目次
- 1 1. ICH M7とは:「ゼロ」から「科学的な許容量」へのパラダイム転換
- 2 2. 変異原性不純物とは:なぜ“微量”でも問題になるのか
- 3 3. ハザード評価とクラス1〜5の分類システム
- 4 4. QSAR:コンピュータで毒性を予測する
- 5 5. TTC:どこまで許してよいかの「ものさし」
- 6 6. 管理戦略:4つのオプションとパージファクター
- 7 7. 懸念されるコホート(CoC)とニトロソアミン問題
- 8 8. ICH M7(R2)への改訂:新しい許容摂取量と「閾値を持つ変異原」
- 9 9. 遺伝医療とのつながり:変異原性・QSAR・発がん
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
お薬の中には、製造の途中でほんのわずかに混ざってしまう「変異原性不純物(DNAを傷つけて発がんにつながりうる微量の物質)」が存在することがあります。これをどこまで許してよいのか、どう測って・どう管理するのかを世界共通のルールとして定めたのがICH M7ガイドラインです。本記事では、コンピュータで毒性を予測する「QSAR」、許容量の考え方である「TTC」、そして近年大問題になった「ニトロソアミン」までを、専門外の方にもわかるように臨床遺伝専門医が解説します。「変異原性」は、遺伝子診療が扱う“変異”や“発がん”とまさに地続きのテーマです。
Q. ICH M7とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. ICH M7は、医薬品に含まれるごく微量の「変異原性(DNA反応性)不純物」を評価し、発がんリスクを“無視できるレベル”に抑えるための国際ガイドラインです。化学構造から毒性を予測するQSAR、生涯飲み続けても安全と考えられる量の目安であるTTC(原則1.5 µg/日)、そして不純物を5段階に分けて管理する仕組みが柱です。「ゼロにする」のではなく「科学的根拠に基づいて安全な閾値まで管理する」という考え方へ転換させた、現代の規制科学の金字塔です。
- ➤何を管理するか → DNAと反応して突然変異を起こしうる微量不純物(=変異原性=遺伝毒性)
- ➤どう見分けるか → 構造の警告(アラート)+2種類のQSAR+Ames試験でクラス1〜5に分類
- ➤どこまで許すか → TTC=原則1.5 µg/日(生涯で10万人に1人未満の理論リスク)
- ➤どう抑え込むか → 最終製品の試験から「工程でちゃんと消える」証明まで4つの管理オプション
- ➤最大の課題 → 特に強力な「ニトロソアミン」問題と、それに対応するCPCAという新しい枠組み
1. ICH M7とは:「ゼロ」から「科学的な許容量」へのパラダイム転換
医薬品の原薬(有効成分)は、複雑な化学合成のステップを経て作られます。その過程では、反応性の高い試薬・触媒・溶媒や、時間が経って生じる分解物など、さまざまな微量不純物が混ざるリスクが常にあります[1]。なかにはDNAと直接反応して突然変異を起こす「変異原性(DNA反応性)」を持つ不純物が含まれることがあり、ごく微量でも長期に摂取すれば理論上わずかに発がんリスクを高めうるため、品質・安全性の重大な課題とされてきました[1]。
かつての規制は「分析できる限りゼロに近づける(ALARP:合理的に実行可能な限り低く)」という発想でした。しかし分析技術が進歩し、ピコグラム(pg)やppt(parts per trillion=1兆分の1)レベルの極微量まで検出できるようになると、毒性学的にはほとんど意味のない量まで過剰に管理することが、かえって医薬品開発の足かせになってしまいました。この発想を根本から変え、「科学的根拠に基づくリスク管理」へと舵を切ったのがICH M7です[1][2]。
💡 用語解説:ICH M7(アイ・シー・エイチ エム・セブン)
ICHは「医薬品規制調和国際会議」の略で、日本・米国・欧州などの規制当局と製薬業界が、医薬品のルールを世界共通にするための組織です。そのうち「M7」は、正式名称を「潜在的発がんリスクを低減するための医薬品中DNA反応性(変異原性)不純物の評価及び管理」といいます。2014年に最初に作られ、2017年(R1)、2023年(R2)と改訂されてきました[2][3]。
