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赤ちゃんがお母さんのお腹の中で酸素を受け取るために使う特別なヘモグロビン、それが胎児ヘモグロビン(HbF)です。生まれたあとは静かに眠りにつくこのタンパク質が、いま鎌状赤血球症やサラセミアという重い血液の病気を根本から治す「切り札」として、世界の最先端医療で再び主役になっています。本記事では、HbFの構造と高い酸素親和性のしくみ、出生後に減っていく「ヘモグロビンスイッチング」、そしてHbFを再び目覚めさせる最新のゲノム編集治療までを、臨床遺伝専門医がやさしく解説します。
Q. 胎児ヘモグロビン(HbF)とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. HbFは、胎児期に酸素をお母さんから効率よく受け取るための特別なヘモグロビンです。成人型(HbA)より酸素を強くつかむ性質を持ち、生まれたあとは「ヘモグロビンスイッチング」というしくみで自然に減り、ふつう生後6〜12ヶ月で総ヘモグロビンの1%未満になります。近年、このHbFを大人の体で再び増やすことで、鎌状赤血球症やサラセミアを治す遺伝子治療が次々と実用化しています。
- ➤正体 → 2本のα鎖と2本のγ鎖からなる四量体(α2γ2)。成人型HbA(α2β2)とはγ鎖が違う
- ➤高い酸素親和性のカギ → γ鎖の143番目がセリンで、2,3-BPGが結合しにくいため酸素を強くつかむ
- ➤スイッチを握る分子 → BCL11A・ZBTB7A・KLF1などがHbFを抑え、成人型へ切り替える
- ➤良性のモデル疾患 → HPFH(高HbF持続症)は無症状で、病気を和らげるヒントになった
- ➤最新治療 → CRISPRや塩基編集でHbFを再活性化し、輸血や発作から解放する治療が登場
1. 胎児ヘモグロビン(HbF)とは:胎児の命を支える「酸素のうばい手」
ヘモグロビンは、赤血球の中で酸素を運ぶタンパク質です。私たちは普段、成人型ヘモグロビン(HbA)を使っていますが、お腹の中の赤ちゃんは違う種類のヘモグロビンを使っています。それが胎児ヘモグロビン(Fetal Hemoglobin:HbF)です。胎児は自分で呼吸ができないため、お母さんの血液から胎盤を通して酸素を受け取らなければなりません。そのために、HbFはHbAよりも酸素を強くつかむ性質(高い酸素親和性)を持ち、母体の血液から効率よく酸素を「うばい取る」ことができるようになっています[1]。
造血(血を作る場所)とヘモグロビンの種類は、発生にあわせて段階的に移り変わります。妊娠初期は卵黄嚢で胚子型ヘモグロビンが作られ、妊娠6週ごろから胎児肝臓・脾臓でHbFが主役となり、出生が近づくにつれて骨髄での造血へと移っていきます[1]。生まれたあとはHbFが急速に減り、成人型のHbAへと置き換わっていきます。
💡 用語解説:ヘモグロビンと「四量体」
ヘモグロビンは、4つの部品(サブユニット)が組み合わさった「四量体(しりょうたい)」というかたちをしています。成人型HbAはα鎖2本+β鎖2本(α2β2)、胎児型HbFはα鎖2本+γ(ガンマ)鎖2本(α2γ2)です。違いはβ鎖がγ鎖に置き換わっている点だけですが、この小さな違いが酸素のつかみ方に大きな差を生みます。
「胎児期にしか使われない物質」と聞くと、医学的にあまり重要でないように思えるかもしれません。ところがHbFは、鎌状赤血球症やサラセミアといったβグロビンの病気を劇的に和らげる「救済因子」であることがわかってきました。本記事の後半では、この性質を治療に応用する最先端のゲノム編集医療まで解説します。なお、HbFは保因者スクリーニングや遺伝カウンセリングとも深く関わるテーマであり、当院のような臨床遺伝専門医が日常的に向き合う領域でもあります。
2. HbAとの違い:なぜHbFは酸素を強くつかめるのか
HbFとHbAの機能の違いは、γ鎖とβ鎖のわずかなアミノ酸配列の差から生まれます。最も決定的なのが、赤血球の中にたくさんある2,3-BPG(2,3-ビスホスホグリセリン酸)という小さな分子の結合のしやすさです[1]。
💡 用語解説:2,3-BPGと「酸素を手放させる係」
2,3-BPGは、ヘモグロビンの真ん中のすきまにはまり込み、ヘモグロビンを「酸素を手放しやすい形」に固定する分子です。いわば「酸素を組織に届けるために、酸素を手放させる係」。HbAではこの2,3-BPGがしっかり結合するため、全身の組織で酸素をうまく放せます。ところがHbFでは2,3-BPGが結合しにくいので、酸素をなかなか手放さず、結果として「酸素を強くつかむ」ことになります。
