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D-セリンとは?NMDA受容体を操る“D体アミノ酸”とアルツハイマー病・統合失調症・脊髄性筋萎縮症の関係を遺伝専門医が解説

仲田洋美 医師

この記事の監修:仲田洋美(臨床遺伝専門医)

のべ10万人以上の意思決定に伴走。国際医療誌『Medical Care Review APAC』『Global Woman Leader』の2誌で表紙を飾り、「Top Prenatal Testing Service in APAC 2025」に選出されるなど、世界基準の遺伝医療を提供。

脳の中には、右手と左手のように「かたちが鏡写しの関係」にあるアミノ酸が存在します。その代表がD-セリン(D-serine)です。長いあいだ、体の中で働くアミノ酸はすべて片方の型(L体)だと考えられてきましたが、脳では例外的にもう片方の型(D体)が高い濃度で働いており、記憶や学習の中心を担うNMDA受容体のスイッチを補助しています。このD-セリンは、多すぎれば神経を傷つけ、少なすぎれば脳のネットワークがうまく働かなくなる、という「ちょうどよさ」の上に成り立っています。まれな分子の話に見えて、その乱れはアルツハイマー病・統合失調症・脊髄性筋萎縮症という、まったく異なる病気に共通して関わっています。ですからD-セリンを理解することは、これらの病気で今どんな治療研究が進んでいるのかを理解することにもつながります。本記事では、この不思議なD体アミノ酸の役割を遺伝専門医がやさしく解説します。

この記事でわかること
📖 読了時間:約18分
🧬 NMDA受容体・興奮毒性・治療研究
臨床遺伝専門医監修

Q. D-セリンとは何ですか?まず結論だけ知りたいです

A. D-セリンは、脳の記憶・学習の中心にあるNMDA受容体を活性化するために欠かせない「補助のカギ(コ・アゴニスト)」です。グルタミン酸というアクセルだけでは受容体は開かず、D-セリンがもう一つのカギ穴に同時にはまることで初めてスイッチが入ります。適量では学習を支えますが、アルツハイマー病ではD-セリン過剰による興奮毒性への関与が、統合失調症ではD-セリン/NMDA受容体シグナル低下との関連が研究されています。この二面性が、さまざまな脳の病気を理解する手がかりになっています。

  • 正体 → L-セリンと鏡写しの関係にあるD体アミノ酸。脳が意図的に選んで使うシグナル分子
  • 役割 → NMDA受容体のGluN1というカギ穴にはまる、前脳の主要なコ・アゴニスト
  • 二面性 → 適量は神経を守り、過剰は神経を殺す(Yin-Yang特性)
  • 病気との関係 → アルツハイマー病では過剰なD-セリンの関与、統合失調症ではD-セリン信号低下、SMAでは代謝異常が研究されている
  • 治療研究 → 濃度を上げ下げする薬の開発が進むが、治療域が狭く難航している

1. D-セリンとは ─ 脳だけが使う「鏡写しのアミノ酸」

D-セリンは、L-セリンというありふれたアミノ酸と「かたちが鏡写しの関係」にあるD体のアミノ酸です。右手と左手のように、原子の並びは同じでも立体的には重ね合わせられない関係で、この違いを化学では光学異性体(キラリティー)と呼びます。かつて哺乳類の体内で働くアミノ酸はL体だけだと考えられていましたが、分析技術が進んだ結果、脳の中にはD-セリンが例外的に高い濃度で存在することが確認され、従来の常識がくつがえりました。これは読者の方にとっては「脳は、わざわざ手間をかけてまで特別な型のアミノ酸を用意している」という事実を意味します。つまりD-セリンは代謝のゴミではなく、脳が目的をもって使うシグナル分子なのです。

では何のためにD-セリンを使うのでしょうか。答えは、記憶と学習の中心にあるNMDA受容体という「情報の門」を開けるためです。この門は、興奮性の神経伝達物質であるグルタミン酸が届いただけでは開きません。もう一つの「補助のカギ」が別のカギ穴に同時にはまって初めて開く、という二重ロックのしくみになっています。この補助のカギの役をD-セリンが担っています。専門的にはコ・アゴニスト(共作動物質)と呼ばれ、大脳皮質・海馬・扁桃体といった前脳のシナプスでは、D-セリンがこの役割の主役であることが数多くの研究で示されています[1]

