目次
- 1 1. アルペリシブとは ─ 2つの名前を持つ「狙い撃ち」の薬
- 2 2. なぜ効くのか ─ PIK3CA変異という「入りっぱなしのスイッチ」
- 3 3. 乳がんへの効果(Piqray)─ 変異のある人で無増悪期間がほぼ2倍に
- 4 4. 希少疾患PROSへの効果(Vijoice)─ 過成長の根本にはたらく初の薬
- 5 5. 日本での承認状況 ─ いまだ届かない「ドラッグ・ラグ」
- 6 6. 高血糖の管理 ─ 予防的メトホルミンという転換点
- 7 7. 発疹・下痢の管理 ─ 予防でコントロールする
- 8 8. 薬剤耐性と次世代薬「イナボリシブ」
- 9 9. 検査と遺伝カウンセリングの実際
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
📍 クイックナビゲーション
がんの薬は、いまや「どのがんか」ではなく「どの遺伝子に変化があるか」で選ぶ時代に入りました。その代表例が、アルペリシブ(Alpelisib)です。この薬は、細胞の増殖スイッチであるPIK3CA遺伝子の変化を狙い撃ちし、乳がんでは「Piqray(ピクレイ)」、希少な過成長症では「Vijoice(ヴィジョイス)」という2つの名前で使われています。アルペリシブを理解することは、変異を標的とする「精密医療(プレシジョン・メディシン)」がどう組み立てられ、どこに壁があるのかを理解することにもつながります。本記事では、薬のしくみから効果、副作用の管理、そして日本ではまだ承認されていない現状まで、遺伝専門医がやさしく解説します。
Q. アルペリシブとはどんな薬ですか?まず結論だけ知りたいです
A. アルペリシブは、PIK3CA遺伝子の変異でつくられる「増殖の司令塔」PI3Kαを選んで止める、飲み薬の分子標的薬です。PIK3CA変異のあるHR陽性・HER2陰性の進行乳がん(Piqray)と、希少な過成長症PROS(Vijoice)に使われます。効果が期待できるのは検査で変異が確認された人に限られ、最大の副作用は高血糖ですが、近年は予防法が確立しつつあります。日本では2026年現在、いずれの適応でも未承認です。
- ➤効くしくみ → PIK3CA変異でつくられるPI3Kαを選択的に阻害し、増殖シグナルを遮断する
- ➤乳がん(Piqray) → SOLAR-1試験で、変異のある人の無増悪期間がほぼ2倍に延長
- ➤希少疾患(Vijoice) → PROSに対する世界初の治療薬。リアルワールドデータで承認
- ➤最大の副作用は高血糖 → 薬が効くほど起こる「オンターゲット効果」。予防的メトホルミンで激減できる
- ➤遺伝の要点 → 乳がんのPIK3CA変異は体細胞変異で、家族には遺伝しない
1. アルペリシブとは ─ 2つの名前を持つ「狙い撃ち」の薬
アルペリシブは、PIK3CA遺伝子に変化のあるがん・病気に対して使う飲み薬で、対象となる病気によって2つの製品名で使い分けられます。乳がんでは「Piqray」、希少な過成長症では「Vijoice」です。同じ有効成分でありながら名前が違うのは、それぞれの病気の領域で承認された経緯や適応が異なるためです。ご自身やご家族がどちらの名前で説明を受けたかによって、対象の病気も投与量も変わってくる、という点をまず押さえておくと、以降の説明が整理しやすくなります。
アルペリシブ ─ 病気によって変わる2つの名前
Piqray(ピクレイ)
PIK3CA変異のあるHR陽性・HER2陰性の進行・転移性乳がんに使用。ホルモン療法薬フルベストラントと併用します。
Vijoice(ヴィジョイス)
PIK3CA関連過成長スペクトラム(PROS)のうち、全身治療が必要な2歳以上の重症例に使用します。
アルペリシブは、初期に開発された「汎(はん)PI3K阻害薬」とは性格が異なります。汎PI3K阻害薬はPI3Kのすべての型を一律に止めてしまうため、精神症状や重い肝障害などの副作用が強く、がん治療での開発が難航しました。これに対しアルペリシブは、PI3Kのなかでもp110αという型だけを選んで止める「α選択的PI3K阻害薬」です。狙いを絞ることで、治療に使える幅(治療可能域)を広げた薬だといえます[1]。
