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HER2(ERBB2)遺伝子とは?働き・がんとの関係・最新の標的治療をわかりやすく解説

仲田洋美 医師

この記事の監修:仲田洋美(臨床遺伝専門医)

のべ10万人以上の意思決定に伴走。国際医療誌『Medical Care Review APAC』『Global Woman Leader』の2誌で表紙を飾り、「Top Prenatal Testing Service in APAC 2025」に選出されるなど、世界基準の遺伝医療を提供。

HER2(ERBB2)は、乳がん・胃がん・肺がんなど多くのがんを強力に推し進める「がん遺伝子(がん原遺伝子)」でありながら、いまや最も治療が進歩した分子標的の一つでもあります。かつて「予後が悪い」と恐れられたHER2陽性がんは、トラスツズマブから抗体薬物複合体(ADC)エンハーツ(T-DXd)に至る薬剤の登場で、長くコントロールできる病気へと姿を変えつつあります。この記事では、HER2遺伝子の正体・がん化のしくみ・検査方法・最新治療までを、一般の方にもわかるように臨床遺伝専門医が解説します。

この記事でわかること
📖 読了時間:約18分
🧬 HER2・遺伝子増幅・分子標的治療
臨床遺伝専門医監修

Q. HER2(ERBB2)遺伝子とは何ですか?まず結論だけ知りたいです

A. HER2(ERBB2)は、細胞の表面で「増えなさい」という命令を受け取るアンテナ(受容体)の設計図となる遺伝子です。正常では成長を適切に調整していますが、この遺伝子が異常にコピーを増やす「遺伝子増幅」を起こすと、アンテナが過剰に作られて細胞が暴走し、がんを推し進めます。一方でHER2は狙い撃ちしやすい標的でもあり、抗HER2薬の進歩によって予後が大きく改善しています。

  • 遺伝子の正体 → 17番染色体にあり、HER2受容体(受容体チロシンキナーゼ)をコードする
  • がん化のしくみ → 遺伝子増幅による過剰発現で、PI3K/AKTやMAPK経路が暴走する
  • 調べ方 → IHC(タンパク量)とFISH(遺伝子コピー数)で判定し、コンパニオン診断で治療を決める
  • 最新治療 → DESTINY-Breast09でPFS 40.7か月の新基準。ADCの「バイスタンダー効果」が鍵
  • 広がり → 乳がんだけでなく胃がん・肺がん・大腸がんにも抗HER2療法が展開

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1. HER2(ERBB2)遺伝子とは:全体像をつかむ

HER2は「ヒト上皮増殖因子受容体2(Human Epidermal growth factor Receptor 2)」の略で、正式な遺伝子名はERBB2(erb-b2 receptor tyrosine kinase 2)です。この遺伝子は、細胞の表面に突き出た「アンテナ」のようなタンパク質をつくる設計図で、外から届く「増えなさい」という信号を細胞の内側へ伝える役割を担います[1]。正常な細胞では、このアンテナは必要なときだけ働き、細胞の数を適切に保っています。

ところが、何らかの理由でERBB2遺伝子が異常にコピーを増やすと、アンテナが過剰に作られ、信号が鳴りやまない状態になります。すると細胞は際限なく増え続け、がんへと進みます。HER2は発見当初こそ「予後不良の印」として恐れられましたが、抗体薬・低分子薬・抗体薬物複合体(ADC)という3種類の武器が次々に開発され、いまでは「狙い撃ちできる標的」の代表格になりました[4]。この記事ではその全体像を、できるだけやさしい言葉でひもといていきます。

2. 遺伝子の基本データと染色体上の位置

ERBB2遺伝子は、17番染色体の長腕、17q12という場所に位置するがん原遺伝子です[1]。そこから作られるタンパク質は分子量およそ185キロダルトンの膜貫通型糖タンパク質で、専門的には「p185」とも呼ばれます[2]。なお、がんでは17q12のまわりの広い領域(17q12〜q21あたり)がひとかたまりで増える「アンプリコン(増幅の単位)」を形成することがあり、HER2の周囲に位置する別の遺伝子も一緒にコピーが増えることが知られています[5]。「遺伝子そのものの座位(17q12)」と「がんで増える領域(17q12〜q21)」は区別して理解しておくと正確です。

