目次
- 1 1. INSL3遺伝子とは ─ 精巣下降を導くホルモンの設計図
- 2 2. 遺伝子とタンパク質の基礎 ─ どんな設計図なのか
- 3 3. 精巣下降のしくみ ─ INSL3のいちばん確実な役割
- 4 4. 受け取る側の受容体RXFP2 ─ 信号のしくみ
- 5 5. 成人男性での意味 ─ ライディッヒ細胞の「体力」を映す指標
- 6 6. 女性・卵巣での役割 ─ 種による違いに注意
- 7 7. 骨との関わり ─ 有望だが検証途上のテーマ
- 8 8. 停留精巣と遺伝 ─ ヒトでの実像
- 9 9. 遺伝診療との接点 ─ INSL3をどう位置づけるか
- 10 10. よくある誤解
- 11 まとめ ─ INSL3という「もうひとつのライディッヒ細胞ホルモン」
- 12 よくある質問(FAQ)
- 13 参考文献
- 14 関連記事
男の子の赤ちゃんが生まれる前、おなかの中で精巣(睾丸)がおなかの奥から陰嚢へと降りてくるという、大きな引っ越しが起こります。この引っ越しの号令をかけるホルモンの設計図が、今回のテーマINSL3遺伝子(インスリン様ペプチド3)です。INSL3は精巣のライディッヒ細胞という細胞から分泌され、精巣下降の第一段階を導きます。さらに大人になってからは、このライディッヒ細胞がどれくらい元気かを映し出す「もうひとつのものさし」としても注目されています。この記事では、INSL3とは何か、精巣が降りるしくみ、停留精巣(ていりゅうせいそう)との関係、そして血液検査としての意義までを、臨床遺伝専門医の視点で解説します。
Q. INSL3遺伝子とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. INSL3遺伝子は、精巣のライディッヒ細胞がつくる小さなホルモン「インスリン様ペプチド3」の設計図です。胎児期には、このホルモンが精巣下降(精巣がおなかから陰嚢へ降りる動き)の第一段階を導きます。大人の男性では、ライディッヒ細胞がどれだけ成熟し機能しているかを示す指標(バイオマーカー)としても使われはじめています。ヒトでは停留精巣との関連が報告されており、両アレル性の機能喪失型バリアントが両側停留精巣の原因となることが示されています。一方、一般的な停留精巣でINSL3の遺伝子変化が高頻度の原因となるわけではありません。
- ➤正体 → 精巣(と卵巣)でつくられる、インスリンに構造が似た小さなペプチドホルモンの設計図
- ➤いちばん確実な役割 → 胎児期の精巣下降の第一段階(おなかの中での移動)を導く
- ➤受け取る側 → RXFP2という受容体にはまって信号を伝える
- ➤大人での意味 → ライディッヒ細胞の「体力」を映す血液の指標として研究が進む
- ➤病気とのつながり → 両アレル性機能喪失型バリアントは両側停留精巣のまれな原因となる
🧬 INSL3遺伝子の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 遺伝子名・別名 | INSL3(インスリン様ペプチド3)。かつては「ライディッヒ細胞インスリン様ペプチド」「リラキシン様因子(RLF)」とも呼ばれた |
| 場所(座位) | 19番染色体の短腕(19p13.11) |
| 主な発現場所 | 精巣のライディッヒ細胞(男性)、卵巣の莢膜(きょうまく)細胞・黄体(女性) |
| つくられるもの | 131アミノ酸の前駆体から、A鎖とB鎖の2本鎖からなる成熟ホルモンへと加工される |
| 受け取る受容体 | RXFP2(旧名 LGR8/GREAT) |
| 医療との関わり | 停留精巣との関連が報告される一方、成人ではライディッヒ細胞機能の血液指標として研究が進む |
※本記事は一般の方と遺伝診療に関わる方の両方に向けた解説です。特定の検査を勧めるものではありません。
1. INSL3遺伝子とは ─ 精巣下降を導くホルモンの設計図