🔍 関連記事:PIK3CA遺伝子とは/PI3Kとは/癌遺伝子(オンコジーン)
2. なぜ効くのか ─ PIK3CA変異という「入りっぱなしのスイッチ」
アルペリシブが効くのは、がん細胞の増殖を促すPIK3CA遺伝子の変異という明確な標的があるからです。この変異があるがんは増殖シグナルが止まらなくなっており、そこをアルペリシブが遮断します。逆に言えば、変異がなければ効果は期待できません。「変異があるかどうか」が、この薬を使うかどうかの出発点になります。
PIK3CA遺伝子は、PI3K(ホスファチジルイノシトール3-キナーゼ)という酵素の中心部分(p110α)の設計図です。このPI3Kは、PI3K/AKT/mTOR経路というシグナル伝達の司令塔で、細胞の増殖・生存・代謝を制御しています。ここに変異(E542K・E545K・H1047Rなど)が起こると、スイッチが「入りっぱなし」になり、細胞が止まらずに増え続けます。こうした、がんの主役として増殖を駆動する変異をドライバー遺伝子変異と呼びます。PIK3CA変異は、HR陽性・HER2陰性の進行乳がんの約28〜46%という高い割合で見つかります[2]。
アルペリシブが「増殖の司令塔」を止めるしくみ
スイッチが入る
アルペリシブが遮断
シグナルが止まる
細胞死へ
アルペリシブは変異したPI3KαにATPと競い合って結合し、下流の増殖シグナルを遮断します。これにより細胞周期が止まり、アポトーシス(細胞死)が誘導されます。
「効いているからこそ起こる」高血糖のしくみ
アルペリシブでいちばん重要な副作用は高血糖ですが、これは「薬が的を外した副作用」ではなく、薬が正しく効いているからこそ起こる反応(オンターゲット効果)です。この点を理解しておくと、なぜ血糖の管理が治療の要になるのかが腑に落ちます。ご本人にとっては「血糖が上がる=薬が効いていない」ではない、という理解が、治療を続けるうえでの安心材料になります。
正常な体では、インスリンの信号を受けたPI3Kが、筋肉や脂肪の細胞に「糖を取り込みなさい」と指令を出します(GLUT4という糖の入り口を細胞膜へ運ぶ)。ところがアルペリシブは、がん細胞のPI3Kだけでなく全身の正常なPI3Kも同時に止めてしまうため、糖が細胞に取り込まれず血糖値が上がります。すると膵臓は代わりにインスリンを大量に分泌し、その過剰なインスリンが今度は腫瘍側の別の受容体を刺激して、アルペリシブの遮断を迂回してしまう可能性があります。この全身の代謝の反応は、薬の効き目を部分的に弱める原因にもなると考えられています。
💡 用語解説:オンターゲット効果とは
薬が「本来の標的にきちんと作用した結果」として現れる作用を、オンターゲット効果と呼びます。標的以外に作用して起こる「オフターゲット効果」と対になる言葉です。アルペリシブの高血糖は、標的であるPI3Kαを全身でしっかり止めた結果として起こるオンターゲット効果です。だからこそ完全にゼロにはできませんが、しくみが分かっているぶん、予測して先回りの対策が立てられるという側面もあります。
3. 乳がんへの効果(Piqray)─ 変異のある人で無増悪期間がほぼ2倍に
乳がんに対するアルペリシブは、PIK3CA変異のある人で、がんが進行せずに過ごせる期間をほぼ2倍に延ばすことが示されています。これは「変異のある人にだけ効く」という、精密医療の考え方をはっきり裏づける結果でした。検査で変異が確認された方にとっては、次の治療の見通しを立てる重要な選択肢になります。
アルペリシブは2019年5月24日、FDA(米国食品医薬品局)から「Piqray」として通常承認を受け、乳がんに対する初のPI3K阻害薬となりました[3]。対象は、FDAが承認したコンパニオン診断(CDx)でPIK3CA変異が確認された、ホルモン療法後に進行したHR陽性・HER2陰性の進行・転移性乳がんで、エストロゲンの働きを抑えるフルベストラントと併用します。
🔍 関連記事:コンパニオン診断(CDx)/循環腫瘍DNA(ctDNA)/エストロゲン
決め手となった第III相試験「SOLAR-1」