💡 用語解説:受容体チロシンキナーゼ(RTK)

細胞膜を貫いて外と内をつなぐ「アンテナ型のスイッチ」で、外から信号を受け取ると細胞の内側でリン酸をつけ合う反応(リン酸化)を起こし、増殖の命令を伝えます。HER2はこの受容体チロシンキナーゼの仲間で、EGFR(HER1)・HER2・HER3・HER4からなる「HERファミリー(ErbBファミリー)」を構成します。くわしくは受容体チロシンキナーゼの解説もご覧ください。

ERBB2には選択的スプライシングによって複数の転写バリアント(読み取られ方の異なる型)が存在します[1]。よく知られた多型として、アミノ酸654番・655番の違い(野生型はIle654/Ile655)が報告されており、これは乳がんのなりやすさとの関連が研究されてきました[1]。また第7染色体と第11染色体には、ERBB2に由来する「偽遺伝子(はたらかないコピー)」が存在することも分かっており、ヒトゲノムのなかで遺伝子が複製されてきた歴史を物語っています。

3. HER2はどう働く? リガンドを持たない「名パートナー」

HERファミリーの多くは、特定の「鍵(リガンド)」が結合して初めて働きます。ところがHER2には、直接結合する鍵がひとつも知られていません[1]。代わりにHER2は、つねに「いつでも組める開いた姿勢」を保っており、鍵を受け取った他の受容体にとって最も組みたい相手(最優先のパートナー)として働きます。鍵を持たないのに、いちばん人気の相方というわけです[3]

💡 用語解説:ヘテロ二量体(ヘテロダイマー)

2つの受容体が手をつないでペアを組むことを「二量体形成」といい、種類の違う受容体どうしが組むものをヘテロ二量体と呼びます。HER2が相方のHER3とペアを組んだ「HER2-HER3」は、HERファミリーのなかで最も強力な信号を出す組み合わせです。HER3はキナーゼ(酵素)としての力は弱いのですが、増殖信号の中継役であるPI3Kを引き寄せる力が強く、HER2の酵素活性と組み合わさることで、効率よくがんの信号を作り出します[3]

ペアが組まれると、HER2の細胞内側にあるスイッチが自己リン酸化によってオンになり、おもに2本の信号ルートが動き出します。ひとつはMAPK経路(細胞の増殖・分裂をうながす)、もうひとつはPI3K/AKT/mTOR経路(細胞が死ににくくなり、生き延びる)です[3]。この2本が同時に動くことで、がん細胞は「増える」と「死なない」を同時に手に入れてしまうのです。下の図はその流れを示したものです。

HER2のシグナル伝達(ヘテロ二量体と下流の2経路) 細胞膜 HER2 HER3 リガンド 自己リン酸化でスイッチON MAPK経路 PI3K/AKT /mTOR経路 細胞増殖 細胞生存(死ににくい)

HER2は自分のリガンドを持たないが、リガンドが結合したHER3などと優先的にペアを組む。スイッチが入ると、MAPK経路(増殖)とPI3K/AKT/mTOR経路(生存)が同時に活性化し、がん細胞の増殖と生存が促される。

4. なぜがんになる? 遺伝子増幅と過剰発現

HER2ががんを引き起こす最大の原因は、遺伝子配列の変化(変異)ではなく、遺伝子のコピー数が爆発的に増える「遺伝子増幅」です。乳がんの約15〜20%でERBB2遺伝子の増幅が起こり、その結果として細胞表面のHER2受容体が異常に過剰発現します[4]。アンテナの数が何十倍にも増えれば、信号は鳴りやまず、細胞は無秩序に増えていきます。

💡 用語解説:遺伝子増幅と過剰発現はどう違う?