INSL3は、インスリンやリラキシンと同じ「インスリン・スーパーファミリー」に属する、小さなペプチドホルモンです。「インスリン様(insulin-like)」という名前がついていますが、これは血糖を下げるインスリンと構造がよく似ているという意味であって、血糖や糖の代謝に直接関わるわけではありません。名前の由来はあくまで、分子の形が同じ仲間だということを表しています。
このホルモンをつくる設計図がINSL3遺伝子で、19番染色体の短腕(19p13.11)にあります。設計図から最初に読み取られるのは131個のアミノ酸がつながった前駆体(プレプロホルモン)で、これがシグナルペプチド・B鎖・つなぎの部分・A鎖へと切り分けられ、最終的にA鎖とB鎖が2本一組になった成熟ホルモンになります。この2本鎖がジスルフィド結合という「かすがい」で固定されている点も、インスリンやリラキシンと共通する特徴です。
💡 用語解説:ライディッヒ細胞とは
精巣の中には、精子をつくる管(精細管)と、その周りを埋める組織があります。ライディッヒ細胞は、この管と管の間にいる細胞で、男性ホルモン(テストステロン)をつくる工場として有名です。INSL3も、このライディッヒ細胞から分泌されます。つまりライディッヒ細胞は、テストステロンとINSL3という2種類のホルモンを送り出す、男性の生殖に欠かせない細胞なのです。
INSL3が最初に見つかったのは、精巣に特有の遺伝子を探す研究の中でした。当初は「精巣のライディッヒ細胞がつくる、正体のよくわからないインスリンに似たペプチド」という位置づけでしたが、その後の研究で、胎児期の精巣下降という具体的で重要な役割が明らかになっていきます。今では、INSL3は「停留精巣に関わる遺伝子」という狭い枠を超えて、ライディッヒ細胞の状態を反映するホルモンとして、生殖内分泌の分野で広く研究されています。
2. 遺伝子とタンパク質の基礎 ─ どんな設計図なのか
INSL3遺伝子は比較的小さな遺伝子で、現在のNCBI Geneでは3エクソンとして注釈され、RefSeqには複数の転写バリアントが登録されています。構造や生化学、疾患研究の基準になっているのは、131アミノ酸の前駆体からつくられる標準的なホルモンです。
💡 用語解説:A鎖とB鎖、ジスルフィド結合
インスリンの仲間のホルモンは、1本の長い鎖として作られたあと、真ん中の「つなぎ」の部分が切り取られ、両端に残ったA鎖とB鎖の2本が組み合わさって完成します。この2本をつなぎ止めているのがジスルフィド結合という化学結合で、いわば分子の「かすがい」です。INSL3もこの作り方をしており、B鎖が受容体をつかむ主役、A鎖が受容体を動かす手助けをする、という役割分担が分かっています。
INSL3の立体的な形は、NMR(核磁気共鳴)という手法で実際に解かれています[3]。その研究では、INSL3がインスリン・リラキシンに共通する特徴的な折りたたみ方をとる一方で、両端がゆらゆらと動きやすい「動的な分子」であることも示されました。そして、B鎖にあるいくつかの特定のアミノ酸(アルギニンやバリン、トリプトファンなど)が組み合わさって、受容体をつかむ「接着面」をつくっていることが突き止められました[3]。この発見は、INSL3の働きを人工的に強めたり弱めたりする分子を設計するうえで、重要な出発点になっています。
なお、データベースにはもう一つ、標準型とは異なる長めのアイソフォームも登録されています。ただしこちらは、受容体をつかむのに大切なA鎖の部分が別の配列に置き換わっているため、標準型と同じ成熟ホルモンとして働くとは限りません。実際に体のどこで作られ、どんな働きをするのかは、まだ十分に検証されていない研究上の課題です。論文や検査で「アイソフォーム1」などと番号だけで呼ぶと混乱のもとになるため、どの配列を指しているのかを明記することが望ましい、という点も専門家の間では意識されています。
3. 精巣下降のしくみ ─ INSL3のいちばん確実な役割