具体的には、HbAのβ鎖では143番目のアミノ酸が正の電荷を持つヒスチジン(His143)で、これが負の電荷を持つ2,3-BPGをしっかり引き寄せます。一方、HbFのγ鎖では同じ位置が電荷を持たないセリン(Ser143)に置き換わっています[1]。このたった1か所の違いで2,3-BPGの結合が弱まり、HbFは酸素を強くつかむ「酸素解離曲線の左方移動」を示すのです。これが、胎児が低酸素の胎盤環境でも母体から酸素を受け取れる理由です。
💡 用語解説:二重ボーア効果
胎盤では、胎児側から母体側へ二酸化炭素(CO2)が移ります。CO2を受け取った母体血はpHが下がって酸素を手放しやすくなり、CO2を手放した胎児血はpHが上がって酸素をより取り込みやすくなります。母体は放し、胎児は受け取る——この二段構えの効果を「二重ボーア効果」と呼び、胎盤でのガス交換を最大化しています。
HbAとHbFの比較
3. ヘモグロビンスイッチング:なぜ出生後にHbFは減るのか
胎児型(γ鎖)から成人型(β鎖)への切り替えを「ヘモグロビンスイッチング」と呼びます。この切り替えは正期産の出生時にはすでに半分ほど進んでおり、ふつう生後6〜12ヶ月で成人と同じレベル(総ヘモグロビンの1%未満)まで下がります[2]。
大切なのは、これが単なる「細胞の寿命がきて死ぬ」現象ではないということです。臍帯血を調べても、HbFが完全に消えた赤血球やγグロビンが完全に止まった網状赤血球はほとんど見られません。つまりスイッチングは、発生に組み込まれた段階的で精密な遺伝子プログラムとして進むことが分かっています[2]。
発生にともなうHbFの割合の変化(おおよその目安)
総ヘモグロビンに占めるHbFの割合のイメージ
胎児期
出生時
生後6ヶ月
成人
胎児期に主役だったHbFは、出生をはさんで急速に減り、成人ではごくわずかになる。数値は理解のためのおおよその目安です。
4. スイッチを握る分子たち:BCL11A・ZBTB7A・KLF1
🔍 関連記事:転写因子とは/遺伝子発現とエンハンサー/エピジェネティクス
βグロビン遺伝子のかたまり(βグロビン遺伝子クラスター)は11番染色体にあり、その上流には強力なスイッチである遺伝子座制御領域(LCR)があります。発生にあわせて、LCRがどの遺伝子と物理的に手をつなぐかが、胚子型→胎児型(γ)→成人型(β)へと移っていきます[3]。この切り替えを指揮するのが、いくつかの転写因子です。
💡 用語解説:転写因子・リプレッサー
転写因子は、遺伝子の「スイッチ役」のタンパク質です。なかでも遺伝子の働きを抑え込む(オフにする)ものをリプレッサー(抑制因子)と呼びます。HbFを抑えるリプレッサーが大人の赤血球で働くため、HbFは静かに眠った状態になります。
HbFを眠らせる主役はBCL11AとZBTB7A(別名LRF)という2つのリプレッサーです[4]。両者はそれぞれ独立した経路で働きますが、最終的にはNuRD複合体というクロマチンを固く折りたたむ装置を呼び寄せ、γグロビン遺伝子を物理的に読めなくします[3]。さらに上流ではKLF1が、「成人型βグロビンを活性化する」一方で「BCL11AやZBTB7Aを増やす」という二重の役割を果たし、スイッチングを前へ進めます[11]。
この「どこを止めればHbFが復活するか」という地図が、後で説明する遺伝子治療の設計図になりました。特にBCL11Aの働きを赤血球だけで弱めれば、安全にHbFを呼び戻せることが分かったのです[9]。
5. 遺伝性高胎児ヘモグロビン血症(HPFH):自然が示した「良性のお手本」
ふつうは1%未満まで減るHbFが、大人になっても高いまま保たれる体質があります。これを遺伝性高胎児ヘモグロビン血症(HPFH)と呼びます[5]。HPFHは基本的に無症状で良性の状態で、HbFの割合はヘテロ接合体で10〜15%程度、ホモ接合体では100%近くに達することもあります[5]。
💡 用語解説:ヘテロ接合体・ホモ接合体
私たちは同じ遺伝子を父由来・母由来の2本ずつ持っています。片方だけに変化がある状態をヘテロ接合体、両方に変化がある状態をホモ接合体と呼びます。HPFHではホモ接合体ほどHbFが高くなります。
HPFHには大きく分けて、遺伝子の一部が欠けて起こる「欠失型」と、プロモーター(遺伝子のスイッチ部分)の1文字が変わって起こる「非欠失型」があります。欠失型では、成人型HBBのプロモーターが失われることで、LCRが行き場をなくして上流のγグロビンと手をつなぎ続ける——という「プロモーター競合の解消」というしくみが、CRISPRを用いた研究で実証されています[6]。非欠失型では、点変異がリプレッサーの結合部位を壊したり、逆に活性化因子の結合部位を新しく作ったりして、HbFを復活させます[5]。
このHPFHこそが、治療開発の「自然が用意したお手本(Proof of Concept)」でした。HPFHを併せ持つ鎌状赤血球症やサラセミアの人は症状が軽くなることが知られており、「人工的にHPFHを再現すればよい」という治療戦略が生まれたのです[6]。