遺伝子増幅は「設計図(遺伝子)のコピーが増えること」、過剰発現は「その設計図から作られる製品(タンパク質)が増えること」を指します。HER2では、まず遺伝子が増幅し、その結果としてHER2タンパク質が過剰発現する、という順番で起こります。だからこそ検査では「タンパク質の量(IHC)」と「遺伝子のコピー数(FISH)」の両方を見るのです。くわしくは遺伝子増幅の解説をご覧ください。

遺伝子増幅には、染色体の中に増幅した遺伝子が縦に連なって挿入されるHSR(均質染色領域)と、染色体の外に小さな環状DNA断片として浮遊するDMs(ダブルミニッツ)という2つの形があります[5]。とくにDMsは中心体(セントロメア)を持たないため細胞分裂のたびに不均等に分配され、腫瘍の中に多様な細胞が生まれる「腫瘍内不均一性」を強めます。さらに、抗HER2薬で細胞表面のHER2が見かけ上消えても、DMsそのものは細胞内に温存されていることがあり、これが薬剤への適応(耐性)の一因と考えられています[5]

なお、HER2増幅の「予後への影響」は病期によって異なることが分かっています。早期(ステージI・II)では生存率への有意差が見られない一方、局所進行を伴うステージIIIでは予後を大きく左右する独立した不良因子になると報告されています[6]。これは、HER2が出す強い信号(特にPI3K/AKT経路による浸潤・転移能の獲得)が、病気が進む段階で決定的に効いてくることを示しています。

5. HER2をどう調べる? 病理検査とコンパニオン診断

抗HER2治療を正しく届けるには、その腫瘍が本当にHER2に依存しているかを見極める必要があります。検査の柱は2つで、IHC(免疫組織化学染色)で細胞表面のHER2タンパク量を、FISH(蛍光in situハイブリダイゼーション)で遺伝子のコピー数を調べます。まずIHCでふるい分けし、判定が境界(IHC 2+)の場合にFISHで確定する、という流れが標準です。

💡 用語解説:IHCとFISH

IHC(免疫組織化学)は、抗体を使ってHER2タンパク質を染め、染まり方を0・1+・2+・3+の4段階で評価する方法です。「タンパク質がどれだけ多いか」を見ます。

FISHは、光る目印をつけてERBB2遺伝子のコピー数を数える方法です。「遺伝子そのものが増えているか」を見ます。両方を組み合わせることで、過剰発現と増幅を正確に判定できます。これらの検査結果に基づいて治療薬を選ぶしくみをコンパニオン診断(CDx)と呼びます。

注意したいのは、同じ「HER2陽性」でも、乳がんと胃がん(胃・食道胃接合部がん)では判定基準が異なることです。胃がんは腺管をつくる性質が強く、細胞の全周が染まりにくいため、乳がんの基準をそのまま当てはめると本来治療が効くはずの患者を見落とすおそれがあります。そこで胃がん専用の基準が確立されました[7]。違いを表にまとめます。

評価項目 乳がん 胃がん
膜の染まり方 細胞膜の全周(ぐるり一周)が染まるのが基本 側面・底面だけ染まる不完全なU字型が多い
腫瘍内のばらつき 比較的均一で、ばらつきは少なめ 非常に不均一で、陽性・陰性がモザイク状に混在
IHC 3+(陽性)の定義 10%を超える細胞で強い全周性の膜染色 10%以上で強い完全〜側底膜性の染色(完全な全周は不要)
FISHの必須性 IHC 2+(境界)で必須 IHC 2+(境界)で必須

近年は後述する「HER2低発現」の登場により、IHC 0とIHC 1+を正確に見分けることがいっそう重要になりました。わずかな染まり方の差が治療の選択を左右するため、強拡大での丁寧な観察やダブルチェック体制など、より厳格な評価が推奨されています[7]

