところでじたばたして。
でもわたし、がんばるね。