INSL3の働きの中で最も確実に証明されているのが、胎児期の精巣下降です。男の子の精巣は、最初はおなかの奥(腎臓の近く)にでき、そこから陰嚢へと2段階で降りてきます。前半の「おなかの中を移動する段階(経腹的下降)」と、後半の「そけい部から陰嚢へ入る段階」です。このうち前半の号令をかけるのがINSL3です。
胎児の精巣のライディッヒ細胞から分泌されたINSL3は、精巣導帯(せいそうどうたい/グベルナクルム)という、精巣を陰嚢へ導くひも状の組織にはたらきかけます。すると導帯が太く発達し、精巣をそけい部の近くに保持して、経腹的下降を成立させます。ヒトでは受胎後7〜8週ごろからINSL3の遺伝子が読み取られはじめ、妊娠中期に発現が高まることが、胎児の精巣を調べた研究で示されています[10]。この時期は、ちょうど導帯が育つべき時間帯とぴったり重なります。
INSL3が精巣下降に使われるようになったのは、進化の中では比較的新しいできごとだと考えられています。哺乳類のような精巣下降を持たない魚類(ゼブラフィッシュなど)でも、INSL3は精子形成の調節に関わることが報告されています。このことは、INSL3が本来は生殖腺で局所的にはたらく古いホルモンであり、そこに「精巣導帯を使って精巣を降ろす」という新しい役割が、有胎盤哺乳類で後から加わった、という進化の道すじを示唆します。名前も働きも一つに見えて、実は長い時間をかけて役割が重ねられてきたホルモンなのです。
この役割を決定的にしたのが、マウスを使った遺伝子研究です。INSL3遺伝子を働かないようにしたマウス(ノックアウトマウス)は、生きて生まれてくるものの、両側の精巣がおなかの中にとどまったまま(両側の腹腔内停留精巣)になりました。その主な原因は、精巣導帯がうまく育たなかったことでした[1]。しかもこのマウスでは、後述する受容体RXFP2を働かなくしたマウスとほぼ同じ症状が出ます。「ホルモンを消しても、それを受け取る受容体を消しても、同じ結果になる」という一致が、INSL3が精巣下降を導く因果的な役割を持つことの、何よりの証拠になりました。
ここで大切なのは、INSL3とテストステロンは役割分担をしているという点です。精巣下降のうち、前半のおなかの中での移動はINSL3が主に担い、後半のそけい部から陰嚢への移動やその準備には男性ホルモン(アンドロゲン)がより大きく関わります。2つのホルモンは同じ働きの予備ではなく、時期と場所を分けて協力しあっているのです。

精巣下降は大きく2段階に分けられます。第1段階の経腹的下降では、胎児精巣のライディッヒ細胞から分泌されるINSL3が受容体RXFP2に作用し、精巣導帯の肥大・膨潤を介して精巣を鼠径部へ導きます。第2段階の経鼠径~陰嚢内下降ではアンドロゲンが重要な役割を担い、精巣が鼠径管を通って陰嚢内へ移動します。INSL3-RXFP2経路の遺伝的障害は、とくに第1段階の異常による停留精巣の原因となり得ます。
4. 受け取る側の受容体RXFP2 ─ 信号のしくみ
INSL3が信号を伝えるためには、その信号を受け取る相手が必要です。それがRXFP2という受容体で、歴史的にはLGR8やGREATとも呼ばれてきました。2002年、ある研究チームが、RXFP2(当時のLGR8)を人工的に発現させた細胞にINSL3を加えると、細胞内でcAMPという信号物質が増えることを示し、INSL3とRXFP2が「鍵と鍵穴」の関係にあることを確立しました[2]。RXFP2を働かなくしたマウスがINSL3を消したマウスと同じ停留精巣になることも、この受容体がINSL3の主要な受け取り手であることを裏づけています[2]。
RXFP2は、ふつうの小型の受容体(Gタンパク質共役型受容体)とは少し違い、細胞の外に大きな部品を持っています。そこには、脂質を扱う受容体に由来する小さなモジュールや、ロイシンという成分が豊富に繰り返す部分(ロイシンリッチリピート)が含まれます。INSL3のB鎖がこの繰り返し部分にがっちり結合し、それをきっかけに受容体全体の配置が変わり、A鎖の助けも借りて受容体の本体が動き出す、という二段階のしくみが考えられています[3]。