6. HER2を標的とする治療の進化:抗体・TKI・ADC

1998年に最初の抗HER2抗体トラスツズマブが承認されて以来、HER2を狙う薬は大きく3つの種類に分かれて発展してきました[4]。それぞれ攻め方が異なり、組み合わせて使うこともあります。

種類 代表的な薬 しくみ
抗体(モノクローナル抗体) トラスツズマブ、ペルツズマブ HER2の外側に結合してペア形成を妨げ、免疫を呼び寄せて腫瘍を攻撃する
低分子薬(TKI) ラパチニブ、ツカチニブ、ネラチニブ 細胞内に入りスイッチ部分を止める。脳に届きやすく脳転移にも有効なものがある
抗体薬物複合体(ADC) T-DM1、T-DXd(エンハーツ) 抗体に強力な抗がん剤をリンカーで結合。HER2を目印に薬を細胞内へ届けて放出する

第一世代のADCであるT-DM1(カドサイラ)は大きな貢献を果たしましたが、いま治療を塗り替えているのが、トポイソメラーゼI阻害剤を運ぶ新世代ADCのT-DXd(トラスツズマブ デルクステカン/エンハーツ)です[4]。そのインパクトを象徴するのが、次に紹介するDESTINY-Breast09試験です。

7. 第一選択治療の大転換:DESTINY-Breast09

HER2陽性の転移性乳がんで「最初に行う治療(一次治療)」は、10年以上にわたりタキサン+トラスツズマブ+ペルツズマブ(THP療法)が絶対的な標準でした。これを覆したのが、2025年の米国臨床腫瘍学会(ASCO)で発表され、同年10月にThe New England Journal of Medicine誌に掲載されたDESTINY-Breast09試験です[8]

未治療のHER2陽性進行・転移性乳がん1,157名を対象に、T-DXd+ペルツズマブと従来のTHP療法を比較したこの試験で、T-DXd併用群は病勢進行または死亡のリスクを44%減少させました(ハザード比0.56)。無増悪生存期間(PFS)の中央値は、THP群の26.9か月に対しT-DXd併用群で40.7か月に達し、3年を優に超える新たな基準を打ち立てました[8]。腫瘍が縮む割合(奏効率)も85.1%対78.6%とT-DXd併用群が上回りました[8]

DESTINY-Breast09:一次治療における無増悪生存期間(PFS)中央値

病勢進行を伴わずに過ごせた期間の中央値(月)

26.9か月
40.7か月

THP療法(従来の標準)

T-DXd+ペルツズマブ

ハザード比 0.56(95%信頼区間 0.44-0.71)。病勢進行・死亡のリスクを44%減少させ、一次治療のPFS中央値が3年を超える新たなベンチマークを確立した。

💡 用語解説:PFS・ハザード比とは

PFS(無増悪生存期間)は「がんが悪化せずに過ごせた期間」のことです。長いほど、その治療でがんを長くおさえられたことを意味します。

ハザード比(HR)は、2つの治療で「悪い出来事の起こりやすさ」を比べた数字です。1より小さいほど効果が大きいことを示し、今回の0.56は「悪化・死亡のリスクが約44%減った」という意味になります。

安全性は個々の薬で知られたプロファイルと一貫していましたが、T-DXdで最も注意を要する間質性肺疾患(ILD)・肺臓炎はT-DXd併用群の12.1%で発生し、慎重なモニタリングと早期対応が欠かせません[8]。この圧倒的な結果を受け、米国FDAは2025年12月、本レジメンを一次治療として承認しました[9]。10年以上動かなかった一次治療の標準が、ついに塗り替わったのです。

仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「予後が悪い」が「長く付き合える」に変わった20年】

私はがん薬物療法専門医として成人のがん診療に長く携わってきましたが、HER2陽性乳がんという病気の位置づけは、この20年あまりで本当に大きく変わりました。かつてHER2陽性は「進行が速く予後が悪い型」の代名詞で、薬の選択肢も限られていました。それがトラスツズマブの登場で一変し、いまやエンハーツ(T-DXd)のような抗体薬物複合体が、一次治療の標準まで書き換えています。