中心となる哲学はシンプルで、患者さんの曝露を「無視できるレベルのリスク(negligible risk)」に保ちつつ、実用的で合理的な閾値を設けること[1]。そのために、(1) 不純物を構造とデータでクラス分けし、(2) 動物実験の代わりにコンピュータ予測(QSAR)を活用し、(3) TTC(許容摂取量の包括的な目安)を導入する——この3本柱で運用されます。
なお、ICH M7はすべての薬に無条件で当てはまるわけではありません。たとえば進行がんの患者さん向けの抗がん剤(ICH S9の対象)は、主薬そのものが強い細胞毒性を持ち、微量不純物の発がんリスクより治療上の利益が圧倒的に上回るため、対象外とされています[1]。また、Ames試験(後述)で陰性なのにホルモン作用などの別の仕組みで発がん性を示す非DNA反応性の物質(例:アセトアミド)も、ICH M7ではなく一般の不純物ガイドライン(ICH Q3A/Q3Bなど)で扱われます[1]。
2. 変異原性不純物とは:なぜ“微量”でも問題になるのか
🔍 関連記事:変異原性(遺伝毒性)とは/点突然変異とは/DNA修復とは
「変異原性」とは、DNAや染色体に突然変異を引き起こす性質のことで、「遺伝毒性(genotoxicity)」とほぼ同じ意味で使われます。変異原性不純物は、DNAの塩基と化学的に結合(多くはアルキル化など)して点突然変異を引き起こすことがあります。
💡 用語解説:変異原性不純物(DNA反応性不純物)
薬の中に意図せず混ざる微量の化学物質のうち、DNAと直接反応して傷をつけ、遺伝情報の「書き換え(変異)」を起こしうるものを指します。代表的な“危ない構造”には、エポキシド・芳香族アミン・アルキルハロゲン化物・ニトロソアミンなどがあります。
変異が、細胞の増殖を制御する遺伝子(がん原遺伝子・がん抑制遺伝子)に積み重なると、長い時間をかけて発がんにつながることがあります。だからこそ「微量でも管理する」必要があるのです。
ただし、私たちの体は無防備ではありません。細胞は毎日、代謝や紫外線・活性酸素によって膨大な数のDNA損傷を受けていますが、その大半はDNA修復のしくみで直されます。アルキル化や酸化といった損傷の具体的なメカニズムは、当院の遺伝性腫瘍総論(DNA修復機構)でも詳しく解説しています。問題は、修復をすり抜けた変異が、増殖や生存に関わる遺伝子に蓄積したときです。少量の変異原でも、長期間にわたって繰り返し曝露されれば、確率的にこのリスクがわずかに上乗せされる——これがICH M7が「微量」にこだわる理由です。
変異の“種類”によって体への影響は変わります。ミスセンス変異(アミノ酸が1つ置き換わる)、ナンセンス変異(途中でタンパク質合成が止まる)、フレームシフトなど、変化のタイプはさまざまです。一見“無害”に見えるサイレント変異(同義置換)でさえ病気の原因になりうることが分かってきており、「変異=即・有害」とも「微量=即・無視してよい」とも単純に言えないのが、この分野の難しさです。
💡 用語解説:ミスセンス変異
DNAの1文字(塩基)が別の文字に置き換わった結果、設計図がコードするアミノ酸が1つ別のものに変わってしまう変異です。タンパク質の重要な場所で起これば機能が大きく損なわれ、病気の原因になることがあります。変異原性不純物が起こしうる「典型的なDNAの書き換え」のひとつです。
3. ハザード評価とクラス1〜5の分類システム
不純物は、利用できる毒性データ・文献・構造的特徴に基づいて、クラス1からクラス5のいずれかに分類されます。限られたデータでも、効率的で合理的な管理戦略を組めるようにするための仕組みです[1]。
分類は論理的な分岐をたどります。まず「既知の変異原性発がん物質か?」→該当すればクラス1。次に「発がんデータはないが既知の変異原物質(Ames陽性)か?」→クラス2。続いて構造の警告(アラート)の有無を見て、主薬と無関係でデータがなければクラス3、主薬と共通のアラートで主薬自体が陰性ならクラス4、アラートがない(または追加試験で陰性)ならクラス5です[1]。クラス1〜3は微量でも厳格な管理対象、クラス4・5は変異原性に基づく管理からは外れる、と覚えると整理しやすいです。
💡 用語解説:Ames試験(エームスしけん)
細菌(主にサルモネラ菌や大腸菌)を使って、ある化学物質がDNAに変異を起こす力(変異原性)を調べる試験です。アミノ酸を自分で作れない細菌が、試験物質によって作れるように“復帰”するかどうかを見ます。復帰が増えれば「変異原性あり」と判定します。ICH M7では、このAmes(細菌復帰突然変異試験)がDNA反応性を判定する最も重要な指標として位置づけられています。詳しくは当院の変異原性のページもご覧ください。