承認の根拠となったのが、進行乳がん患者572名を対象とした国際共同第III相試験「SOLAR-1」です。患者はPIK3CA変異のあるグループ(341名)と、変異のない(野生型)グループ(231名)に分けられました。主要評価項目である無増悪生存期間(がんが進行せずに過ごせた期間の中央値)は、変異グループでアルペリシブ群が11.0ヶ月、プラセボ群が5.7ヶ月で、進行または死亡のリスクが35%減少しました(ハザード比0.65)[3]。一方、変異のないグループでは差が見られず、この薬が変異に依存して効くことが証明されました。
SOLAR-1:がんが進行しなかった期間(PIK3CA変異グループ)
変異のある人では無増悪期間がほぼ2倍に。変異のない人では差がなく、「変異がある人にだけ効く」ことが示されました。
全生存期間(OS)については、変異グループでアルペリシブ群39.3ヶ月・プラセボ群31.4ヶ月と約7.9ヶ月の延長が見られましたが、あらかじめ定めた厳格な統計基準はわずかに超えられませんでした[4]。ただし、肺や肝臓に転移がある予後不良のグループでは、37.2ヶ月対22.8ヶ月と14.4ヶ月もの大きな生存延長が示されました[4]。腫瘍量が多く侵襲性の高い病態ほど、PIK3CA変異への依存度が高く、経路を遮断する恩恵を強く受けると考えられます。この「統計的有意には届かなかったが、臨床的には意味のある延長」という結果は、数字の読み方の難しさを示す例でもあります。
CDK4/6阻害薬のあとでも効くのか(BYLieve試験)
現在、HR陽性・HER2陰性乳がんの一次治療は「ホルモン療法+CDK4/6阻害薬」が主流です。そこで、CDK4/6阻害薬を使ったあとにアルペリシブが有効かを検証する必要が生まれ、実施されたのが第II相の「BYLieve試験」です。CDK4/6阻害薬+アロマターゼ阻害薬の治療歴がある121名では、アルペリシブ+フルベストラント療法で6ヶ月時点の無増悪生存率が50.4%に達し、目標を達成しました[5]。二次治療の選択肢としても有望であることが示された一方、この試験は比較対照のない単群試験のため、医療技術評価機関のなかには費用対効果の観点から慎重な判断を示すところもあります[5]。
4. 希少疾患PROSへの効果(Vijoice)─ 過成長の根本にはたらく初の薬
アルペリシブは、体の一部が過剰に大きくなる希少な先天性疾患「PROS」に対して、世界で初めて承認された治療薬でもあります。これまで根本的な薬がなかった病気に、原因のしくみそのものへはたらく選択肢が生まれた、という点で画期的でした。お子さんがこの病気と診断されたご家族にとって、外科手術や経過観察以外の道が示された意義は大きいものです。
PIK3CA関連過成長スペクトラム(PROS)は、発生のごく初期に体の一部の細胞でPIK3CA変異が起こることで生じる病気の総称です。CLOVES症候群やKlippel-Trenaunay症候群(KTS)、巨指症などが含まれ、血管の奇形や、手足・体の一部の非対称な過成長を特徴とします[6]。従来は対症療法や外科的切除に頼るしかありませんでしたが、アルペリシブは過成長の根本にあるPI3Kαを直接止めることで、病態のしくみに介入します。
承認を支えた「EPIK-P1」とリアルワールドデータ
2022年4月5日、FDAはアルペリシブ(Vijoice)を、全身治療が必要な2歳以上の重症PROS患者に対する初の治療薬として迅速承認しました[7]。この承認で特筆すべきは、通常の前向き臨床試験ではなく、人道的配慮で薬を提供された患者の医療記録=リアルワールドデータ(RWD)を用いた「EPIK-P1試験」を根拠とした点です。良性(非がん性)の病気に対して、病変の体積が縮小したかどうか(画像的奏効)を主要な指標に採用した点も、規制の考え方における大きな節目となりました[7]。
EPIK-P1試験の結果(有効性解析37名)
27%
60%
奏効した患者のうち、効果が12ヶ月以上続いた割合
画像上の縮小に加え、臨床記録からも痛みの軽減や機能の回復といった改善のシグナルが支持されました。
👶 お子さんに使う際に知っておきたいこと