数字だけを見ると無機質ですが、PFSが40か月を超えるということは、診断のときに「年単位で病気と付き合っていける」とお話しできるということです。もちろん間質性肺疾患など注意すべき副作用はありますが、「治らない病気」が「長くコントロールできる病気」へと変わっていく現場に立ち会えることは、この仕事をしていて深く心を動かされる瞬間です。

8.「HER2低発現」という新しい考え方とバイスタンダー効果

長らくHER2治療は「陽性か、陰性か」という二択で考えられてきました。この枠組みでは、抗HER2療法の恩恵を受けられるのは全乳がんの約15〜20%だけで、残りはすべて「陰性」として標的治療の対象外とされていました。ところがDESTINY-Breast04試験が、この常識を根本から覆しました[10]

💡 用語解説:HER2低発現(HER2-Low)

従来「陰性」とされていた中に、細胞表面にごく少量だけHER2を持つグループがあります。これをHER2低発現(HER2-Low)と呼び、「IHC 1+、またはIHC 2+かつFISH陰性」と定義されます。驚くべきことに、全乳がんの最大55%がこのカテゴリーに当てはまることが分かりました[10]。「陰性」の中に、実は治療の対象になりうる大きな集団が隠れていたのです。

なぜ、従来の抗HER2薬が効かなかったHER2低発現に、T-DXdは効くのでしょうか。その鍵が「バイスタンダー効果」です[11]。T-DXdは抗体1分子に約8個もの抗がん剤(ペイロード)を結合しており、HER2を目印に細胞内へ運ばれて薬を放出します。ここで放出された薬は細胞膜を通り抜ける性質を持つため、運ばれた細胞を倒したあと周囲へ漏れ出し、HER2をほとんど持たない隣の細胞まで巻き込んで死滅させます。これがバイスタンダー(巻き添え)効果です[11]

次世代ADCによるバイスタンダー効果 HER2陽性細胞 ADCが取り込まれ薬を放出 薬が漏れ出して拡散 HER2陰性細胞 標的を持たない隣の細胞も死滅

T-DXdはHER2を目印に細胞内へ薬を運んで放出する。漏れ出した薬は膜を通り抜けて周囲へ拡散し、HER2をほとんど持たない隣接細胞まで死滅させる(バイスタンダー効果)。これにより、発現が乏しく不均一な腫瘍にも効果を発揮できる。

この効果のおかげで、HER2が乏しく、モザイク状に不均一な腫瘍でも全体を効果的に縮小できます。「HER2-Low」はもはや単なる検査値の分類ではなく、明確に治療できる独立した疾患単位へと格上げされたのです。HER2が「増殖のエンジン」であるだけでなく、強力な薬を腫瘍へ届けるための「配達先タグ」としても利用される——発想の大きな転換が起きています。

9. 乳がん以外への広がり:胃がん・肺がん・大腸がん

乳がんで培われたHER2の知見は、他のがんへも急速に応用されています。胃がん(胃・食道胃接合部がん)ではHER2陽性率が約5〜17%で、腫瘍内のばらつきが非常に大きいのが特徴です。一次治療では、HER2標的療法と化学療法に免疫チェックポイント阻害薬ペムブロリズマブを上乗せすることで成績が改善することがKEYNOTE-811試験で示され、HER2と免疫の「二刀流」へと移行しつつあります[12]。後方ラインでもT-DXdが有効性を示し、不均一な腫瘍に対してバイスタンダー効果が有利に働くと考えられています。

非小細胞肺がん(NSCLC)では、増幅や過剰発現ではなく、遺伝子配列そのものの異常である「HER2変異(活性化変異)」が主役になります。NSCLC全体の約1.6〜4%に見られ、EGFR変異などと同様に腫瘍を強力に推し進めるドライバー変異として働きます[13]。DESTINY-Lung02試験では、HER2変異陽性NSCLCに対してT-DXdが高い奏効を示し、低用量(5.4 mg/kg)でも十分な効果を保ちながら間質性肺疾患などのリスクを抑えられることが確認され、標準用量として設定されました[13]

💡 用語解説:「増幅」と「変異」はどう違う?