4. QSAR:コンピュータで毒性を予測する
ICH M7の最も革新的な要素のひとつが、動物実験や細胞試験を行わず、コンピュータで毒性を予測する「QSAR」を公式に推奨した点です。すべての微量不純物をわざわざ合成してAmes試験にかけるのは非現実的ですが、QSARを使えば、クラス3・5の振り分けを効率的に行えます。
💡 用語解説:QSAR(定量的構造活性相関)
QSAR(Quantitative Structure-Activity Relationship)は、化学物質の「構造」から、その「毒性などの性質」をコンピュータで予測する手法です。「この形をした分子はDNAを傷つけやすい」というパターンを、過去のデータから学習・ルール化しておき、新しい物質に当てはめます。動物実験を減らせる、いわば“計算機毒性学”です。
ICH M7では、予測の信頼性を高めるため、原理の異なる2種類のQSARを組み合わせることを求めています。これらはOECD(経済協力開発機構)の検証原則に従ったものである必要があります。
- ➤① 専門家ルールベースモデル:毒性学の知見をもとに「危ない構造(エポキシド、芳香族アミン、ニトロソアミンなど)」をルール化したもの。代表ソフトはDerek Nexusなど。
- ➤② 統計ベース(機械学習)モデル:大量のAmes試験データを学習し、構造と変異原性の統計的な相関を導くもの。代表ソフトはSarah Nexusなど。
この2つの異なるモデルの“両方”から「警告構造なし(陰性)」と出て初めて、追加試験なしでクラス5(懸念なし)と結論できます。ただし、優れたソフトでも常に白黒つくわけではなく、「適用領域外(学習データに似た構造がない)」「相反する弱いエビデンスがある」「金属錯体など技術的に処理できない」といった理由で“判定保留”になることがあります[7]。そうした場合は、出力を鵜呑みにせず、毒性学者によるエキスパートレビュー(専門家評価)で最終判断を下すことがICH M7で強く推奨されています[7]。
じつはこの考え方、私たち遺伝診療の現場とよく似ています。遺伝子検査で見つかったバリアント(変異)の病原性も、AlphaMissenseなどのin silico(コンピュータ上)予測を使って評価します。そして「複数のソフトの予測が一致したときだけ証拠として採用し、食い違うときは使わない」「最後は専門家が総合判断する」という運用は、ACMGガイドラインの精神とまったく同じです。「構造から計算で予測し、専門家が最終判断する」——医薬品の不純物評価と、遺伝子バリアントの解釈は、同じ哲学を共有しているのです。
5. TTC:どこまで許してよいかの「ものさし」
リスク評価のもう一つの柱がTTC(毒性学的懸念の閾値)です。発がん性の実験データがない物質(クラス2・3)でも、この閾値以下なら発がんリスクは実質的に無視できる、とする保守的かつ合理的な考え方です。
💡 用語解説:TTC(毒性学的懸念の閾値)
TTC(Threshold of Toxicological Concern)とは、「これより少なければ、たとえ変異原物質でも生涯飲み続けてよいと考えられる量」の目安です。医薬品では原則として1.5 µg/日(マイクログラム=100万分の1グラム)に設定されています。これは、最も感受性の高い動物・腫瘍部位のデータから直線外挿し、生涯で10万人に1人未満の理論上の発がんリスクに抑えるよう設計された、非常に安全側の基準です[1]。
ただし、すべての薬を生涯毎日飲むわけではありません。短期間の治療や治験段階では、累積の曝露が少ないぶんリスクも下がります。そこでICH M7は、治療期間に応じて1日あたりの許容量を調整する「生涯未満(LTL)アプローチ」を採用しています。許容される生涯累積量(1.5 µg/日 × 25,550日 ≒ 38.3 mg)を、実際の総投与日数で割り振る考え方です[1]。
治療期間別の許容摂取量(単一の変異原性不純物)
期間が短いほど、1日あたりの許容量は高く設定できる(単位:µg/日)
1ヶ月以下
1ヶ月超〜12ヶ月
1年超〜10年
10年超〜生涯
生涯(10年超)の継続摂取では1.5 µg/日まで。短期治療ほど許容量を高くできる。複数の不純物が存在する場合は、相加リスクを考えて別途より厳しい総量基準が適用される。