💡 用語解説:コ・アゴニストとNMDA受容体

NMDA受容体は、神経細胞の表面にある「門つきの通り道(イオンチャネル)」です。この門が開くと、細胞の中へカルシウムイオンが流れ込み、記憶や学習の土台になる変化が起こります。コ・アゴニストとは、主役のアクセル(グルタミン酸)だけでは門が開かないときに、もう一つ必要になる補助のカギのことです。D-セリンとグリシンがこの補助のカギとして働きますが、前脳のシナプスではD-セリンが主役を務めます。

D-セリンの最大の特徴は、「守る顔」と「殺す顔」の相反する二面性を持つことです。専門的にはYin-Yang(陰陽)特性と呼ばれます[2]。ふだんの適切な濃度では、D-セリンはシナプス可塑性(神経のつながりが強まったり弱まったりする性質)を後押しし、正常な認知機能を支えます。ところが炎症やストレスで濃度が異常に上がると、NMDA受容体を過剰に働かせ、カルシウムの流れ込みすぎによって神経細胞を死なせてしまいます。これを興奮性神経毒性(excitotoxicity)と呼びます。この「多すぎても少なすぎてもいけない」というバランスの乱れが、これから見ていく3つの病気の病態研究で注目されています。読者の方にとって大切なのは、D-セリンは善玉でも悪玉でもなく、量とタイミングで顔を変える分子だという点です。

2. NMDA受容体のしくみ ─ 二つのカギ穴と、サブユニットの個性

NMDA受容体は4つの部品(サブユニット)が組み合わさった構造で、D-セリンがはまる部品と、グルタミン酸がはまる部品が別々に決まっています。この分担を知ると、なぜD-セリンが「補助のカギ」として働けるのかが見えてきます。

NMDA受容体は、D-セリンやグリシンが結合する必須部品GluN1と、グルタミン酸が結合する部品GluN2(2A〜2Dの種類がある)が2つずつ組み合わさってできています[3]。このGluN1という部品の設計図が、当院でも解説しているGRIN1遺伝子です。GluN1にはD-セリンのための小さな結合ポケット(かつて「グリシン結合部位」と呼ばれた場所)があり、D-セリンがここに収まると部品が二枚貝のように閉じて、その動きがイオンチャネルの門を物理的に開きます。受容体が「かたちを変えることで信号を伝える装置」であることが、ここによく表れています。

興味深いことに、最新の分子シミュレーションと電気生理学の実験からは、D-セリンが高濃度になると、本来グルタミン酸がはまるGluN2Aのポケットにも入り込み、グルタミン酸と場所を奪い合って受容体を逆に抑えてしまうことが報告されています[3]。つまりD-セリンは、適量なら門を開ける味方ですが、多すぎると門を邪魔する存在にもなりうるのです。これは、なぜ脳がD-セリンの濃度を厳密に管理しなければならないのかを、分子のかたちの面から裏づけています。読者の方にとっては、「D-セリンを増やせば増やすほど脳によい」という単純な話ではない、ということが治療を考えるうえで重要な前提になります。

サブユニットの違いが「守る/殺す」を分ける

同じNMDA受容体でも、組み合わさるGluN2の種類によって性格が大きく変わります。この違いが、D-セリンの二面性を実際の場所と結びつけます。

🟢 シナプスの中:GluN2A(守る側)

シナプスの内側に多く、門の開閉が速い。D-セリンで活性化され、細胞の生存や記憶の強化(長期増強)を支えます。

🔴 シナプスの外:GluN2B(殺す側)

シナプスの外側に多く、門が長く開く。過剰に活性化すると、カルシウムが流れ込みすぎて神経細胞を死へ導く引き金になります。

薬理学的な解析では、GluN2Aを含む受容体はD-セリンへの感度が高く、GluN2Bを含む受容体はグリシンへの感度が高い傾向が示されています[4]。この感度と場所の違いによって、シナプスの内側では主にD-セリンがGluN2Aを穏やかに活性化し、シナプスの外側では過剰なD-セリンやグリシンがGluN2Bを危険に活性化する、という「区画ごとに役割が分かれた」信号のしくみが生まれます。この分業が崩れ、シナプスの外のGluN2Bばかりが刺激される状態が、後述するアルツハイマー病の神経細胞死につながります。ここでのGluN2Bの設計図がGRIN2B遺伝子、GluN2Aの設計図がGRIN2A遺伝子です。ご家族にてんかんや発達障害の関係でこれらの遺伝子名を聞いたことがある方にとっては、同じ受容体をD-セリンが裏側から調整していると理解しておくと、全体像がつながりやすくなります。