6. HbFが関わる病気:鎌状赤血球症とサラセミア
HbFが医学的に重要なのは、HBB遺伝子(βグロビン)の異常で起こる病気と深く関わるからです。代表が鎌状赤血球症(SCD)とβサラセミアです。
💡 用語解説:鎌状赤血球症とβサラセミア
鎌状赤血球症は、βグロビンの異常(HbS)により、低酸素で赤血球が硬く鎌のような形に変形し、血管を詰まらせて激しい痛みの発作(血管閉塞)や溶血を起こす病気です。
βサラセミアは、βグロビンが十分に作れず、慢性の貧血をきたす病気です。重症型では生涯にわたる輸血が必要になることがあります。
ここでHbFが「救済因子」として登場します。HbFが多いβサラセミアの赤ちゃんは、生後数ヶ月間は症状が出ず、HbFが下がってから初めて症状が現れることが古くから観察されてきました[2]。HbFは、異常なHbSが固まる(重合する)のを立体的にじゃまし、足りないβグロビンの代わりも務めるため、症状を和らげるのです。「大人の体でHbFを増やせれば治療になる」——この発想がすべての出発点でした。なお、ヘモグロビンを構成するもう一方の鎖の異常であるαサラセミアも、鎌状赤血球症の重症度に影響する修飾因子として知られています。
7. HbFを再び目覚めさせる治療:薬からゲノム編集へ
🔍 関連記事:CRISPR-Cas9とは/塩基編集とは
HbFを増やす最初の手段は薬でした。世界で最も広く使われてきたのがヒドロキシウレアです。HbFの産生を強く誘導するほか、白血球・血小板を下げて炎症をしずめ、血管閉塞のリスクを総合的に減らします[7]。一方で、効果が不十分な人がいる、毎日の服用が必要、といった課題もあり、「一度の治療で根治を目指す」遺伝子治療への流れが加速しました。
第一世代:CRISPR-Cas9でBCL11Aのスイッチを壊す(Casgevy)
2023年末、世界初のCRISPR-Cas9による遺伝子治療Casgevy(exa-cel)が、米国FDAから鎌状赤血球症と輸血依存性βサラセミアの治療薬として承認されました[8]。標的はHbFそのものではなく、HbFを抑えているBCL11Aの赤血球特異的エンハンサー(+58kb領域)です。患者さん自身の造血幹細胞を体の外で編集し、この領域を壊すことで、赤血球系の細胞だけでBCL11Aが減り、眠っていたHbFが再び作られます[9]。
💡 用語解説:エンハンサーと「体外で編集して戻す」治療
エンハンサーは遺伝子の「音量つまみ」のような領域です。BCL11Aの赤血球専用の音量つまみだけを壊せば、全身に必要なBCL11Aは残したまま、赤血球でだけHbFを増やせます。
これらの治療は、患者さん自身の造血幹細胞を取り出して体外(ex vivo)で編集し、抗がん剤で骨髄を整えてから戻す(自家移植)という流れで行われます。
最新世代:塩基編集でHPFHを「1文字だけ」再現する(risto-cel)
いま最も注目されているのが、塩基編集(ベースエディティング)を用いるristo-cel(旧称BEAM-101)です。従来のCRISPRがDNAを二本とも切るのに対し、塩基編集はDNAを切らずに1文字だけを書き換える精密な技術です。HBG1/HBG2プロモーター上のBCL11A結合部位をピンポイントで書き換え、自然界のHPFHと同じ状態を人工的に作り出します。BCL11Aそのものの量は変えずに、HBGプロモーターへの結合だけを止めるのが特長です。
2026年に医学誌『The New England Journal of Medicine』で発表された第1/2相BEACON試験では、12〜35歳の鎌状赤血球症の患者31名を対象に、平均6.6ヶ月の追跡で平均HbFが総ヘモグロビンの60%超に上昇し、病因となるHbSが40%未満へ低下しました[10]。さらに、生着後に重度の血管閉塞発作が報告されず、輸血依存からの脱却と貧血の改善が確認されています[10]。多くの患者で細胞採取は中央値1回で済み、患者の負担軽減という点でも期待されています。なお、別のCRISPR-Cas12aを使うアプローチ(reni-cel)も高い効果を示しましたが、開発企業の戦略転換により臨床開発は中止されました。
⚠️ 注意:これは「研究の最前線」の話です
これらの遺伝子治療は、骨髄を整える抗がん剤による前処置を伴う大がかりな治療で、移植にともなう一般的なリスクもあります。適応や実施施設は限られ、長期的な安全性は今も研究が続いています。当院ではこれらの治療そのものは行っておらず、本記事は治療を推奨するものではありません。