複数(3つ以上)のクラス2・3不純物がある場合は、足し算のリスクを考えて総量としての限度値が課されます(例:生涯曝露では合計5 µg/日)。一方、クラス1(化合物ごとの個別基準があるもの)は、この総量計算には含めず個別に管理します[1]。
6. 管理戦略:4つのオプションとパージファクター
許容量が決まった不純物(クラス1〜3)は、最終製品でその値を確実に守るための管理戦略を作って規制当局に示す必要があります。ICH M7は、分析試験に頼る古典的な手法から、工程の科学的な理解に重きを置く先進的な手法まで、4つのオプションを用意しています[9]。
- ➤オプション1:最終原薬の規格で直接、その不純物を試験して限度値以下を確認する(最もオーソドックス)
- ➤オプション2:上流(原料・出発物質・中間体)で限度値以下に抑える。後工程での除去を証明する必要はない
- ➤オプション3:上流で試験するが、後工程での除去(パージ)能力を科学的に示すことで、より緩い受入基準を許容
- ➤オプション4:ルーチン試験を一切行わず、「工程自体が不純物を完全に除去・分解する」ことを科学的に証明して担保する
たとえば、反応性が非常に高く変異原性を示す塩化チオニルを合成のステップ1で使い、その後の工程で水を使うルートであれば、塩化チオニルは水と瞬時に反応して分解されるため、最終製品に残る可能性はほぼゼロです。こうしたケースでは、分析試験を省くオプション4が適用できます[9]。ただし、不純物が最終ステップ近くで入る場合は、予測だけのオプション4は通常認められず、分析データの裏付けが求められます[9]。
💡 用語解説:パージファクター(除去係数)
合成・精製の各工程で、不純物がどれだけ取り除かれるか(除去率)を、不純物の性質(反応性・溶解度・揮発性など)と工程条件から半定量的にスコア化し、掛け合わせて求める「予測除去能」のことです。A. Teasdale博士らが提唱し、いまや業界標準になっています[8]。たとえば初期レベルが5%(50,000 ppm)で限度値が5 ppmなら、必要な除去は1万倍。予測パージファクターが1万に達すれば、ルーチン試験なし(オプション4)の管理を強く正当化できます。
7. 懸念されるコホート(CoC)とニトロソアミン問題
TTC(1.5 µg/日)が無条件には使えない例外があります。それが「懸念されるコホート(Cohort of Concern:CoC)」と呼ばれる、極めて強力な発がんポテンシャルを持つ物質群です。CoCに指定されているのは次の3グループで、TTC未満の極微量でも理論上有意なリスクがあるため、個別データに基づく厳格で低い限度値が設定されます[1]。
- ➤アフラトキシン様化合物
- ➤アルキルアゾキシ化合物
- ➤N-ニトロソ化合物(ニトロソアミン類)
近年、サルタン系の高血圧治療薬(バルサルタンなど)やラニチジンといった広く使われる薬から、CoCの一つであるN-ニトロソアミンが想定外に検出され、世界規模の大規模リコール(自主回収)と規制強化につながりました。事態を複雑にしたのは、製造で使う溶媒・試薬由来の一般的なニトロソアミン(NDMAやNDEA)だけでなく、原薬の構造そのものがニトロソ化されて生じる「NDSRIs」という、薬ごとに異なる巨大で多様な不純物が見つかったことです。
💡 用語解説:ニトロソアミンとNDSRIs
ニトロソアミンは、強い発がん性で知られる化学物質群です。データが揃っている代表的な小分子では、NDMAの許容摂取量(AI)は96 ng/日、NDEAは26.5 ng/日と、TTC(1,500 ng/日)よりはるかに低い厳しい値が設定されています[5][11]。(ng=ナノグラム=10億分の1グラム)
NDSRIs(原薬関連ニトロソアミン不純物)は、薬の有効成分そのものの構造から生じるニトロソアミンで、薬ごとに固有・巨大・多様。固有の発がんデータが無いことが多く、個別の許容量を算出できないという大きな壁に直面しました。
この難局に対し、規制当局と業界はICH M7とリード・アクロス(類推)の考え方を応用し、CPCA(発がん性ポテンシャル分類アプローチ)という新しい枠組みを導入しました[5][6]。これは、ニトロソ基近傍のα水素の数や、電子求引性・供与性の構造的特徴(SAR)と既存データからの類推に基づいて、未知のNDSRIを5つのカテゴリに分類し、保守的な許容量(AI)を素早く割り当てる手法です。
