日経メディカルブックス『がん診療UP TO DATE』の著者によるリレーエッセイに,昨年寄稿したものです.
遺伝診療とELSIの観点から見る「アンジェリーナ問題」
2014/5/15 仲田洋美(医師), 望月宣武(弁護士)
2013年5月、アメリカの著名な女優であるアンジェリーナ・ジョリー氏が、BRCA1遺伝子(遺伝子の表記は大文字かつイタリック体で行う)の 病的変異のため、予防的乳房切除術を受けたというニュースが流れました。BRCA1もしくはBRCA2(BRCA1/2はどちらもミスマッチ修復 〔mismatch repair;MMR〕遺伝子)に生殖細胞系変異を有する人のがん発症リスクを低減させるための方法として、予防的乳房・卵巣摘出術や化学予防が提唱され ています。これらはいずれも、ランダム化比較試験(randomized controlled trial;RCT)が行われておらず、エビデンスレベルは低いものです[1]。
確かに、BRCA1の病的変異のある人が、乳がんを発症する率は40~80%と報告されています。しかし、実際のところ、同じ遺伝子変異があって も、どの個体で発症するかを見極める手段はないのが現状です。釈迦に説法ですがあえて触れると、発がんは多段階を経て起こるのであり、MMR遺伝子の病的 変異を有する状態は、その一段階を生来的に踏んでいる状態に過ぎません。
さらに、全国の臨床遺伝専門医を震撼させる事態が報道されました。予防的乳房切除術を行う某病院が、当該病院では倫理委員会の評議を2/3以上の 賛成をもって採択する方針だということが報道されたのです。倫理委員会には歴史的に「全会一致の原則」があります。予防的乳房切除術は、科学的根拠をもっ て確立されているとは言いがたい「実験的治療」です。そもそも、発症していないのだから、「治療」にも当たりません。倫理委員会の運営に対する理解が不足 している医療機関が、「先進的医療」を目指して手を挙げる。しかし、組織の利益と研究者の利益が一致するとき、倫理委員会が有効に機能してこなかったこと は、ゲルシンガー事件(※1)など数多の不幸な歴史が証明しています。
次世代シークエンサーの登場で遺伝子検査技術は飛躍的に進歩しました。技術の進歩に、臨床の体制整備が追い付いていません。そこに、アンジェリー ナ問題が勃発したのです。今回は、「健常な肉体」に予防的にメスを入れるという、予防的乳房切除術のELSI(ethical,legal and social issues:生命科学・医学研究を進めるに当たって社会との接点で生じる様々な問題)を検討します。
Q1 何を満たしていれば、医行為が正当化されるか?
刑法的観点からは、本来、医行為は人の身体を侵襲する行為であり、傷害罪(刑法204条)が成立しうるものです。これが刑法35条(「法令又は正 当な業務による行為は、罰しない」)によって正当化されるためには、次の3つの要件を満たす必要があると一般に解されています[2]。
(1)医学的適応性(治療目的)
(2)医術的正当性(医学的に承認された方法で行われること)
(3)患者の同意(インフォームド・コンセント)
(1)が争われる場面の典型例が、美容整形です。予防的治療においても争点となるでしょう。(2)が争われる場面は、確立していない治療法や、科 学的根拠に欠ける治療法です。前者は臨床試験、後者は免疫療法といったところでしょうか。この論点では、医学的承認の程度も問題となるでしょう。予防的乳 房切除術では、この点も争いとなります。
BRCA1遺伝子の場合、病的変異を有する人が発症する率は40~80%とされますが、報告によってばらつきがあります。また、治療方法が推奨グ レードBの科学的根拠を有するとされるには、適切なRCTが行われる必要がありますが、予防的乳房切除術は高リスク女性に関してRCTで評価されていませ ん[2]。予防的乳房切除術に関する判例はまだ存在しないため、実際に裁判所でどういう判断がなされるのかは不明です。
(3)が争われる場面として、有効な同意と言えるために説明義務を果たしたかということがあります。そして、医学的適応性や医術的正当性に争いがあるような新規療法や特殊療法などについては、より慎重なインフォームド・コンセントが要求されるのです(Q2参照)。
なお、同意傷害(被害者の同意を得て行う傷害)が無罪とされている刑法上、医学的適応性や医術的正当性が欠ける場合であっても、患者(被害者)の 同意があれば傷害罪に当たらないことになります。しかし実際は、承諾の有無、承諾を得た動機、目的、傷害の手段・方法、損傷部位・程度などの諸般の事情を 総合的に勘案して犯罪の成否が決まるところ(最高裁昭和55年11月13日決定)、このような場合の患者の同意は錯誤(勘違い)に基づいており無効である と解され、傷害罪が成立します。
※1 ゲルシンガー事件:1999年にペンシルベニア大学のヒト遺伝子治療研究所において、臨床研究として遺伝子治療を受けた当時18歳の男性患者 (J ゲルシンガー)が重篤な感染症を起こして死亡した。研究者は事前の動物実験により同様の感染症リスクを認識していたにもかかわらず、そのことを患者にもア メリカ食品医薬品局(Food and Drug Administration;FDA)にも知らせていなかったという不法行為が明らかとなった。しかも、同研究所所長が設立したベンチャー企業が研究資 金を提供していたこと、これらを同大学が深刻な問題であると懸念し、長時間検討しながらも是正できなかったことなどが次々に判明し、医学における利益相反 の問題が取り沙汰される契機となった。
Q2 どの程度の説明義務を果たす必要があるか?
