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アルカリプトーシスとは|pH依存性の新しい細胞死とがん治療への展望

仲田洋美 医師

この記事の監修:仲田洋美(臨床遺伝専門医)

のべ10万人以上の意思決定に伴走。国際医療誌『Medical Care Review APAC』『Global Woman Leader』の2誌で表紙を飾り、「Top Prenatal Testing Service in APAC 2025」に選出されるなど、世界基準の遺伝医療を提供。

アルカリプトーシス(alkaliptosis)は、細胞の中のpH(酸性・アルカリ性の度合い)がアルカリ性に傾きすぎることで起こる、新しいタイプの「プログラムされた細胞死」です。2018年に発見されたばかりで、膵臓がんをはじめとする難治性のがんを、正常な細胞を傷つけずに死滅させる新しい治療の入り口として、世界中で研究が進んでいます。

この記事でわかること
📖 読了時間:約15分
🧬 細胞死・がん治療・臨床遺伝
臨床遺伝専門医監修

Q. アルカリプトーシスとは何ですか?まず結論だけ知りたいです

A. 細胞の中のpHがアルカリ性に傾いて起こる、2018年に発見された新しい細胞死です。もともと鎮痛薬として作られた「JTC801」という薬の研究から偶然見つかりました。膵臓がんなどこれまでの薬が効きにくいがんを、正常細胞を傷つけずに死滅させる仕組みとして注目されています。

  • 定義 → 細胞内pHのアルカリ化で起こる、調節性細胞死(プログラム細胞死)の一種
  • 発見 → 2018年、Daolin Tang博士らが膵臓がんの新薬探索の過程で同定
  • 仕組み → 「NF-κB-CA9経路」と「ATP6V0D1-STAT3経路」の二段構えで細胞内をアルカリ化
  • 強み → アポトーシス耐性・多剤耐性を獲得したがんにも効く可能性
  • 展望 → 遺伝子プロファイリングを使った「効く・効かない」の見極め(個別化医療)

1. アルカリプトーシスとは:pHが命を分ける細胞死

私たちの体は、毎日たくさんの細胞が役目を終えて死に、新しい細胞に置き換わることで健康を保っています。この「細胞の死」は、実はでたらめに起きているわけではなく、いくつもの種類に分かれた精密なプログラムによってコントロールされています。アルカリプトーシスは、そのなかでも2018年に新しく見つかったばかりの細胞死で、「細胞の中の酸性・アルカリ性のバランス(pH)」が崩れることが引き金になる点が最大の特徴です。

名前の由来もそのまま「アルカリ(alkali)」+「細胞死(-ptosis)」です。通常、細胞は内部をやや中性〜弱アルカリ性に保っていますが、何らかの引き金によって細胞の中身(細胞質)がアルカリ性に傾きすぎると、細胞は生きていけなくなり死に至ります。これがアルカリプトーシスです。

💡 用語解説:pH(ペーハー)とは

液体が酸性かアルカリ性かを示す数値です。7が中性で、数字が小さいほど酸性(レモンや胃酸)、大きいほどアルカリ性(石けん水)です。健康な細胞は、内側(細胞内pH)を約7.2、外側(細胞外pH)を約7.4に厳密に保っています。このバランスがほんの少しずれるだけでも、細胞の働きは大きく変わります。アルカリプトーシスは、この「pHのバランス」を逆手にとってがん細胞を倒そうという発想から生まれました。

💡 用語解説:調節性細胞死(RCD)と偶発的細胞死(ACD)

細胞の死は大きく2つに分けられます。偶発的細胞死(ACD)は、やけどや強い圧力など、極端な物理的・化学的ダメージで起こる「事故のような死」で、薬でコントロールすることはできません。一方の調節性細胞死(RCD)は、細胞の中の遺伝子やタンパク質が決まった手順で進める「プログラムされた死」で、薬で起こしたり止めたりできます。アルカリプトーシスはこのRCDの仲間です。だからこそ「薬で意図的に起こす」治療への応用が期待されています。