CPCAは5つのカテゴリを持ちますが、許容量としては18/26.5・100・400・1500 ng/日の4段階に集約されます(カテゴリ4と5はいずれも1500 ng/日)[5][6]。なお、カテゴリ1の「18 ng/日(EMA)/26.5 ng/日(FDA)」は同じカテゴリの地域差であり、データのないニトロソアミンに対する“既定の最も厳しい値”でもあります。実験データのないNDSRIsにも科学的根拠に基づく合理的な目標値を素早く与えられるCPCAは、規制対応と動物試験の削減を両立する強力なツールとして機能しています。
8. ICH M7(R2)への改訂:新しい許容摂取量と「閾値を持つ変異原」
ICH M7は運用の蓄積とともに改訂されてきました。2017年のR1を経て、2023年に採択された現行版R2では、特定の化合物について国際的に調和した許容摂取量(AI)や許容一日曝露量(PDE)を定める「補遺」が大きく拡充されました。R1で規定された14化合物に、R2で7化合物(アセトアルデヒド、1,2-ジブロモエタン、エピクロロヒドリン、臭化エチル、ホルムアルデヒド、スチレン、酢酸ビニル)が追加され、合計21化合物になりました[4][10]。
代表的な許容量を挙げると、アクリロニトリル6 µg/日、スチレン154 µg/日、酢酸ビニルは経口PDE 2,000 µg/日・それ以外AI 758 µg/日、ホルムアルデヒドはPDE 10,000 µg/日・吸入AI 8,000 µg/日など、物質ごとに大きく異なります[10]。これらはTD50からの直線外挿や、曝露経路ごとの発がんメカニズムの違いを反映したものです。
特筆すべきは、「実用的な閾値」を持つ変異原物質の存在を公式に認めた点です[4]。たとえば過酸化水素はDNAと直接反応するのではなく酸化ストレスを介して非線形の用量反応を示し、アニリンもメトヘモグロビン血症を介した二次的な機序とされます。こうした物質には、極度に保守的な直線外挿ではなく、無毒性量と不確実係数を用いたPDE(ICH Q3C準拠)の適用が科学的に正当化されます[4]。また、HIV治療薬のように予後が大きく改善した疾患では、曝露区分が「1〜10年」から「10年超〜生涯」へ移行し、より厳格な生涯TTC基準が適用されるようになりました[10]。今後は、ニトロソアミンの定量的な発がんポテンシャル評価を取り込むM7(R3)の策定も進められています[4]。
9. 遺伝医療とのつながり:変異原性・QSAR・発がん
🔍 関連記事:ドライバー遺伝子とは/ミスマッチリペア(MMR)/臨床遺伝専門医とは
ICH M7は、一見すると「医薬品製造の品質管理」という、遺伝子診療とは遠いテーマに見えます。正直にお伝えすると、出生前診断(NIPT)や羊水検査とは直接の接点はほとんどありません。けれども、「変異原性」「コンピュータ予測」「発がん」という3つの軸で見ると、私たちの本業ととても深く地続きです。
第一に、変異原性=遺伝毒性そのものが、遺伝子に起こる「変異」を扱う学問の中心概念です。変異原がDNAを傷つけ、その変異がドライバー遺伝子(がんを動かす遺伝子)に積み重なると発がんへ向かう——この流れは、遺伝性腫瘍を診る私たちが日々向き合っている病態です。ミスマッチ修復(MMR)のような「校正役」の遺伝子が壊れると、変異が溜まりやすくなることも、ICH M7が前提とする発がんの考え方と一致します。
第二に、QSAR(構造からの計算予測)は、遺伝子診療におけるin silicoによるバリアント病原性予測と発想がそっくりです。どちらも「構造から計算で予測し、複数のモデルが一致したときに重みを置き、最後は専門家が判断する」という運用で、ACMGガイドラインの精神と完全に重なります。
第三に、薬剤の遺伝毒性という観点。たとえばDPYD遺伝子のバリアントを持つ方では、抗がん剤5-FUの代謝が落ちて重篤な副作用が出るように、「薬と遺伝子」は密接に関わります。薬の安全性を“分子レベル”で考える姿勢は、ファーマコゲノミクス(薬理遺伝学)として遺伝カウンセリングの一部でもあります。薬の不純物管理と、遺伝子バリアントの解釈は、「DNAを起点に安全を科学する」という同じ土俵にいるのです。
10. よくある誤解
誤解①「不純物はゼロでなければ危険」