なお、HbFを増やすのとは別の戦略として、抗鎌状化型のβグロビンを補う遺伝子付加型の治療(lovo-cel)も承認されています。これはHbF再活性化とは異なる仕組みで、治療の選択肢が複数あることを示しています。技術の詳しい仕組みはCRISPR-Cas9・塩基編集の各ページで解説しています。
8. 出生前・妊娠前の検査との接続
🔍 関連記事:拡大キャリアスクリーニング検査/羊水検査・絨毛検査/臨床遺伝専門医とは
HbFが関わる鎌状赤血球症やサラセミアは、多くが潜性(劣性)遺伝のヘモグロビン症です。ご夫婦がともに保因者の場合に、お子さんに症状が出る可能性があります。検査は「出生前」と「出生後」で目的が異なるため、分けて理解することが大切です。
なお、HbF(や胎児の赤血球)は歴史的に「母体血の中の胎児由来成分を調べる」という発想にもつながってきました。胎児母体間輸血の評価などに用いられる検査もこの延長線上にあります。こうした背景知識は、出生前検査の意味を立体的に理解するうえで役立ちます。
9. よくある誤解
誤解①「HbFは胎児だけの不要な物質だ」
確かに役割を終えて眠りますが、大人の体で再び増やすと鎌状赤血球症やサラセミアを和らげることができます。いまや最先端治療の主役です。
誤解②「HbFが高い=病気だ」
HPFHのように、HbFが高くても無症状で良性の体質があります。一方で、さまざまな血液疾患や妊娠でもHbFは上がるため、確定には分子遺伝学的な検査が役立ちます。
誤解③「遺伝子治療はもう誰でも受けられる」
承認された治療はありますが、前処置を伴う大がかりな治療で、適応や実施施設は限られています。長期安全性も研究が続いています。
誤解④「HbFを増やせば原因の遺伝子も治る」
HbF再活性化は症状を強力に和らげる戦略で、原因のHBB変異そのものを直すわけではありません。別の仕組みの治療もあり、目的に応じて使い分けられます。
よくある質問(FAQ)
🏥 ヘモグロビン症・遺伝子診断のご相談
鎌状赤血球症・サラセミアなどのヘモグロビン症や
保因者スクリーニング・遺伝カウンセリングは
臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにお気軽にご相談ください。
参考文献
- [1] Physiology, Fetal Hemoglobin. StatPearls (NCBI Bookshelf). [NCBI NBK500011]
- [2] The Switch from Fetal to Adult Hemoglobin. PMC. [PMC3530042]
- [3] Transcriptional regulators of fetal hemoglobin. Hematology, Transfusion and Cell Therapy (SciELO). [SciELO]
- [4] Transcription factors LRF and BCL11A independently repress expression of fetal hemoglobin. PMC. [PMC4778394]
- [5] Hereditary persistence of fetal hemoglobin. PMC. [PMC7983139]
- [6] Disrupting the adult globin promoter alleviates promoter competition and reactivates fetal globin gene expression. PMC. [PMC8990374]
- [7] Hydroxyurea induces fetal hemoglobin by the nitric oxide–dependent activation of soluble guanylyl cyclase. PMC. [PMC151872]
- [8] FDA Approves First Gene Therapies to Treat Patients with Sickle Cell Disease. U.S. FDA. [FDA]
- [9] The First CRISPR Gene Therapy is a Bank Shot. McDonnell Genome Institute, Washington University. [WashU]
- [10] Base Editing of HBG1 and HBG2 Promoters for Sickle Cell Disease. N Engl J Med. 2026. [NEJM 10.1056/NEJMoa2504835]
- [11] Elevating fetal hemoglobin: recently discovered regulators and mechanisms. PMC. [PMC11830979]