予防的治療に関する判例がないため、筑波大アクチノマイシンD判決(※2)を参考とします。東京高裁は、同判決において、「治療が研究段階又は実 験段階にあるとしても、右の治療方法に研究目的、実験目的がなく、専ら臨床上の必要に迫られたものであり、その効果に対する一応の臨床医学的な裏付けがあ ると認められる場合においては、その治療効果の程度、限界又は副作用につき患者等に対して説明してその決定、選択を尊重すべき義務を負う」とし、本件が高 度に先端的治療法であると認定した上で、「この治療方法を採用したことに治療上の過失がないとしても、深刻な副作用を伴う生活ないし生存状況と癌の予後に 伴う生活ないし生存状況や危険性等を衡量して患者のクオリティ・オブ・ライフあるいはより楽な死への過程を考えた医療を選択するために、この種の先端的治 療方法を採ることについて患者等の自己決定を尊重すべき義務があり、そのためにAないしその家族に対して採用しようとする先端的治療方法について厳密に説 明したうえで承諾をとる義務がある」と示しました(東京高裁平成11年9月16日判決)。
同じく、東京地裁は、社会通念上一般的ではないと考えられる特殊な治療法を実施する医師が負う説明義務につき、「医師は、(中略)その特殊な治療 法につき患者が十分に理解して納得した上で契約締結ができるよう、信義則上、患者に対して右治療法の内容等につき一定の説明をする義務を負う」「この場合 に医師が負う説明義務は、通常の診療契約が締結された後に一定の医的侵襲を伴う手術等を実施する際に問題となる医師の説明義務と比べても、より患者の根本 的な自己決定にかかわる場面におけるものといえることから、そこで要求されている義務内容の水準は決して低いものとはいえない」と判示しました(東京地裁 平成12年3月27日判決)。
具体的には、社会通念上一般的な医療でないと考えられる特殊な治療法を実施しようとする医師は、診療契約の締結に先立ち、患者に対し、次のことについて客観的な立場から患者の理解可能な方法で説明しなければならないとされています(上記東京地裁判決)。
(1)実施しようとする特殊な治療法の具体的な内容およびその理論的根拠
(2)患者の現在の状態(病名、病状)
(3)実施しようとする特殊な治療法の一般の治療法との比較における長所および短所
(4)実施しようとする特殊な治療法と一般の治療法それぞれについての臨床における治療成績
(5)実施しようとする特殊な治療法と一般の治療法をそれぞれ当該患者に実施した場合におけるそれぞれの予後の見通し
(6)その他一般の治療法を実施しないことが患者の自己決定を根拠として許容されるために患者が知っておくことが不可欠な事項
以上の通り、現在においてはまだ特殊な治療法と言わざるを得ない予防的乳房切除術については、一般の治療法よりも医学的適応性および医術的正当性が低いことを認識した上で、十分な説明義務を尽くして同意を得ることが求められています。
※2 筑波大アクチノマイシンD判決:子宮がん患者に対して研究段階にあったアクチノマイシンDとシスプラチンの併用療法が行われたところ、患者に 骨髄抑制が発生し、死亡した事故。裁判所は、併用療法を選択したことをもって過失があるとは言えないとしながら、担当医が併用療法の必要性と有効性を強調 し、一般的には標準的治療方法として承認されてはいないという事実を説明しなかったことには説明義務に違反する過失があり、不法行為責任が成立するとし た。
【References】
1)Petrucelli N,et al:GeneReviews(R)[Internet],BRCA1 and BRCA2 Hereditary Breast and Ovarian Cancer.
www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK1247/
2)甲斐克則:医事刑法,加藤良夫編著,実務医事法講義,民事法研究会,2005,p.550.
日経メディカルブックス『がん診療UP TO DATE』の著者によるリレーエッセイに,昨年寄稿したものです.