💡 用語解説:cAMPと「二段構え」の結合
cAMPは、細胞の外から来た指令を細胞の中に伝えるための「伝令役」の分子です。ホルモンが受容体にはまると細胞内でcAMPが増えたり減ったりし、それが細胞のふるまいを変えます。INSL3の場合、まずB鎖が受容体をつかんで(結合)、次にA鎖の助けで受容体が動き出す(活性化)という、つかむ役と動かす役が分かれた二段構えになっている点が特徴です。この性質を利用すると、受容体にはまるけれど動かさない「ブレーキ役(拮抗薬)」を設計することもできます。
典型的な実験系では、RXFP2はcAMPを増やす方向に働きます。ただし、細胞の種類によって下流の反応が変わることも知られています。たとえばヒトの骨をつくる細胞(骨芽細胞)ではMAPKという別の信号経路が強く動きます[7]。一方で、げっ歯類の卵巣の研究では、卵子の中でcAMPを下げる方向の働きが提唱されました[4]。同じ受容体でも細胞ごとに応答が異なる可能性があり、これは今も研究が続いているテーマです。
5. 成人男性での意味 ─ ライディッヒ細胞の「体力」を映す指標
大人の男性では、INSL3はテストステロンとは少し違う意味を持ちます。テストステロンは、脳から出るLH(黄体形成ホルモン)の刺激に対して比較的すばやく上下し、1日の中でも変動します。これに対してINSL3は、成熟したライディッヒ細胞がどれくらいの数あり、どれくらい分化して機能しているかを、より長い時間スケールで反映すると考えられています。いわば、その日の調子ではなく「精巣の基礎体力」を映すものさしに近い存在です。
この点を大規模に調べたのが、質量分析(LC-MS/MS)という精密な測定法を使った研究です。1,000人を超える男の子・男性の血液を解析したところ、INSL3は小児期には非常に低く、思春期に上昇し、若い成人で高くなったあと、加齢とともにゆるやかに下がっていくという年齢パターンを示しました[8]。同じ研究で、INSL3は1日の中の変動やhCG刺激への反応がテストステロンより小さいことも分かり、ライディッヒ細胞の「持続的な状態」を読む指標として有望であることが示されました[8]。
💡 用語解説:バイオマーカー
バイオマーカーとは、血液などで測れる、体の状態を映し出す目印のことです。たとえば血糖値が糖の状態を映すように、INSL3はライディッヒ細胞の状態を映すバイオマーカーとして研究されています。ただし、測定法(RIA、免疫測定、質量分析など)によって測っている分子の種類や数値が変わりうるため、絶対値は「その検査法に固有の基準範囲」として読む必要があります。
INSL3が特に役立つと考えられているのが、ライディッヒ細胞がどこまで成熟・分化しているかを問う場面です。2022年に報告された研究では、思春期がなかなか来ない状態のうち、生まれつきホルモンの司令塔がうまく働かないタイプ(先天性低ゴナドトロピン性性腺機能低下症、CHH)と、単なる体質的な思春期の遅れ(体質性思春期遅発)を見分ける手がかりとして、INSL3が検討されました。その結果、成人男性ではINSL3がCHHの識別に優れる一方、思春期が遅れている少年ではインヒビンBという別の指標のほうが有用でした[9]。つまりINSL3の診断的な価値は、年齢や病態によって変わるということです。
🩺 院長コラム【1つのものさしで全部は測れない】
ホルモンの検査というと、多くの方が「テストステロンの数値」を思い浮かべます。もちろんテストステロンは大切ですが、それだけで精巣のすべてが分かるわけではありません。INSL3は、テストステロンとは違う時間の流れで、同じライディッヒ細胞の別の側面を映してくれます。