細胞死の研究は長い歴史を持ち、かつてはアポトーシス・オートファジー・ネクローシスという3つの分類が中心でした。しかし近年、フェロプトーシス(鉄が関わる細胞死)やメスーシス、オキセイプトーシスなど、まったく異なる仕組みの細胞死が次々と発見されています。アルカリプトーシスは、その最前線に位置する「pH依存性」という独自カテゴリーを切り開いた存在なのです。

2. 発見の物語:鎮痛薬「JTC801」から生まれた

アルカリプトーシスは、2018年にDaolin Tang博士らの研究グループが、膵臓がん(膵管腺癌・PDAC)という極めて予後の悪いがんに効く新薬を探していた過程で見つかりました[1]。研究チームは、細胞の表面にある「Gタンパク質共役受容体(GPCR)」に作用する薬の候補ライブラリーを膵臓がん細胞にかたっぱしから試していきました。

そのなかで、膵臓がん細胞を強力に殺す働きを見せたのが「JTC801(CDC801)」という低分子化合物でした。意外なことに、JTC801はもともと痛みを抑える鎮痛薬として開発された薬で、本来の標的は痛みに関わる受容体(OPRL1)です。ところが、JTC801ががん細胞を殺す効果は、この鎮痛作用とはまったく別の、未知の仕組みによるものでした。マウスを使った実験でも、口から投与されたJTC801は正常な組織には害を与えず、膵臓がんだけを選んで死滅させることが示されました[1]

研究チームがこの細胞死を詳しく調べると、既存のどの細胞死とも違っていました。アポトーシスの目印(カスパーゼ3の活性化)も、ネクロプトーシスの目印(MLKLやRIPK3)も現れず、フェロプトーシスを止める薬を使っても防げません。さらに、オートファジーをまったく働かなくしても、この細胞死は止まりませんでした。一方で、培養液を酸性(pH 6.2)にするか、N-アセチルシステイン(NAC)という物質を加えると、細胞死がぴたりと止まったのです。逆に培養液をアルカリ性にすると、細胞死はさらに加速しました。こうして「酸性環境で防がれ、アルカリ化で進む、まったく新しい細胞死」として、アルカリプトーシスと名付けられました[2]

💡 用語解説:膵管腺癌(PDAC)とN-アセチルシステイン

膵管腺癌(PDAC)は、膵臓がんの最も多いタイプで、多くがKRASという遺伝子の変異を持ち、早期発見が難しく治療も難航する「最も手強いがん」の一つです。N-アセチルシステイン(NAC)は、抗酸化作用を持つ物質で、痰を切る薬などにも使われます。NACを加えるとアルカリプトーシスが止まることは、この細胞死が「酸とアルカリのバランス」と深く結びついていることを示す重要な手がかりとなりました。

3. 細胞死の種類とアルカリプトーシスの位置づけ

「細胞死」と一口に言っても、引き金も仕組みもまったく違う種類がいくつもあります。アルカリプトーシスがほかの細胞死とどう違うのかを、代表的なものと並べて整理しました。引き金や目印が異なるため、あるタイプの細胞死に強くなったがん細胞でも、別のタイプには弱いことがあります。これが新しい細胞死が治療標的として注目される理由です。

細胞死の名称 主な引き金 特徴・目印 防ぎ方・回避の例
アポトーシス DNA損傷・細胞ストレス カスパーゼ3の活性化、細胞の収縮 BCL-2ファミリーの過剰発現で耐性化
ネクロプトーシス カスパーゼに頼らないストレス MLKL・RIPK3の活性化、細胞膜の破綻 関連キナーゼの阻害剤
フェロプトーシス 鉄の蓄積と脂質の過酸化 抗酸化システムの枯渇(GPX4の不活性化) 鉄キレート剤、抗酸化剤(ビタミンEなど)
アルカリプトーシス 細胞質pHの異常なアルカリ化 CA9の低下、リソソームの過剰酸性化(ATP6V0D1) 酸性環境(pH 6.2)、NAC
オキセイプトーシス 活性酸素ラジカル・高温 KEAP1-PGAM5-AIFM1経路(カスパーゼ非依存) 抗酸化物質によるラジカル消去
メスーシス 過剰なマクロピノサイトーシス 巨大な細胞内液胞の蓄積 PI3K阻害剤、RAC1阻害剤
🔍 関連記事:それぞれの細胞死のしくみはフェロプトーシスネクロプトーシスアポトーシスの各ページで詳しく解説しています。