3. D-セリンのつくられ方・壊され方 ─ 厳しく管理される理由

D-セリンは強力な作用を持つため、脳は「つくる量」と「壊す量」を非常に厳しく管理しています。合成する酵素と分解する酵素のバランスが、D-セリン濃度の安定を決めています。

D-セリンは、セリンラセマーゼ(SR)という酵素が、ありふれたL-セリンを立体的に反転させて作ります[5]。この酵素はビタミンB6の仲間を補酵素として使い、L-セリンから水素を引き抜いて反対側から戻すことで、鏡写しのD-セリンを生み出します。おもしろいのは、この酵素が同時に「D-セリンを作りすぎないためのブレーキ」も内蔵している点です。SRはD-セリンを作るだけでなく、余分なセリンを分解する反応も併せ持っており、細胞の中でD-セリンが有害なレベルまで溜まらないよう自己制御しています[5]。読者の方にとっては、脳がD-セリンを「アクセルとブレーキを1つの酵素に持たせる」ほど慎重に扱っている、という事実が、この分子の危うさを物語っています。

さらにSRには、危機に際しての安全装置も備わっています。神経に強い毒性ストレスがかかると、SRは細胞質から核の中へ移動して活性を失います[6]。これは、死にゆく細胞が最後に大量のD-セリンをまき散らし、周囲の健康な神経まで巻き添えにするのを防ぐための、進化が用意したフェイルセーフだと考えられています。D-セリンの合成が、これほど何重にも守られているという事実は、「濃度の乱れがそのまま病気につながる」という本記事全体のテーマを裏づけています。

一方、作られたD-セリンを壊す主役がD-アミノ酸酸化酵素(DAAO/DAO)です[7]。この分解酵素は小脳・脳幹・脊髄には豊富にありますが、大脳皮質や海馬といった前脳ではほとんど働いていません。この分布の差があるからこそ、記憶に関わる前脳ではD-セリンが高い濃度を保ち、コ・アゴニストとして十分に機能できます。後で触れるように、統合失調症の治療では「このDAAOをあえて邪魔してD-セリンを増やす」という戦略が試みられています。合成と分解のバランスを理解しておくと、治療薬がどこを狙っているのかが見えてきます。

4. セリン・シャトル ─ 神経とグリアの二人三脚

D-セリンは、神経細胞とそれを支えるグリア細胞(アストロサイト)が協力して作り、届けています。この連携は「セリン・シャトル」と呼ばれ、どちらか一方だけでは成り立ちません。

かつてD-セリンは、アストロサイトだけが放出する「グリア由来の伝達物質」だと信じられていました。しかし現在では、材料となるL-セリンをアストロサイトが供給し、それを受け取った神経細胞がSRでD-セリンに変換して使う、という二人三脚のモデルが定着しています[8]。神経細胞が作ったD-セリンは、アラニン-セリン-システイン輸送体1(Asc-1)という運び屋を介してシナプスの隙間に放出され、濃度が調整されます。この「運び屋」の働きが乱れると、シナプスに届くD-セリンの量そのものが変わってしまいます。読者の方にとって大切なのは、D-セリンの量は1つの細胞だけで決まるのではなく、複数の細胞のチームワークで決まる、という点です。だからこそ、どこか一か所の不調が全体のバランスを崩しうるのです。

💡 D-セリンがたどる道すじ

① アストロサイト

材料のL-セリンを作って渡す

② 神経細胞

SRでD-セリンに変換する

③ シナプス

Asc-1で放出しNMDA受容体へ

このD-セリンのやりくりは脳の中だけの話ではありません。血液脳関門(BBB)にある輸送体もD-セリンの出入りに関わっており、末梢の血液中の変化や食事に由来する要因が、脳のNMDA受容体の働きに影響しうることが示唆されています[8]。全身と脳がつながっているというこの視点は、D-セリンを「脳に閉じた話」ではなく体全体の代謝の一部として捉える手がかりになります。

5. アルツハイマー病との関係 ─ 「多すぎる」ことが招く神経細胞死

アルツハイマー病では、炎症に伴って反応性アストロサイトのセリンラセマーゼ発現が増え、D-セリンを介したシナプス外NMDA受容体の過剰活性化が神経変性に関与する可能性が報告されています。ここでは、D-セリンの「過剰」が病態の一部に関わるという仮説が研究されています。