医学的な検査値は、1つの数値だけで結論を出すのではなく、複数の指標をそれぞれの特性を踏まえて組み合わせて解釈することが重要です。INSL3とテストステロンも同様に、同じライディッヒ細胞の異なる側面を反映する指標として位置づけられます。数値の意味を適切に読み解くことが、遺伝診療でも重要です。
6. 女性・卵巣での役割 ─ 種による違いに注意
INSL3は男性だけの遺伝子ではありません。女性でも、卵巣の莢膜(きょうまく)細胞や黄体、さらには胎盤などで発現することが報告されています。発現量は男性より低いものの、卵巣内で局所的に働く可能性が考えられています。
ここで注意が必要なのが、動物の種類による違いです。げっ歯類(マウスやラット)を使った研究では、INSL3とその受容体RXFP2が、卵子が減数分裂を再開する過程や生殖細胞の生存に関わるという有力なデータがあります[4]。この研究は、INSL3を「精巣下降ホルモン」から、より広く生殖腺(せいしょくせん)で働く因子へと位置づけを広げた、重要な節目になりました。
ところが、ヒトに近いアカゲザルの卵巣を詳しく調べた研究では、様子が違っていました。INSL3は莢膜細胞に豊富にある一方で、全長型のRXFP2は顆粒膜(かりゅうまく)細胞ではごく低レベルに検出され、卵子そのものには検出されなかったのです[5]。また卵胞液の中のINSL3濃度は血液より数倍高く、局所で働くホルモンらしい特徴も示されました[5]。このことは、「INSL3が卵子のRXFP2に直接はたらく」というげっ歯類のモデルを、そのままヒトや霊長類に当てはめるのは慎重であるべきだ、ということを教えてくれます。
💡 動物実験の結果をヒトに当てはめるとき
マウスで分かったことが、そのままヒトに当てはまるとは限りません。INSL3の卵巣での働きは、その典型例です。げっ歯類と霊長類では、受容体がどの細胞にあるかが異なる可能性があり、同じホルモンでも作用の伝わり方が違うかもしれません。動物実験は貴重な手がかりですが、種による違いを踏まえて読むことが大切です。
7. 骨との関わり ─ 有望だが検証途上のテーマ
近年注目されているのが、INSL3と骨との関わりです。この分野には3種類の手がかりがあります。第一に、受容体RXFP2に変化を持つ若い男性で、骨量の低下や骨粗しょう症との関連が報告されました[6]。第二に、RXFP2を働かなくしたマウスで骨の異常が観察されました[6]。第三に、ヒトの骨をつくる細胞(骨芽細胞)をINSL3で刺激すると、骨形成に関わる指標が増え、骨の石灰化(せっかいか)が進むことが示されました[7]。
これらは「精巣と骨をつなぐホルモンの軸」という魅力的な仮説につながります。ただし、いくつかの重要な留保があります。骨の異常が、性腺機能の低下や男性ホルモン不足といった全身の変化から完全に切り離せているかは、まだ十分に確かめられていません。正常な男性の生理的なINSL3の変動が、骨の強さや骨折リスクを単独で予測できるのかも、これからの課題です。したがって現時点では、INSL3を「確立した骨のホルモン」と呼ぶより、精巣と骨を結ぶ内分泌の軸の候補と位置づけるのが、証拠に最も忠実な見方です。
8. 停留精巣と遺伝 ─ ヒトでの実像
停留精巣(ていりゅうせいそう)は、精巣が陰嚢まで降りきらずに途中でとどまっている状態で、男の子の生まれつきの異常の中でも頻度の高いものです。出生男児のおよそ2%にみられると報告されています[1]。INSL3は精巣下降を導くホルモンですから、その遺伝子や受容体の変化が停留精巣につながるのは、生物学的には自然な発想です。
実際、ヒトの停留精巣でINSL3の遺伝子にいくつかのミスセンス変異が報告されており、公的なデータベースでもINSL3と停留精巣が関連づけられています。さらに2023年には、両アレル性のINSL3機能喪失型バリアントが両側停留精巣と男性不妊の原因となることが示され、2026年には別の2例でもホモ接合性フレームシフトバリアントの機能障害が報告されました[11][12]。一方、別の集団では病的な変異が見つからない研究や、よくあるAla60Thr多型に関連を認めない研究もあり、一般的な停留精巣の高頻度原因ではありません。