PROSの患者さんは主に小児です。動物実験では、アルペリシブが骨の成長板や歯の発達に影響を及ぼす可能性が報告されているため、成長・骨格発達の継続的なモニタリングが欠かせません[7]。小児では成人より少ない用量から慎重に開始されます。もっとも一般的な副作用は下痢・口内炎・高血糖でした。長く使ううえでは、効果だけでなくお子さんの成長への影響を一緒に見守っていく視点が大切になります。
5. 日本での承認状況 ─ いまだ届かない「ドラッグ・ラグ」
アルペリシブは世界で広く使われていますが、日本では2026年現在、乳がん・PROSのいずれの適応でも未承認です。有効な薬が海外で使えても国内では使えない、この「ドラッグ・ラグ」は、日本の患者さんにとって切実な問題です。ご自身やご家族がこの薬を検討する場合、まず「日本ではまだ保険診療で使えない」という前提を知っておくことが、現実的な選択を考える出発点になります。
世界の承認状況(2026年時点)
2019年5月 乳がん承認
2022年4月 PROS承認
🇪🇺 欧州(EMA)
2020年7月
乳がん承認
🇯🇵 日本(PMDA)
2026年現在
未承認
日本のこの状況は、近年問題視される「ドラッグ・ラグ」「ドラッグ・ロス」の典型例として、学術研究でもたびたび取り上げられています[8]。米国で迅速承認された抗がん剤のうち、日本で未承認の薬は、比較対照のない試験や第III相試験の少なさといった評価上の課題を抱えていることが指摘されています[8]。アルペリシブでも、日本を含むアジア人集団を対象とした国際共同第III相試験の登録は完了しているものの、承認には至っていません。国内の未承認薬情報でも、乳がんに対するアルペリシブは未承認薬として掲載されています[19]。
⚠️ 未承認薬にアクセスする際の注意
日本の患者さんがアルペリシブにアクセスするには、個人輸入代行を利用するか、未承認薬を用いる臨床試験に参加する方法があります。しかしいずれも経済的・肉体的な負担が大きく、品質・安全性・薬物相互作用のリスクも伴います。とくにアルペリシブは重い高血糖を起こしうる薬ですので、自己判断での使用は危険です。検討される場合は、必ずがん薬物療法や遺伝診療の専門家にご相談ください。
6. 高血糖の管理 ─ 予防的メトホルミンという転換点
アルペリシブ最大の副作用である高血糖は、いまや「先回りして防ぐ」ものになりつつあります。とくに糖尿病薬メトホルミンをあらかじめ飲み始める方法で、重い高血糖を大きく減らせることが分かってきました。血糖の管理さえ整えば治療を続けやすくなる、という見通しは、これから治療を受ける方にとって心強い材料です。
SOLAR-1試験では、アルペリシブ群の36.6%が重度(グレード3/4)の高血糖を経験しました[9]。この管理を一変させたのが、第II相「METALLICA試験」です。アルペリシブ開始の1週間前からメトホルミンを予防的に飲み始める戦略の効果は劇的で、投与後最初の8週間の重度高血糖は、ベースライン血糖が正常な人でわずか2.1%、前糖尿病の人で15.0%まで下がりました[10]。
予防的メトホルミンで重症高血糖(グレード3-4)が激減
正常血糖の人では重症高血糖がわずか2.1%に激減。さらに高血糖を理由とした治療中止は0%でした。
加えて「ITACA試験」では、アルペリシブを「夕方・5時間以上の絶食後」に飲み、低炭水化物食を組み合わせることで、効果やQOLを損なわずに重症高血糖の発症を大幅に遅らせられることが示されました[11]。薬だけでなく、飲むタイミングと食事の工夫でもリスクを下げられる、という点は、日常生活のなかで実践できる対策として重要です。
🚨 まれだが最も危険:糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)
高血糖が急激に進むと、命に関わる糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)を起こすことがあります。報告例では、食事療法のみで管理されていた66歳の前糖尿病の方が、アルペリシブ開始からわずか2週間で血糖値1137mg/dLの重篤なDKAで入院しています[12]。多くの症例で投与開始直後(最短で4〜5日)という早い時期に発症しており、のどの渇き・多尿・吐き気・強い倦怠感などがあればすぐ受診が必要です。特に2型糖尿病のある方は再投与時のリスクが高く、慎重な管理が求められます。