アルツハイマー病では、アミロイドβというタンパク質のかたまりを除去する薬の多くが、認知機能の改善を示せずに終わってきました。これは、認知機能の低下と最も直接結びつくのがシナプスの喪失と神経細胞の死であり、いったん進み始めた神経変性はアミロイドを取り除くだけでは止まらないためです[9]。そして、この神経細胞死に関与しうる経路の一つとして、D-セリンを介した興奮性神経毒性が研究されています。読者の方にとって重要なのは、アミロイド以外にも神経細胞を傷つける「実行役」があり、D-セリンがその一つとして注目されている、という点です。

ふだんSRは神経細胞の中にあり、作られたD-セリンはシナプス内のGluN2Aを穏やかに活性化します。ところがアミロイドβが溜まり慢性的な神経炎症が起きると、アストロサイトがA1型(神経毒性型)の反応性アストロサイトへと変化します。ヒトのアルツハイマー病患者やモデル動物の脳を調べた研究では、本来は神経細胞にあるはずのSRが、このA1アストロサイトで異常に強く発現していることが発見されました[10]。こうした反応性アストロサイト由来のD-セリンが増えると、樹状突起や細胞体にあるシナプス外のGluN2B含有受容体を含むNMDA受容体シグナルを過剰に促進しうると考えられています。その結果、カルシウム流入が過剰になるとミトコンドリアの膜を壊し、活性酸素を急増させ、酸化ストレスアポトーシス(細胞の自死)を引き起こして、神経細胞を死に至らせます[10]

この仮説を支持する動物実験があります。アルツハイマー病モデルマウスにD-セリンを慢性的に与えると海馬の神経細胞の喪失が悪化する一方、SR遺伝子を欠損させて脳内のD-セリンを大きく減らすと、神経細胞死や反応性アストログリオーシスが顕著に抑えられました[11]。さらに臨床面でも、アルツハイマー病患者の脳脊髄液中のD-セリン濃度は健常者などと比べて有意に高く、既存のアミロイド/タウ指標と組み合わせると診断の感度・特異度が高まることが報告されています[12]。これは、D-セリンが病態に関与する可能性に加え、病態を反映する「体液バイオマーカー」候補になりうることを示しています。読者やご家族にとっては、A1アストロサイトからのD-セリン放出を抑える、あるいはシナプス外のGluN2Bを選んで遮る、といった新しい治療の方向性が研究されている、という点が希望につながる部分です。ご家族に若くして発症したアルツハイマー病の方がいる場合は、原因遺伝子を調べる早発性家族性アルツハイマー病の遺伝子検査という選択肢もあります。

仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「原因の除去」と「実行役の抑制」は別の話】

アルツハイマー病の治療というと、多くの方が「アミロイドを取り除く薬」を思い浮かべます。けれど火事にたとえるなら、アミロイドは火をつけたマッチであり、実際に家を焼くのは燃え広がった炎です。D-セリンを介する興奮毒性は、この「燃え広がる炎」の一部にたとえることができます。マッチを片づけても、すでに燃えている炎は別に消す必要があります。

だからこそ、アミロイドを標的とする治療に加えて、過剰なNMDA受容体シグナルや興奮毒性など下流の病態を狙う治療も研究されています。私は、こうした「複数の段階を別々に攻める」という考え方を知っておくことが、新しい治療のニュースを冷静に受け止める助けになると考えています。一つの薬がすべてを解決するわけではない、という前提を持てると、過度な期待にも過度な失望にも振り回されずにすみます。

6. 統合失調症との関係 ─ 今度は「足りない」ことが問題

統合失調症では、アルツハイマー病とは逆に、D-セリンの信号が「足りない」ことでNMDA受容体の働きが低下し、認知機能の障害などにつながると考えられています。ベクトルが正反対である点が、この分子の面白さであり、難しさでもあります。

統合失調症には、幻覚や妄想などの陽性症状、意欲低下などの陰性症状、そして注意・記憶・実行機能が損なわれる認知機能障害(CIAS)という3つの症状のまとまりがあります。従来の治療薬はドーパミンD2受容体を抑えるもの(ドーパミンなどモノアミンを標的とする薬)が中心で、陽性症状にはよく効きますが、生活の質を最も左右する陰性症状や認知機能障害には力不足でした。このすき間を説明したのが「NMDA受容体機能低下仮説」です。NMDA受容体を邪魔する薬(ケタミンなど)を健康な人に投与すると統合失調症によく似た症状が現れることが、この仮説の出発点になりました。