分析技術が進んだ今、不純物を完全にゼロにすることは現実的ではありません。ICH M7は「ゼロ」ではなく、科学的に“無視できるレベル”まで管理するという考え方です。毒性学的に意味のない量まで追い求めることは、かえって医薬品供給の妨げになります。
誤解②「QSARで予測できれば試験は不要」
QSARは強力ですが万能ではありません。2種類の異なるモデルが両方“陰性”のときだけ追加試験を省けます。判定が割れたり保留になったりした場合は、毒性学者によるエキスパートレビューが必須です。
誤解③「TTCはどんな物質にも使える」
TTC(1.5 µg/日)は便利な目安ですが、アフラトキシン様・アルキルアゾキシ・N-ニトロソ化合物(CoC)には適用できません。これらは極微量でも強力なため、個別の厳格な限度値が必要です。
誤解④「ニトロソアミンはどれも同じ基準」
ニトロソアミンは物質ごとに発がん力が大きく異なります。NDMAは96 ng/日のように個別値があり、データのない巨大なNDSRIsはCPCAで18/26.5〜1500 ng/日に分類されます。「ひとくくり」にはできません。
よくある質問(FAQ)
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参考文献
- [1] ICH M7(R2) Guideline. Assessment and Control of DNA Reactive (Mutagenic) Impurities in Pharmaceuticals to Limit Potential Carcinogenic Risk. 2023. [ICH Database]
- [2] FDA. Guidance for Industry M7(R2) Assessment and Control of DNA Reactive (Mutagenic) Impurities in Pharmaceuticals. [FDA]
- [3] European Medicines Agency (EMA). ICH M7 — Scientific guideline. [EMA]
- [4] Guidelines for the assessment and control of mutagenic impurities in pharmaceuticals. PMC. [PMC12723853]
- [5] FDA. Recommended Acceptable Intake Limits for Nitrosamine Drug Substance-Related Impurities (NDSRIs) — Guidance for Industry. [FDA]
- [6] Determining recommended acceptable intake limits for N-nitrosamine impurities: Development and application of the Carcinogenic Potency Categorization Approach (CPCA). Regul Toxicol Pharmacol. 2024. [ScienceDirect]
- [7] The importance of expert review to clarify ambiguous situations for (Q)SAR predictions under ICH M7. PMC. [PMC7510098]
- [8] Establishing Best Practice for the Application and Support of Solubility Purge Factors. Org Process Res Dev. [ACS Publications]
- [9] FDA. M7(R2) Assessment and Control of DNA Reactive (Mutagenic) Impurities — Questions and Answers. [FDA]
- [10] ICH M7(R2): 2nd Addendum (Step 4 Presentation). 2023. [ICH Database]
- [11] Permitted daily exposure limits for noteworthy N-nitrosamines. Environ Mol Mutagen. 2021. [Wiley]