4. なぜがん細胞だけが死ぬのか:がんのpH戦略

アルカリプトーシスが「がん細胞だけ」を狙い撃ちできる理由を理解するには、がん細胞が独自に作り上げている特殊なpHの世界を知る必要があります。

💡 用語解説:ワールブルグ効果

がん細胞は、酸素が十分にある環境でも、効率の良いエネルギー産生(ミトコンドリアでの酸化的リン酸化)よりも、わざわざ効率の悪い「解糖系」を優先してエネルギーを作ります。これを発見者の名前からワールブルグ効果と呼びます。この代謝のクセによって、がん細胞の中には大量の乳酸と酸(プロトン)が生まれ続けます。

がん細胞は、自分の中にたまる酸で死なないように、酸を細胞の外へ強力に汲み出すポンプ(炭酸脱水酵素CA9、V-ATPaseなど)をフル稼働させています。その結果、がん細胞は細胞の中はアルカリ性に保ち(pH 7.2以上)、まわりを酸性にする(pH 6.5〜6.9)という、正常な組織とは逆さまの「pHの勾配」を作り出します。

この逆転したpH環境は、がん細胞にとって都合の良い「生存戦略」です。高めの細胞内pHは無制限の増殖を後押しし、アポトーシス(自然な細胞死)を起きにくくします。さらに、酸性のまわりの環境は、がんを攻撃するはずの免疫細胞(CD8陽性T細胞やNK細胞)の働きを抑え込み、転移しやすい状況も作ります。

ところが、この「高めの細胞内pHに頼りきった状態」は、がん細胞の弱点(アキレス腱)でもあります。アルカリプトーシス誘導薬は、がん細胞がギリギリで保っている高いpHを、さらに「致死的なアルカリ領域」へと押し上げます。もともと普通のpHバランスを保っている正常細胞はびくともしないため、結果としてがん細胞だけが選択的に死ぬ——これがアルカリプトーシス療法の核心です。

5. 分子メカニズム:細胞内pHを崩す2つの経路

JTC801が細胞に入ると、2つの独立した経路が同時に動き出します。この二段構えによって、細胞からプロトン(酸)が枯渇し、致死的な細胞質アルカリ化が起こります。

アルカリプトーシスを起こす2つの経路

JTC801(誘導薬)が細胞に侵入

経路① NF-κB-CA9

NF-κBが核に移動し、pH調整酵素CA9の働きを抑制。酸を処理できなくなる。

経路② ATP6V0D1-STAT3

ATP6V0D1とSTAT3が結合し、リソソームへH+を過剰に汲み入れ。細胞質からプロトンが枯渇する。

細胞質が致死的にアルカリ化
アルカリプトーシス(細胞死)

JTC801は細胞内で独立した2つの経路を活性化します。NF-κB経路によるCA9の抑制と、ATP6V0D1-STAT3複合体によるリソソームへのプロトンの汲み入れ。この相乗効果で細胞質から酸が枯渇し、致死的なアルカリ化が起こります。

経路①:NF-κBが「逆の顔」を見せる

NF-κBは通常、がんの生存や増殖を後押しする「悪玉」として知られています。ところがアルカリプトーシスでは、このNF-κBが細胞死を「誘導する」という逆の働きを見せます。JTC801の刺激でNF-κBが核に移動すると、pHを調整する酵素CA9(炭酸脱水酵素9)の働きを強力に抑え込みます。CA9が抑えられると、がん細胞は細胞内にたまる塩基性の物質をうまく処理できなくなり、細胞質が急速にアルカリ化します[2]。この活性化には、ACSS2という酵素を介したアセチル化も重要なスイッチとして働いています[4]