遺伝学的な証拠もこの仮説を支えます。統合失調症の患者では血清や脳脊髄液のD-セリン濃度の低下が報告されているほか、SRの遺伝子(SRR)やDAAO、その活性化に関わる遺伝子などの変異・発現異常がリスク要因として指摘されています[13]。こうした関連は、多くの人のゲノムを比べるGWAS(ゲノムワイド関連解析)や、一つひとつの遺伝子多型(SNP)の解析から見えてきたものです。動物実験でも、SRを働かなくしてD-セリンを枯渇させたマウスは、記憶障害などの統合失調症に似た特徴を示します[13]。ここで大切なのは、これらは「D-セリンの経路が病気のなりやすさに関わる」ことを示す一方で、一つの遺伝子だけで発症が決まるわけではないという点です。統合失調症は多くの要因が重なって生じる病気であり、原因を単純化しないことがご本人・ご家族にとって誤解を避ける助けになります。当院でも統合失調症の解説ページで、この考え方を整理しています。

D-セリンを増やす薬の開発 ─ なぜ難航しているのか

「D-セリンが足りないなら増やせばよい」という発想から、いくつもの薬が開発されてきました。しかし大規模な試験では、期待された主要評価項目を達成できない例も続いています。代表的な2つの戦略を見てみましょう。

一つはDAAO阻害、つまりD-セリンを壊す酵素を邪魔して濃度を保つ戦略です。食品保存料としても使われる安息香酸ナトリウムには弱いDAAO阻害作用があり、複数の試験で症状や認知機能の改善が報告されています。より強力な次世代薬として開発されたルバダキシスタット(luvadaxistat)は、256名を対象にした第2相試験(INTERACT)で陰性症状に対する主要評価項目を達成できませんでした[14]。ただし興味深いことに、低用量の50mg群だけで認知機能や、NMDA受容体の働きを映す脳波指標(ミスマッチ陰性電位)の改善シグナルが見られ、高用量では効果が消えるという「逆U字型」の反応を示しました[15]。増やしすぎるとかえって効かないというこの性質は、第2節で述べた「高濃度のD-セリンは受容体を抑える」という分子の性質とも符合します。

もう一つはGlyT1阻害、つまりもう一つのコ・アゴニストであるグリシンの回収を邪魔して増やす戦略です。高い選択性を持つ新薬イクレペルチン(iclepertin)は大きな期待を集め、3つの大規模第3相試験(CONNEXプログラム)が行われました。しかし2025年、これら3試験はいずれも主要評価項目を達成できなかったことが報告されました[16]。この相次ぐ失敗は、NMDA受容体を薬で調整することの根本的な難しさを浮き彫りにしました。有効な治療域が極めて狭いこと、患者ごとにD-セリンやグリシンの状態がばらつくこと、認知機能の評価では強いプラセボ効果が働くことなどが要因として指摘されています。読者やご家族にとっては、「有望に見えた薬でも臨床試験で確認されるまで結論は出ない」という慎重さが、治療のニュースを受け止めるうえで大切になります。なお2024年には、この経路とは別のしくみ(ムスカリン受容体を狙う薬)が新たに承認され、統合失調症治療に新しい選択肢が加わりました[17]

7. 脊髄性筋萎縮症(SMA)との関係 ─ 運動をつなぐ回路の代謝異常

脊髄性筋萎縮症(SMA)では、運動を担う回路の入力不足にD-セリンの代謝異常が関わっており、D-セリンを補うと運動機能が改善する可能性が動物実験で示されています。遺伝性の運動ニューロン疾患とD-セリンという意外な組み合わせが、新しい治療の入り口になりつつあります。

SMAはSMN1遺伝子の変異や欠失によってSMNタンパク質が大きく不足し、脊髄の運動ニューロンが変性していく病気です。従来は「運動ニューロンが単独で脱落していく病気」と理解されてきましたが、近年は運動ニューロンを取り巻くアストロサイトなどのグリア細胞の不調が病気の進行に不可欠であるという、より複雑な見方に変わってきました。詳しくは当院の脊髄性筋萎縮症(SMA)総論で解説しています。この新しい見方の中で、運動ニューロンを動かす「グルタミン酸を使うシナプス」の崩壊と、D-セリンを含む神経活性アミノ酸の代謝異常が、病気の中心的な要因として注目されるようになりました。