増幅は遺伝子のコピー数が増えること(乳がん・胃がんで主役)、変異は遺伝子の文字配列そのものが書き換わること(肺がんで主役)です。同じHER2でも、がんの種類によって異常のタイプが異なり、検査の見るポイントも治療薬の選び方も変わります。だからこそ「どのがんで、どんなHER2異常があるか」を正確に調べることが治療の出発点になります。

このほか大腸がんでもHER2陽性例(およそ1〜5%)に対する抗HER2療法の開発が進むなど、HER2は臓器を横断して標的になりうる分子として注目が広がっています。

10. 遺伝子検査・遺伝カウンセリングとのつながり

HER2を標的とする治療を受けるには、まずその腫瘍がHER2に依存しているかを分子レベルで確かめることが前提になります。「HER2異常の同定なくして抗HER2治療なし」——これが精密医療の鉄則です。HER2は主に「後天的に(体細胞性に)」生じる異常であり、生まれつきの体質を調べる検査とは性質が異なる点も、知っておくと安心です。

ミネルバクリニックでは、血液から循環腫瘍DNA(ctDNA)を解析するリキッドバイオプシーforモニター検査を提供しており、その対象遺伝子にはERBB2が含まれます。肺がん・乳がん・大腸がんいずれのパネルにもERBB2が収載されており、採血のみで体細胞変異の有無や治療効果・再発のモニタリングに活用できます。組織が採りにくい場合の補完的な選択肢として、またがんのリキッドバイオプシーの考え方とあわせてご検討いただけます。

💡 用語解説:体細胞変異と生殖細胞系列変異

体細胞変異は、生まれたあとに特定の細胞だけに生じる変化で、多くのがんのHER2異常がこれにあたります。子どもに受け継がれることはありません。一方生殖細胞系列変異は生まれつき全身の細胞が持つ変化で、遺伝性腫瘍の原因になります。HER2陽性がんの大半は体細胞性ですが、家族にがんが集積している場合などは、遺伝性腫瘍の観点から臨床遺伝専門医による評価が役立つことがあります。

検査の結果は、ときに不安を伴う情報でもあります。当院では、がん薬物療法専門医・臨床遺伝専門医が在籍し、検査前後の遺伝カウンセリングを通じて、数値そのものだけでなく「結果をどう受け止め、どう次の一歩を選ぶか」までを一緒に考えます。情報をお伝えする立場として、特定の検査や治療を一方的に勧めることはせず、ご本人・ご家族の意思決定に寄り添うことを大切にしています。

11. よくある誤解

誤解①「HER2陽性は予後が悪いだけ」

確かに発見当初は予後不良の印とされましたが、今は最も治療が進歩した型のひとつです。抗体・TKI・ADCの登場で、長くコントロールできる病気へと変わりつつあります。

誤解②「HER2陰性なら抗HER2薬は無関係」

従来「陰性」とされた中にもHER2低発現という大きな集団があり、T-DXdの恩恵を受けられる場合があります。「0か100か」ではなくなりました。

誤解③「HER2陽性は遺伝するから家族も危険」

HER2陽性がんの多くは後天的な体細胞異常で、子どもへ受け継がれるものではありません。家族へ遺伝する遺伝性腫瘍とは区別して理解しましょう。

誤解④「HER2は乳がんだけの話」

HER2異常は胃がん・肺がん・大腸がんなど多くのがんに関わります。がんの種類によって「増幅」か「変異」かが異なり、検査と治療の選び方も変わります。

仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「分子の言葉」を読み解いて治療を選ぶ時代へ】

HER2の物語は、現代のがん医療がどこへ向かっているかを象徴しています。同じ「HER2」という言葉でも、乳がんでは増幅、肺がんでは変異というように、がんごとに異常のかたちが違います。その違いを正確に読み解くことが、効く薬を選ぶ出発点になります。がん薬物療法専門医として日々感じるのは、検査と治療がここまで密接につながった時代はかつてなかった、ということです。