誰が重い高血糖を起こしやすいかを予測する研究も進んでいます。空腹時血糖・BMI・HbA1c・単球数・年齢という5つの特性から重症高血糖のリスクを見積もる機械学習モデルが開発されており、早めの介入に役立つと期待されています[13]。ベースラインのHbA1cが高い人ほどリスクが高いことも、実臨床のコホート研究で確認されています[14]。
7. 発疹・下痢の管理 ─ 予防でコントロールする
高血糖に次いで多い副作用が発疹と下痢です。これらも「出てから対処する」のではなく、あらかじめ予防することでコントロールしやすくなります。副作用の見通しが立つことは、治療を最後までやり遂げる支えになります。
アルペリシブは高い頻度(全グレードで約35.6%)で発疹を起こします[9]。専門家パネルは、デルファイ法という手法で合意を形成し、すべての投与患者に対する予防的な抗ヒスタミン薬(セチリジンなど非鎮静性のH1抗ヒスタミン薬)の内服を強く推奨しています[9]。発疹が出た場合は抗ヒスタミン薬の増量とステロイド外用薬の併用が第一選択となりますが、顔や唇にむくみ(血管浮腫)が出た場合は、直ちに休薬して医師の指示を仰ぐ必要があります。
下痢もよくある副作用です(SOLAR-1で57.7%)[9]。特にメトホルミンを予防的に併用すると、メトホルミン自体の消化器への作用も重なるため、下痢の頻度が上がることがあります[10]。このため、メトホルミンを少量から徐々に増やす工夫や、止瀉薬(ロペラミドなど)の適切な使用が重要になります。副作用どうしの重なりを見越して、あらかじめ対策を組み立てておくことが、治療の質を保つ鍵になります。
8. 薬剤耐性と次世代薬「イナボリシブ」
アルペリシブはよく効きますが、やがて耐性が生じてがんが再び進行することがあります。アルペリシブに続く次世代のPI3Kα標的薬も実用化され始めており、治療の選択肢は着実に広がっています。いま治療を受けている方にとっては、「この薬の先にも道がある」という見通しが持てることに意味があります。
主な耐性のしくみには、がん抑制遺伝子PTENの喪失(細胞がPI3Kαへの依存からβ型への依存へ切り替わる)、エストロゲン受容体の遺伝子ESR1の変異、FGFR1/2の増幅などが知られています[15]。これらは、アルペリシブが遮断した経路を別ルートで補う「迂回路」として働きます。
🔍 関連記事:PTEN遺伝子/がん抑制遺伝子/受容体チロシンキナーゼ(RTK)
アルペリシブの「弱点」を克服する分解型の薬
アルペリシブは変異したPI3Kαの働きを止めるだけで、タンパク質自体は細胞内に残ります。すると、そのフィードバックとして受容体チロシンキナーゼ(RTK)が活性化し、薬の効果をすり抜けてしまいます。この弱点を克服したのが、次世代薬イナボリシブ(Inavolisib)です。イナボリシブは変異したPI3Kαに結合して構造変化を起こし、HER2などのRTKに依存する形で変異タンパク質そのものを分解へと導きます[16]。タンパク質が物理的に消えるため、迂回のためのフィードバックが働きにくく、より深く持続的に経路を抑えられると期待されています。イナボリシブは2024年10月10日、PIK3CA変異を有するHR陽性・HER2陰性の局所進行・転移性乳がんに対し、パルボシクリブ+フルベストラントとの併用でFDA承認されています[18]。
実際、イナボリシブとCDK4/6阻害薬パルボシクリブ、フルベストラントを組み合わせたINAVO120試験では、無増悪生存期間が7.3ヶ月から15.0ヶ月へと倍増したと報告されています[17]。アルペリシブが切り拓いた道の先で、次世代のPI3Kα標的治療はすでに実臨床へ導入され始めています。今この瞬間の選択肢だけでなく、その先の治療戦略も視野に入れて治療を考えられる時代になってきた、といえます。
9. 検査と遺伝カウンセリングの実際
アルペリシブは「変異があって初めて効く薬」ですから、使う前提としてPIK3CA変異を調べる検査が欠かせません。そして、その検査結果が「家族に遺伝するのか」というご不安につながることも少なくありません。ここを正しく整理しておくことが、余計な心配を一つ減らすことにつながります。