💡 用語解説:CA9(炭酸脱水酵素9)とNF-κB

CA9は、二酸化炭素と水から酸(プロトン)を作る反応をコントロールする酵素で、多くのがん細胞で過剰に働き、酸性のまわりの環境を保ちつつ細胞内のアルカリ化を防ぐ「防波堤」として機能しています。NF-κBは、細胞の生死や炎症を司る転写因子(遺伝子のスイッチ役)です。アルカリプトーシスでは、NF-κBがこの「防波堤」であるCA9を取り壊す側にまわる点が、これまでの常識を覆す発見でした。

経路②:リソソームへ酸を押し込む

もう一つの経路では、プロトンポンプの部品であるATP6V0D1と、転写因子STAT3がくっついて複合体を作ります。すると、細胞内の「ゴミ処理場」であるリソソームへ、プロトン(H+)が過剰に汲み入れられます。リソソームの中はさらに酸性になる一方、細胞質からは大量のプロトンが奪われ、細胞全体が劇的にアルカリ化します[2]。とくに、もともとSTAT3が活発に働いている薬剤耐性がんでは、この経路を狙うことが有効な治療になり得ると考えられています。

💡 用語解説:リソソームとV-ATPase(ATP6V0D1)

リソソームは、不要になったタンパク質などを分解する細胞内の小さな袋(ゴミ処理場)で、内部は酸性に保たれています。V-ATPaseは、エネルギーを使ってプロトンを汲み出すポンプで、ATP6V0D1はその部品の一つです。本来は細胞のpHを正常に保つ役割ですが、アルカリプトーシスではこの仕組みが「暴走」し、細胞質をアルカリ性に追い込む引き金になります。

アルカリプトーシスに関わる主な遺伝子・タンパク質を一覧にまとめました。

遺伝子・タンパク質 主な役割 関連する調節因子・阻害剤
CA9 pHセンサー。抑制されると細胞質が致死的にアルカリ化 IMD0354、CAY10657(IKBKB経由)
IKBKB / NF-κB 活性化してCA9の働きを抑える SC514、各種IKBKB阻害剤
ATP6V0D1 STAT3と結合しリソソームへH+を汲み入れる バフィロマイシンA1
ACSS2 アセチル化を介して経路を活性化 酢酸など代謝の変化
CYP51A1 / SREBF2 コレステロール合成因子。アルカリ化を中和(抑制) CYP51A1阻害剤(研究段階)
TMEM175 リソソームのプロトン流出口。アルカリ化を抑制 小分子阻害化合物
ITCH 天然のブレーキ役。量が少ないほど細胞死が進む 発現抑制(ノックダウン)で感受性増強
ABCB1 薬剤排出ポンプ。誘導により抑えられ多剤耐性を解除 JTC801、細胞外のアルカリ化
仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「悪玉」が「正義」に変わる面白さ】

NF-κBは、がんの世界では長年「生存を助ける悪玉」と教わってきた分子です。それがアルカリプトーシスでは、CA9というpHの防波堤を自ら壊して細胞死を引き起こす——つまり「正義の側」に回るのです。私はがん薬物療法も長く診てきましたが、同じ分子が文脈によって正反対の顔を見せるという発見には、生命科学の奥深さを改めて感じます。

大切なのは、「この分子は善か悪か」と決めつけないことです。がん細胞がどんな状況に置かれているかによって、同じスイッチが救いにも脅威にもなります。だからこそ、一人ひとりの腫瘍を丁寧に読み解く視点が、これからの治療には欠かせないと考えています。

6. ブレーキ役の遺伝子:抵抗性のメカニズム

どんな治療にも「効きにくいケース」があります。がん細胞は、アルカリプトーシスから逃れるための「ブレーキ役」の仕組みをいくつか持っていることが、近年の研究でわかってきました。これらを見極めることが、個別化医療のカギになります。