💡 用語解説:ミスセンス変異と多型
ミスセンス変異とは、遺伝子の設計図の1文字が変わり、タンパク質の材料であるアミノ酸が別のものに置き換わる変化です。病気につながるものもあれば、影響のないものもあります。集団内で比較的よくみられる遺伝的な違いは「多型(たけい)」と呼ばれますが、多型であっても表現型への影響がまったくないとは限りません。ある変化が病気の原因かどうかは、頻度・家系での伝わり方・機能への影響などを総合して判断します。
この「強い動物実験の結果」と「弱いヒト集団遺伝学」のギャップは、INSL3研究で長く続く未解決の問題です。過去に報告された多くは、片方の遺伝子だけに変化があるケースや、孤発例・小さな家系でしたが、近年は両アレル性機能喪失型バリアントの病的意義が明確になっています[11]。一方、ヒトの一般的な停留精巣では、INSL3だけでなく、受容体RXFP2側の変化、男性ホルモンの経路、胎盤や母体の環境、胎児のライディッヒ細胞の発達具合など、複数の要因が組み合わさっている可能性があります。
したがって、現時点で最も慎重な解釈はこうなります。両アレル性のINSL3機能喪失はヒトでも両側停留精巣の原因となりうるが、一般的な(孤発性の)停留精巣で、INSL3の遺伝子変化が高頻度の原因になっているわけではない——。停留精巣でINSL3を調べることには研究的な意味がありますが、INSL3単独の検査を、停留精巣を高い感度で見つける一般的な診断検査とみなす根拠は乏しい、というのが実像です。より合理的なのは、重症・両側性・家族性の症例などで、RXFP2を含む関連遺伝子とあわせて、変化の頻度・家系での伝わり方・機能への影響を統合して解釈することです。
9. 遺伝診療との接点 ─ INSL3をどう位置づけるか
遺伝診療の視点から見ると、INSL3は「証拠の強さには大きな階層差がある」ことを教えてくれる、よい教材でもあります。INSL3が受容体RXFP2を通じて胎児の精巣下降を導く経路は確立した因果関係であり、血液のINSL3がライディッヒ細胞の機能状態を映すバイオマーカーであるという考えもかなり成熟しています。一方で、卵巣や成人の精子形成、骨代謝、そして個々のヒトのミスセンス変異が本当に病気の原因かどうかは、今なお検証の途上にあります。この階層を意識することが、INSL3に関する情報を正確に読むうえで最も大切なポイントです。
停留精巣という切り口だけで見ると、INSL3は「原因遺伝子の候補の一つ」にすぎません。しかし、性分化や精巣の発生という大きな流れの中に置くと、INSL3はSRY遺伝子のような性決定に関わる遺伝子や、受容体RXFP2、男性ホルモンの経路とともに、男性生殖器の発生を支える一連のしくみの一部として理解できます。重症の停留精巣や、他の精子形成の問題を伴う場合には、INSL3単独ではなく、関連する遺伝子群をまとめて評価する考え方が理にかなっています。
当院では、遺伝子や染色体に関わる検査の前後で、臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行っています。検査で何が分かり何が分からないのか、見つかった変化がご本人やご家族にとってどういう意味を持つのか、そしてどのような選択肢があるのかを、中立の立場で整理します。INSL3のように「マウスでは強い効果があるのに、ヒトでは浸透率が一定しない」遺伝子は、検査結果の意味を丁寧に読み解く必要がある典型例です。正確な情報に基づいて選択できるよう、判断材料を整理します。
10. よくある誤解
誤解①「INSL3はインスリンの仲間だから血糖に関係する」
「インスリン様」という名前は、分子の形が似た仲間という意味です。INSL3に、血糖を下げるといった代謝ホルモンとしての働きがある証拠はありません。名前と働きは別ものと考えてください。