大切なのは、数字や分類だけで一喜一憂しないことです。HER2陽性でも低発現でも、いまは選択肢が広がっています。当院では、検査結果の意味を丁寧にお伝えし、ご本人とご家族が納得して次の一歩を選べるよう、中立な立場で伴走することを心がけています。気がかりなことがあれば、どうぞ遠慮なくご相談ください。

よくある質問(FAQ)

Q1. HER2とERBB2は同じものですか?

はい、同じものを指します。ERBB2が正式な遺伝子名で、そこから作られるタンパク質(受容体)の通称がHER2です。論文や検査ではERBB2、臨床の現場ではHER2と呼ばれることが多く、HER2/neuと表記されることもあります。

Q2. HER2陽性がんは遺伝しますか?家族も検査すべきですか?

HER2陽性がんの多くは、生まれたあとに腫瘍だけに生じる体細胞性の異常であり、原則として子どもや家族へ受け継がれるものではありません。ただし、若年発症や家族内でのがん集積がある場合は、別の遺伝性腫瘍が背景にある可能性もあるため、臨床遺伝専門医による評価が役立つことがあります。

Q3. 「HER2陰性」と言われましたが、それでも効く薬はありますか?

あり得ます。従来「陰性」とされた中に、ごく少量のHER2を持つHER2低発現(IHC 1+、またはIHC 2+かつFISH陰性)というグループがあり、全乳がんの最大55%が該当します。DESTINY-Breast04試験で、この集団に対してT-DXd(エンハーツ)が有効であることが示されました。IHC 0と1+の見分けが重要になるため、病理判定の確認が大切です。

Q4. IHCとFISHは何が違うのですか?どちらを受ければよいですか?

IHCはHER2タンパク質の量を、FISHは遺伝子のコピー数を調べます。通常はまずIHCでふるい分けし、判定が境界(IHC 2+)の場合にFISHで確定する、という順番で行われます。どちらを行うかは病理診断の流れの中で決まるため、患者さんご自身が選ぶというより、標準化された手順に沿って判定されます。

Q5. エンハーツ(T-DXd)で特に注意すべき副作用は何ですか?

最も注意を要するのは間質性肺疾患(ILD)・肺臓炎です。DESTINY-Breast09ではT-DXd+ペルツズマブ群の12.1%で発生が報告されており、咳・息切れ・発熱などの症状に早く気づき、医療機関へ連絡することが重要です。定期的なモニタリングと早期介入が安全に使うための前提になります。具体的な投与判断は治療担当医のもとで行われます。

Q6. 血液検査だけでHER2(ERBB2)を調べることはできますか?

採血で循環腫瘍DNA(ctDNA)を調べるリキッドバイオプシーでは、ERBB2を含む遺伝子の体細胞変異を調べることができます。組織が採りにくい場合の補完や、治療効果・再発のモニタリングに役立ちます。ただし組織生検が診断のゴールドスタンダードであることに変わりはなく、目的に応じて使い分けます。詳しくは専門医にご相談ください。

Q7. 同じHER2でも、乳がんと肺がんで何が違うのですか?

主役となる異常のタイプが違います。乳がん・胃がんでは遺伝子の増幅(コピー数の増加)が中心ですが、非小細胞肺がんでは遺伝子配列の変異(活性化変異)が中心です。そのため検査で見るポイントも、効く薬の選び方も変わります。「どのがんで、どんなHER2異常か」を正確に調べることが、治療選択の出発点になります。

🏥 がん遺伝子検査・遺伝カウンセリングのご相談

HER2(ERBB2)をはじめとするがん遺伝子の検査や
遺伝カウンセリングは、がん薬物療法専門医・臨床遺伝専門医が
在籍するミネルバクリニックにお気軽にご相談ください。