コレステロールを使ったブレーキ(CYP51A1)

2025年に発表された研究では、コレステロール合成に関わる酵素CYP51A1が、アルカリプトーシスの強力な抑制因子であることが明らかになりました[5]。アルカリプトーシスが始まると、細胞は転写因子SREBF2を活性化してCYP51A1を増やします。これによりリソソームのプロトン流出口「TMEM175」を通じて細胞質へプロトンが補充され、進みかけたアルカリ化が中和されてしまうのです。逆にいえば、CYP51A1の働きを止める薬を併用すれば、アルカリプトーシス療法の効果を高められる可能性があります。

天然のブレーキ役(ITCH)

2024年には、ITCHというタンパク質(E3ユビキチンリガーゼ)が、膵臓がん細胞でアルカリプトーシスの「天然のブレーキ役」として働くことが報告されました[6]。ITCHの量が多いとアルカリプトーシスは起きにくく、ITCHの量を減らすとアルカリプトーシスが劇的に強まることが確認されています。仕組みとしては、ITCHがLATS1というタンパク質の分解を介してYAP1-SLC16A1という経路を制御することで、細胞死の起こりやすさを左右していると考えられています。

腎臓がんで見つかった予後因子(ZACN)

腎臓がんの一種である淡明細胞型腎細胞癌(KIRC)では、ZACNという遺伝子が高く発現している患者さんほど予後が悪く、この遺伝子がJTC801によるアルカリプトーシスにブレーキをかけることが2025年に報告されました[7]。ZACNを増やすとCA9が増えて細胞内pHが下がり、細胞死が抑えられます。つまり、生検した腫瘍でZACNが非常に高い患者さんでは、アルカリプトーシス誘導薬だけでは効果が薄い可能性があり、別のアプローチを組み合わせる必要があると考えられます。

⚠️ ご注意:JTC801をはじめとするアルカリプトーシス誘導薬は、現時点では研究段階であり、承認された治療薬ではありません。ここで紹介している内容は、実験室や動物モデルでの研究成果を中心としたものです。

7. 免疫を呼び覚ます:免疫原性細胞死としての一面

細胞の「死に方」は、まわりの免疫システムへのメッセージにもなります。アルカリプトーシスは、免疫を強く刺激する「免疫原性細胞死(ICD)」としての一面を持つと考えられています。細胞が死ぬ過程でHMGB1という物質が外に放出され、それが免疫細胞のセンサー(AGER/RAGE)に結合してSTING経路を活性化し、強い炎症反応とがんへの免疫応答を引き起こすのです[2]

💡 用語解説:免疫原性細胞死(ICD)と「冷たい腫瘍」

免疫原性細胞死(ICD)とは、細胞が死ぬときに免疫を呼び覚ますシグナルを出すタイプの細胞死です。がん免疫治療では、免疫細胞があまり入り込めない「冷たい腫瘍(Cold tumor)」が大きな壁になっています。アルカリプトーシスはこの腫瘍に意図的な炎症を起こし、免疫が活発な「熱い腫瘍(Hot tumor)」へ変える可能性があり、免疫チェックポイント阻害薬との併用が期待されています。

🔍 関連記事:免疫を呼び覚ます細胞死については免疫原性細胞死のページもあわせてご覧ください。

8. 薬剤耐性がんへの応用

現代のがん治療で最大の壁となるのが、長く治療を続けるうちに薬が効かなくなる「多剤耐性(MDR)」です。アルカリプトーシスは、特定のキナーゼや遺伝子ではなく「細胞内pHのバランス」という生存の根幹を狙うため、従来の薬が直面する耐性の壁を別ルートから突破できる可能性を秘めています。

💡 用語解説:多剤耐性(MDR)とABCB1(P糖タンパク質)

多剤耐性(MDR)とは、1種類の薬だけでなく複数の抗がん剤がまとめて効かなくなる現象です。その代表的な原因がABCB1(P糖タンパク質)という、抗がん剤を細胞の外へ汲み出してしまう「排水ポンプ」です。このポンプが増えると、薬が細胞内にたまらず効かなくなります。