🔍 関連記事:体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがい/体細胞モザイク/臨床遺伝専門医とは
PIK3CA変異を調べる場面は、大きく2つに分かれます。それぞれ、調べる検体も結果の意味も違います。
ここで大切なのは、乳がんのPIK3CA変異も、PROSの変異も、生まれつき全身の細胞が持つ変異ではないという点です。乳がんのPIK3CA変異は、がん細胞だけに後から起きた体細胞変異で、ご家族に遺伝することはありません。PROSは、発生のごく初期に体の一部の細胞で起きたモザイク型の体細胞変異で、これも次世代への継承は基本的にありません。これは、生まれつき全身の細胞が変異を持ち、家族性に受け継がれる遺伝性乳がん卵巣がん(HBOC)のBRCA変異とは、性質がまったく異なります。
当院では、こうした検査の前後で臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合う内容は、検査で何が分かり何が分からないのか、結果がご本人やご家族にとってどのような意味を持つのか、といった点です。「体細胞変異だから家族に遺伝しない」という一点を正確にお伝えするだけでも、多くの方の不安が軽くなります。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担うと考えています。
10. よくある誤解
アルペリシブについては、いくつか誤解されやすい点があります。正しく理解しておくことが、治療への不安をやわらげ、納得して選択するための助けになります。
誤解①「乳がんのPIK3CA変異は子どもに遺伝する」
乳がんで見つかるPIK3CA変異は、がん細胞だけに後から生じた体細胞変異です。生まれつきの変異ではないため、原則としてお子さんやご家族に受け継がれることはありません。BRCA変異による遺伝性乳がんとは別のものです。
誤解②「高血糖が出たら薬が効いていない」
高血糖は、薬が標的をしっかり止めた結果として起こるオンターゲット効果です。効いていないどころか、しくみのうえでは避けにくい反応です。予防的メトホルミンや食事の工夫で管理しながら治療を続けられます。
誤解③「変異がなくても効くはず」
SOLAR-1試験では、PIK3CA変異のない人では効果が見られませんでした。だからこそコンパニオン診断で変異を確認してから使います。「変異があるかどうか」がこの薬の前提です。
誤解④「日本でもすぐ使える」
2026年現在、日本では乳がん・PROSのいずれも未承認です。個人輸入や臨床試験という道はありますが、負担やリスクを伴います。自己判断は避け、専門家にご相談ください。
📌 このページを読んだあなたへ
この記事にたどり着いた方は、ご自身やご家族の乳がんでPIK3CA変異を指摘された、お子さんがPROSと診断された、あるいは未承認薬としてのアルペリシブを検討している、といった状況かもしれません。次に確認しておくとよい観点を挙げておきます。
・その変異が体細胞変異か、家族に関わるものかの整理 → 体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがい
・検査の受け方と結果の意味 → コンパニオン診断(CDx)/循環腫瘍DNA(ctDNA)
・PROSという病気そのものの理解 → PIK3CA関連過成長スペクトラム(PROS)
よくある質問(FAQ)
🏥 PIK3CA変異・遺伝子検査に関するご相談
乳がんのPIK3CA変異・PROS・遺伝子検査に関する
ご不安や疑問については
臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにご相談ください。
本記事は情報提供のみを目的としています。医学的なアドバイス・診断・治療方針の決定(薬剤の用量調節、糖尿病性ケトアシドーシスのインスリン管理、発疹へのステロイド処方など)については、必ず専門の医療従事者にご相談ください。
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