重症SMAの患者と重症モデルマウスを対象に、脳脊髄液や脊髄のアミノ酸を網羅的に調べた研究では、重症度と結びつく明確な代謝異常が見つかりました[18]。とりわけ、SMAの重症患者の中では脳脊髄液のD-セリン濃度が高い患者ほど、運動機能の評価スコアが良好であるという正の相関が観察されました[18]。ここから研究チームは、「運動機能の低下の一因がグルタミン酸を使う入力の不足にあるのなら、コ・アゴニストであるD-セリンを外から補えば残ったシナプスの活動を底上げできるのではないか」という仮説を立てました。

この仮説を検証するため、重症SMAモデルマウスに毎日D-セリンを補ったところ、運動機能の障害が有意に改善しました[18]。極めて重要なのは、このD-セリン投与がSMNタンパク質の量そのものを増やしたわけではないという点です。つまりD-セリンは、遺伝子欠損という根本原因を回り道して、その下流のシナプス伝達の効率を人為的に押し上げることで運動機能を助けたのです。読者やご家族にとって意味があるのは、現在の主力治療であるアンチセンスオリゴヌクレオチドによる薬(ヌシネルセンなど)や遺伝子治療でSMNタンパク質を補う根本治療に、シナプスの代謝を整えるアプローチを組み合わせる、という「合わせ技」の可能性が見えてきた点です。ただしこれは現時点では動物実験の段階であり、ヒトでの有効性が確立したものではありません。過度な期待は禁物ですが、次世代の治療研究の方向性として重要視されています。

8. 検査・遺伝との関係 ─ D-セリンは「調べる」対象なのか

D-セリンそのものは、今のところ日常診療で測る一般的な検査項目ではありません。関わってくるのは、むしろその代謝に関係する遺伝子や、D-セリンが関与する病気の遺伝学的な評価です。ここを整理しておくと、ご自身やご家族に何が当てはまるかが見えてきます。

まず押さえておきたいのは、D-セリンの濃度が高い・低いということ自体は、病気の「診断」ではなく、あくまで研究段階のバイオマーカー(体の状態を映す目印)だということです。アルツハイマー病では脳脊髄液のD-セリンが高い傾向が報告されていますが、これは既存の検査を補う参考情報であり、単独で診断を下すものではありません[12]。ご本人やご家族が「D-セリンを測れば病気かどうか分かる」と考えてしまうと誤解につながるため、この点は丁寧にお伝えしています。

遺伝という観点では、D-セリンそのものより「D-セリンが関わる病気」の遺伝形式が問題になります。SMAは遺伝形式のはっきりした単一遺伝子病で、SMN1遺伝子の変化が両親からそれぞれ受け継がれたときに発症します。一方、統合失調症やアルツハイマー病の多くは、D-セリン経路の遺伝子を含む多くの要因が積み重なって生じる多因子性の病気で、単一の遺伝子検査で発症を予測できるものではありません。またD-セリンのもう一つの相棒であるグリシンについては、その代謝がうまくいかないグリシン脳症(非ケトーシス型高グリシン血症)という別の遺伝性疾患も知られています。読者やご家族にとって大切なのは、「同じNMDA受容体に関わる話でも、遺伝するかどうかは病気ごとにまったく異なる」という点です。ご自身の状況にどれが当てはまるのかは、臨床遺伝専門医と一緒に整理していくのがよいと考えています。

当院では、こうした遺伝に関わる検査の前後で、臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合う内容は、検査で何が分かり何が分からないのか、結果がご本人やご家族にどのような意味を持つのか、そしてどのような選択肢があるのか、といった点です。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担います。

9. よくある誤解

D-セリンは話題になりやすい分子ですが、その分だけ単純化された誤解も生まれがちです。ご本人やご家族が不必要に不安になったり、逆に過度に期待したりしないよう、代表的な誤解を整理しておきます。

誤解①「D-セリンは体に良い成分だから多いほど良い」

D-セリンは過剰になると興奮性神経毒性に関与しうる二面性を持ちます。適量では学習を支えますが、過剰なNMDA受容体活性化は神経細胞障害につながり、アルツハイマー病などでその関与が研究されています。「増やせば増やすほど良い」という単純な話ではありません。