アポトーシス耐性の白血病(AML)を突破する

急性骨髄性白血病(AML)では、抗アポトーシスタンパク質BCL-2の過剰発現が、化学療法への強い抵抗性を生みます。その切り札であるベネトクラクス(BCL-2阻害薬)も、やがて効かなくなることがあります。ところがJTC801は、ベネトクラクス耐性を獲得したAML細胞に対しても強い殺傷活性を示しました。アルカリプトーシスは古典的なアポトーシス経路に一切頼らずに進むため、BCL-2による回避の仕組みをまるごと無効化できるのです[2]

パクリタキセル耐性の卵巣がんを攻略する

2025年の研究では、パクリタキセル(卵巣がんの基幹的な抗がん剤)が効かなくなった卵巣がん細胞で、アルカリプトーシスを誘導すると薬剤排出ポンプABCB1の発現が抑えられ、耐性が克服できることが報告されました[2]。鍵を握るのはATP6V0D1で、これを増やすとABCB1が減り、抗がん剤が再び細胞内にたまるようになります。興味深いことに、細胞のまわりを人工的にアルカリ性にするだけでもABCB1は減り、酸性にすると増えることもわかっており、薬剤耐性とpHが表裏一体であることを物語っています。

9. 個別化医療への展望

アルカリプトーシスという基礎研究の発見は、がん領域の「個別化医療(プレシジョン・メディシン)」の次のフロンティアとして重要です。遺伝子を調べる技術の進化により、「そのがんがアルカリプトーシスに効きやすいか、それとも抵抗性の遺伝子を持っているか」を事前に見極めることが、現実味を帯びてきています。

  • CA9の発現プロファイル:膵臓がん・腎臓がん・肺がんでは、CA9が高い患者さんほど予後が悪いことが知られています。逆に、CA9に強く依存している腫瘍ほど、アルカリプトーシス誘導薬の良い対象になる可能性があります。
  • ZACNによる層別化:腎臓がんでZACNが非常に高い患者さんでは、単独投与の効果が限られる可能性があり、エビデンスに基づく治療の使い分けにつながります。
  • ノンコーディングRNAの活用:肺腺癌では、アルカリプトーシスに関連する5つのlncRNA(タンパク質を作らないRNA)を組み合わせた予後予測モデルが2025年に報告されています[8]。前立腺がんでも、抵抗性に関わる遺伝子から再発を予測する試みが進んでいます。
  • 抵抗性因子の事前評価:CYP51A1やITCHといった「内なるブレーキ役」をあらかじめ把握できれば、併用すべき薬の選択にも役立ちます。
仲田洋美院長

🩺 院長コラム【「効くかどうか」を遺伝子から読む時代へ】

アルカリプトーシスの研究で私が最も価値を感じるのは、「どの患者さんに効くのか」を遺伝子レベルで見極めようとする姿勢です。同じ薬でも、CA9やZACN、CYP51A1といった遺伝子の状態によって、効果がまったく変わってくる。これはまさに、私が臨床遺伝の現場で大切にしてきた「一人ひとりを正確に読み解く」という考え方そのものです。

クリニカルシーケンスや包括的な遺伝子発現の解析は、こうした「効く・効かない」の地図を描くための土台になります。基礎研究の発見が、正確な遺伝子診断と結びつくことで、実験室の中だけの話が、いつか目の前の患者さんの選択肢へと変わっていく——その橋渡しの一端を担えればと願っています。

よくある質問(FAQ)

Q1. アルカリプトーシスとは何ですか?

細胞の中のpHがアルカリ性に傾きすぎることで起こる、2018年に発見された新しいタイプの「プログラムされた細胞死(調節性細胞死)」です。鎮痛薬として作られたJTC801という化合物の研究から見つかり、膵臓がんなど難治性がんの治療標的として研究が進んでいます。

Q2. アポトーシスとどう違うのですか?