誤解②「INSL3を調べれば停留精巣の原因が分かる」
ヒトの一般的な停留精巣では、INSL3単独の変化が主な原因になることはまれです。複数の要因が重なって起こると考えられており、INSL3単独検査を一般的な診断に使う根拠は乏しいのが現状です。
誤解③「INSL3はテストステロンの代わりになる」
INSL3とテストステロンは、同じライディッヒ細胞がつくりますが別の側面を映す指標です。テストステロンがその日の調子を、INSL3が長期的な機能容量を反映する、補い合う関係にあります。
誤解④「マウスで分かったことはヒトにそのまま当てはまる」
INSL3の卵巣での働きのように、種による違いが大きいテーマもあります。動物実験は貴重な手がかりですが、ヒトへの当てはめは慎重に、というのが正しい姿勢です。
まとめ ─ INSL3という「もうひとつのライディッヒ細胞ホルモン」
INSL3遺伝子は、精巣(と卵巣)でつくられる小さなペプチドホルモンの設計図です。そのいちばん確実な役割は、胎児期に受容体RXFP2を通じて精巣導帯を育て、精巣下降の第一段階を導くことです[1][2]。この経路は、ホルモンと受容体それぞれのノックアウトマウスが同じ症状を示すことから、確立した因果関係として教科書に載る内容になりました。
大人になってからは、INSL3はライディッヒ細胞の機能状態を映すバイオマーカーとして研究が進み[8]、思春期の遅れの原因を見分ける場面などでの応用が検討されています[9]。一方で、女性の卵巣での働き、骨代謝との関わり、そして個々のヒトの遺伝子変化が病気を起こすかどうかは、種による違いや浸透率の問題を含め、今なお検証の途上です[5][6]。INSL3を「停留精巣の遺伝子」という狭い枠だけで見るのではなく、ライディッヒ細胞の状態を伝えるホルモンとして、証拠の強さの違いを意識しながら理解することが、この遺伝子を正確に読むための鍵になります。
よくある質問(FAQ)
Q1. INSL3遺伝子とは何ですか?
INSL3遺伝子は、精巣のライディッヒ細胞(と卵巣の莢膜細胞)がつくる、インスリンに構造が似た小さなペプチドホルモン「インスリン様ペプチド3」の設計図です。19番染色体の短腕(19p13.11)にあります。胎児期には精巣下降の第一段階を導き、大人ではライディッヒ細胞の機能を映す指標として研究されています。名前は「インスリン様」ですが、血糖の調節に直接関わるわけではありません。
Q2. INSL3は精巣下降とどう関係していますか?
男の子の精巣は、おなかの奥から陰嚢へと2段階で降りてきます。その前半(おなかの中での移動)を導くのがINSL3です。ライディッヒ細胞から分泌されたINSL3が精巣導帯という組織にはたらきかけ、導帯が発達して精巣の移動を助けます。INSL3を働かなくしたマウスは両側の停留精巣になることが分かっており、この役割は確立しています。
Q3. INSL3の血液検査は何が分かりますか?
血液中のINSL3は、ライディッヒ細胞がどれくらい成熟し機能しているかを、比較的長い時間スケールで映す指標として研究されています。テストステロンより1日の中の変動が小さく、精巣の「基礎体力」に近いものを反映すると考えられます。小児期は低く、思春期に上がり、加齢でゆるやかに下がります。ただし測定法によって数値が変わるため、その検査法の基準範囲で読む必要があります。
Q4. INSL3遺伝子の変化があると必ず停留精巣になりますか?
いいえ。マウスでINSL3を完全に消すと両側の停留精巣になりますが、ヒトでは両アレル性のINSL3機能喪失型バリアントが両側停留精巣の原因となることが示されていますが、一般的な停留精巣の高頻度原因ではありません。片方のアレルだけの変化では発症しない例もあり、受容体RXFP2側の変化や男性ホルモンの経路、胎児期の環境など、複数の要因も関与します。
Q5. INSL3は女性にも関係ありますか?