参考文献

  • [1] ERBB2 erb-b2 receptor tyrosine kinase 2 (human). Gene ID: 2064. NCBI Gene. [NCBI Gene 2064]
  • [2] ERBB2 (HER2). Cancer Genetics Web. [Cancer Genetics Web]
  • [3] The oncogene HER2: its signaling and transforming functions and its role in human cancer pathogenesis. PMC. [PMC3021475]
  • [4] A Comprehensive Review of HER2 in Cancer Biology and Therapeutics. PMC. [PMC11275319]
  • [5] Patterns of HER2 Gene Amplification and Response to Anti-HER2 Therapies. PMC. [PMC4467984]
  • [6] Prognostic Significance of HER2 Gene Amplification According to Stage of Breast Cancer. PMC. [PMC2526508]
  • [7] HER2 testing in gastric cancer: An update. PMC. [PMC4870069]
  • [8] Tolaney SM, et al. Trastuzumab Deruxtecan plus Pertuzumab for HER2-Positive Metastatic Breast Cancer (DESTINY-Breast09). N Engl J Med. 2025. [NEJM]
  • [9] Enhertu plus pertuzumab approved in the US for 1st-line HER2-positive metastatic breast cancer (Dec 2025). AstraZeneca. [AstraZeneca]
  • [10] ENHERTU Significantly Improved Both Progression-Free and Overall Survival in DESTINY-Breast04 in HER2 Low Metastatic Breast Cancer. Daiichi Sankyo. [Daiichi Sankyo]
  • [11] ADCs in Breast Cancer: Shaping the Future of HER2- and TROP2-Targeted Therapy. Pharmacy Times. [Pharmacy Times]
  • [12] KEYNOTE-811: Potential to revise first-line therapy for metastatic HER2-positive gastric cancer. PMC. [PMC11077284]
  • [13] Trastuzumab Deruxtecan in Patients With HER2-Mutant Metastatic Non-Small-Cell Lung Cancer (DESTINY-Lung02). PMC. [PMC10617843]

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仲田洋美 医師(臨床遺伝専門医)

この記事の監修・執筆者:仲田 洋美

(臨床遺伝専門医/がん薬物療法専門医/総合内科専門医)

ミネルバクリニック院長。1995年に医師免許を取得後、 臨床遺伝学・内科学・腫瘍学を軸に診療を続けてきました。 のべ10万人以上のご家族の意思決定と向き合ってきた臨床遺伝専門医です。

出生前診断(NIPT・確定検査・遺伝カウンセリング)においては、 検査結果の数値そのものだけでなく、 「結果をどう受け止め、どう生きるか」までを医療の責任と捉え、 一貫した遺伝カウンセリングと医学的支援を行っています。

ハイティーンの時期にベルギーで過ごし、 日本人として異文化の中で生活した経験があります。 価値観や宗教観、医療への向き合い方が国や文化によって異なることを体感しました。 この経験は現在の診療においても、 「医学的に正しいこと」と「その人にとって受け止められること」の両立を考える姿勢の基盤となっています。

また、初めての妊娠・出産で一卵性双生児を妊娠し、 36週6日で一人を死産した経験があります。 その出来事は、妊娠・出産が女性の心身に与える影響の大きさ、 そして「トラウマ」となり得る体験の重みを深く考える契機となりました。 現在は、女性を妊娠・出産のトラウマから守る医療を使命の一つとし、 出生前診断や遺伝カウンセリングに取り組んでいます。

出生前診断は単なる検査ではなく、 家族の未来に関わる重要な意思決定です。 年齢や統計だけで判断するのではなく、 医学的根拠と心理的支援の両面から、 ご家族が後悔の少ない選択をできるよう伴走することを大切にしています。

日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医/日本内科学会認定 総合内科専門医/ 日本臨床腫瘍学会認定 がん薬物療法専門医。 2025年には APAC地域における出生前検査分野のリーダーとして国際的評価を受け、 複数の海外メディア・専門誌で特集掲載されました。

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