誤解②「サプリで飲めば脳に効く」

臨床研究ではグラム単位の高用量が検討されており、安全性や薬物動態などが課題になります。現在はD-セリンや関連するNMDA受容体シグナルを適切に調整する方法が研究されており、市販サプリの気軽な摂取とは前提が異なります。

誤解③「D-セリンを測れば病気が分かる」

D-セリン濃度は研究段階のバイオマーカーで、単独では診断になりません。アルツハイマー病では既存の指標を補う参考にとどまり、日常診療で測る一般的な検査項目でもありません。

誤解④「もう治療薬として確立している」

D-セリンやNMDA受容体のコ・アゴニスト経路を狙った薬は、統合失調症の大規模試験で主要評価項目を達成できない例があり、SMAでのD-セリン補充効果は動物実験の段階です。ヒトで確立した治療法ではなく、有望な研究対象という位置づけです。

📌 このページを読んだあなたへ

この記事にたどり着く方には、いくつかの状況が考えられます。ご自身やご家族の病気(アルツハイマー病・統合失調症・SMAなど)の仕組みを深く知りたい方、DTC検査やサプリの情報でD-セリンという言葉を目にして不安になった方、あるいは医療や研究に関わる立場で正確な整理を求めている方などです。

次に確認するとよい観点は、状況によって異なります。病気の遺伝形式が気になる方は遺伝形式を、受容体そのものの仕組みを知りたい方はNMDA受容体を、SMAについて詳しく知りたい方は脊髄性筋萎縮症(SMA)総論を、統合失調症の遺伝的背景を知りたい方は統合失調症のページを、あわせてご覧ください。

よくある質問(FAQ)

Q1. D-セリンとは何ですか?なぜ「D体」が重要なのですか?

D-セリンは、ありふれたL-セリンと鏡写しの関係にあるD体のアミノ酸です。脳では例外的にこのD体が高い濃度で存在し、記憶や学習の中心にあるNMDA受容体を活性化する「補助のカギ(コ・アゴニスト)」として働きます。L体ではなくD体が選ばれているのは、脳がこの特定の型を意図的にシグナル分子として使っている証拠だと考えられています。前脳のシナプスでは、もう一つの候補であるグリシンよりもD-セリンが主役を務めます。

Q2. D-セリンは体に良いのですか、悪いのですか?

どちらとも言えず、量とタイミングによって顔を変えます。適切な濃度ではシナプス可塑性を後押しし、正常な学習・記憶を支える味方です。しかし炎症などで濃度が異常に上がると、NMDA受容体を過剰に働かせてカルシウムを流れ込ませすぎ、神経細胞を死なせる興奮性神経毒性を引き起こします。この二面性はD-セリンを理解するうえで重要で、濃度や作用する場所・タイミングによって生理作用と病的作用が変わりうると考えられています。

Q3. アルツハイマー病とD-セリンはどう関係していますか?

アルツハイマー病では、反応性アストロサイトのセリンラセマーゼ発現増加やD-セリンを介したNMDA受容体シグナルの亢進が、神経変性に関与する可能性が報告されています。動物実験ではD-セリンを増やすと神経細胞障害が悪化し、セリンラセマーゼを欠損させると一部の病理所見が抑えられました。ヒトでは脳脊髄液D-セリンのバイオマーカーとしての可能性も研究されていますが、確立した診断指標ではありません。

Q4. 統合失調症ではD-セリンはどう関わりますか?

統合失調症では、アルツハイマー病とは逆にD-セリンの信号が「足りない」ことでNMDA受容体の働きが低下し、認知機能障害などにつながると考えられています。患者ではD-セリン濃度の低下やSRR・DAAOなど関連遺伝子の異常が報告されています。ただしこれは病気のなりやすさに関わる一因であって、一つの遺伝子だけで発症が決まるわけではありません。D-セリンを増やす薬の開発が進みましたが、大規模試験で主要評価項目を達成できない例があり、治療効果の最適化が課題になっています。

Q5. 脊髄性筋萎縮症(SMA)でD-セリンが注目されるのはなぜですか?