あります。INSL3は女性でも卵巣の莢膜細胞や黄体などで発現します。げっ歯類では卵子の成熟や生殖細胞の生存に関わるというデータがありますが、ヒトに近いアカゲザルでは受容体の分布が異なり、卵子そのものには受容体が見つかりませんでした。そのため、動物実験の結果をそのままヒトに当てはめるのは慎重であるべきで、ヒトでの機能はまだ確立していません。
🏥 遺伝子や染色体に関わる検査のご相談
遺伝子の働きや遺伝性の病気、遺伝子検査の結果の意味について
お考えの方は、臨床遺伝専門医が在籍する
ミネルバクリニックにご相談ください。
参考文献
- [1] Nef S, Parada LF. Cryptorchidism in mice mutant for Insl3. Nat Genet. 1999;22(3):295-299. doi:10.1038/10364. [PubMed 10391220]
- [2] Kumagai J, Hsu SY, Matsumi H, et al. INSL3/Leydig insulin-like peptide activates the LGR8 receptor important in testis descent. J Biol Chem. 2002;277(35):31283-31286. doi:10.1074/jbc.C200398200. [PubMed 12114498]
- [3] Rosengren KJ, Zhang S, Lin F, et al. Solution structure and characterization of the LGR8 receptor binding surface of insulin-like peptide 3. J Biol Chem. 2006;281(38):28287-28295. doi:10.1074/jbc.M603829200. [PubMed 16867980]
- [4] Kawamura K, Kumagai J, Sudo S, et al. Paracrine regulation of mammalian oocyte maturation and male germ cell survival. Proc Natl Acad Sci U S A. 2004;101(19):7323-7328. doi:10.1073/pnas.0307061101. [PubMed 15123806]
- [5] Hanna CB, Yao S, Patta MC, Jensen JT, Wu X. Expression of insulin-like 3 (INSL3) and differential splicing of its receptor in the ovary of rhesus macaques. Reprod Biol Endocrinol. 2010;8:150. doi:10.1186/1477-7827-8-150. [PubMed 21138583]
- [6] Ferlin A, Pepe A, Gianesello L, et al. Mutations in the insulin-like factor 3 receptor are associated with osteoporosis. J Bone Miner Res. 2008;23(5):683-693. doi:10.1359/jbmr.080204. [PubMed 18433302]
- [7] Ferlin A, Perilli L, Gianesello L, Taglialavoro G, Foresta C. Profiling insulin like factor 3 (INSL3) signaling in human osteoblasts. PLoS One. 2011;6(12):e29733. doi:10.1371/journal.pone.0029733. [PubMed 22216350]
- [8] Albrethsen J, Johannsen TH, Jørgensen N, et al. Evaluation of Serum Insulin-like Factor 3 Quantification by LC-MS/MS as a Biomarker of Leydig Cell Function. J Clin Endocrinol Metab. 2020;105(6):dgaa145. doi:10.1210/clinem/dgaa145. [PubMed 32211773]
- [9] Abbara A, Koysombat K, Phylactou M, et al. Insulin-like peptide 3 (INSL3) in congenital hypogonadotrophic hypogonadism (CHH) in boys with delayed puberty and adult men. Front Endocrinol (Lausanne). 2022;13:1076984. doi:10.3389/fendo.2022.1076984. [PubMed 36523592]
- [10] Ivell R, Mamsen LS, Andersen CY, Anand-Ivell R. Expression and Role of INSL3 in the Fetal Testis. Front Endocrinol (Lausanne). 2022;13:868313. doi:10.3389/fendo.2022.868313. [PubMed 35464060]
- [11] Dicke AK, Albrethsen J, Hoare BL, et al. Bi-allelic variants in INSL3 and RXFP2 cause bilateral cryptorchidism and male infertility. Hum Reprod. 2023;38(7):1412-1423. doi:10.1093/humrep/dead105. [PubMed 37208861]
- [12] Wei C, Lu W, Li Y, et al. Novel INSL3 variants cause male infertility with cryptorchidism. J Assist Reprod Genet. 2026;43(2):469-477. doi:10.1007/s10815-025-03747-4. [PubMed 41369823]