重症SMAの患者では、脳脊髄液のD-セリン濃度が高い人ほど運動機能が良好という相関が見つかりました。運動機能の低下の一因がグルタミン酸を使う入力の不足にあるとの考えから、コ・アゴニストのD-セリンを補う実験が行われ、モデルマウスで運動機能が改善しました。重要なのは、この改善がSMNタンパク質の量を増やさずに得られた点です。ただし現時点では動物実験の段階であり、ヒトでの有効性が確立したわけではありません。根本治療に組み合わせる次世代の方向性として研究されています。

Q6. D-セリンのサプリメントを飲めば脳に効きますか?

臨床研究ではグラム単位の高用量が検討されており、安全性や薬物動態などが課題になります。このため、D-セリンそのものだけでなく、DAAOやGlyT1など関連経路を介してNMDA受容体シグナルを調整する方法も研究されてきました。市販サプリを気軽に摂取することとは前提が大きく異なり、また多すぎるD-セリンには神経毒性の懸念もあります。自己判断での摂取は避け、気になる場合は医師にご相談ください。

Q7. D-セリンに関わる病気は遺伝しますか?

病気ごとにまったく異なります。SMAはSMN1遺伝子による単一遺伝子病で、遺伝形式がはっきりしています。一方、統合失調症やアルツハイマー病の多くは、D-セリン経路の遺伝子を含む多数の要因が積み重なって生じる多因子性の病気で、単一の遺伝子検査で発症を予測できるものではありません。同じNMDA受容体に関わる話でも「遺伝するかどうか」は共通しません。ご自身やご家族の状況にどれが当てはまるかは、臨床遺伝専門医との遺伝カウンセリングで整理することをおすすめします。

Q8. D-セリンとグリシンは何が違うのですか?

どちらもNMDA受容体のGluN1というカギ穴にはまるコ・アゴニストですが、得意な場所が異なります。大脳皮質や海馬などの前脳のシナプスではD-セリンが主役で、グリシンよりも強く働きます。一方、シナプスの外の受容体ではグリシンの感度が高い傾向があります。治療薬の開発でも、D-セリンを増やす戦略(DAAO阻害)とグリシンを増やす戦略(GlyT1阻害)は別々に試みられてきました。なおグリシンの代謝異常では、グリシン脳症という別の遺伝性疾患が知られています。

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アルツハイマー病・統合失調症・脊髄性筋萎縮症など
神経に関わる病気の遺伝子検査と遺伝カウンセリングは
臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにご相談ください。

参考文献

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  • [4] D-serine as a gliotransmitter and its roles in brain development and disease. [PMC3632749]
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  • [6] Nuclear Compartmentalization of Serine Racemase Regulates d-Serine Production. [PMC4692229]
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仲田洋美 医師(臨床遺伝専門医)

この記事の監修・執筆者:仲田 洋美

(臨床遺伝専門医/がん薬物療法専門医/総合内科専門医)

ミネルバクリニック院長。1995年に医師免許を取得後、 臨床遺伝学・内科学・腫瘍学を軸に診療を続けてきました。 のべ10万人以上のご家族の意思決定と向き合ってきた臨床遺伝専門医です。

出生前診断(NIPT・確定検査・遺伝カウンセリング)においては、 検査結果の数値そのものだけでなく、 「結果をどう受け止め、どう生きるか」までを医療の責任と捉え、 一貫した遺伝カウンセリングと医学的支援を行っています。

ハイティーンの時期にベルギーで過ごし、 日本人として異文化の中で生活した経験があります。 価値観や宗教観、医療への向き合い方が国や文化によって異なることを体感しました。 この経験は現在の診療においても、 「医学的に正しいこと」と「その人にとって受け止められること」の両立を考える姿勢の基盤となっています。

また、初めての妊娠・出産で一卵性双生児を妊娠し、 36週6日で一人を死産した経験があります。 その出来事は、妊娠・出産が女性の心身に与える影響の大きさ、 そして「トラウマ」となり得る体験の重みを深く考える契機となりました。 現在は、女性を妊娠・出産のトラウマから守る医療を使命の一つとし、 出生前診断や遺伝カウンセリングに取り組んでいます。

出生前診断は単なる検査ではなく、 家族の未来に関わる重要な意思決定です。 年齢や統計だけで判断するのではなく、 医学的根拠と心理的支援の両面から、 ご家族が後悔の少ない選択をできるよう伴走することを大切にしています。

日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医/日本内科学会認定 総合内科専門医/ 日本臨床腫瘍学会認定 がん薬物療法専門医。 2025年には APAC地域における出生前検査分野のリーダーとして国際的評価を受け、 複数の海外メディア・専門誌で特集掲載されました。

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