アポトーシスはカスパーゼという酵素が中心となって進む細胞死ですが、アルカリプトーシスはカスパーゼに頼らず、細胞内pHのアルカリ化によって進みます。そのため、アポトーシスが効きにくくなった(耐性化した)がん細胞に対しても効果が期待できる点が大きな違いです。引き金も目印もまったく異なる、独立した細胞死です。

Q3. なぜがん細胞だけが死ぬのですか?正常細胞は大丈夫?

がん細胞は「細胞内をアルカリ性に保つ」という特殊なpH戦略に強く依存しています。アルカリプトーシス誘導薬は、この依存をさらに致死的なアルカリ領域へ押し上げます。正常な細胞は普通のpHバランスを保っているため影響を受けにくく、結果としてがん細胞だけが選択的に死ぬと考えられています。実際、動物実験でも正常組織への大きな害は確認されていません。

Q4. JTC801はもう治療に使えるのですか?

いいえ、現時点ではJTC801をはじめとするアルカリプトーシス誘導薬は研究段階であり、がん治療薬として承認されているわけではありません。細胞や動物モデルでの有望な結果が積み重なっている段階で、今後の臨床研究によって有効性と安全性が検証されていくことが期待されています。

Q5. どんながんに効果が期待されていますか?

最初に発見されたのは膵臓がん(膵管腺癌)ですが、その後の研究で、急性骨髄性白血病(AML)、淡明細胞型腎細胞癌、パクリタキセル耐性の卵巣がんなどでも有望な結果が報告されています。特に、従来の薬が効きにくくなった「難治性・薬剤耐性がん」に対する突破口として注目されています。

Q6. 自分のがんに効くかどうか、遺伝子検査でわかりますか?

研究レベルでは、CA9・ZACN・CYP51A1・ITCHといった遺伝子の発現パターンが、アルカリプトーシスへの効きやすさ・効きにくさと関連することがわかってきています。将来的には、腫瘍の遺伝子プロファイリングによって治療の向き・不向きを見極められる可能性があります。ただし、これらはまだ研究段階の知見であり、現時点で確立された臨床検査ではありません。

Q7. アルカリプトーシスは出生前診断と関係がありますか?

直接の関係はありません。アルカリプトーシスは「がん細胞をどう死滅させるか」という、がん治療・がん生物学の研究テーマです。NIPT(新型出生前診断)や羊水検査などの出生前診断とは別の分野ですが、いずれも「遺伝子を正確に読み解く」という臨床遺伝学の技術が土台になっている点では共通しています。

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参考文献

  • [1] Song X, et al. JTC801 Induces pH-dependent Death Specifically in Cancer Cells and Slows Growth of Tumors in Mice. Gastroenterology. 2018;154(5):1480-1493. [PubMed]
  • [2] Chen F, Kang R, Liu J, Tang D. Mechanisms of alkaliptosis. Front Cell Dev Biol. 2023;11:1213995. [PMC10436304]
  • [3] Liu J, Kuang F, Kang R, Tang D. Alkaliptosis: a new weapon for cancer therapy. Cancer Gene Ther. 2020;27(1-2):18-19. [Nature]
  • [4] Que D, et al. ACSS2-mediated NF-κB activation promotes alkaliptosis in human pancreatic cancer cells. Sci Rep. 2023;13:1483. [PMC9883393]
  • [5] Chen F, et al. CYP51A1 drives resistance to pH-dependent cell death in pancreatic cancer. Nat Commun. 2025;16:2195. [Nature Communications]
  • [6] Cai X, et al. ITCH inhibits alkaliptosis in human pancreatic cancer cells through YAP1-dependent SLC16A1 activation. Int J Biochem Cell Biol. 2024;175:106646. [PubMed]
  • [7] Li Y, Li C. ZACN Associated with Poor Prognosis Promotes Proliferation of Kidney Renal Clear Cell Carcinoma Cells by Inhibiting JTC801-Induced Alkaliptosis. Appl Biochem Biotechnol. 2025;197:3346-3362. [Springer]
  • [8] Xiong X, Liu W, Yao C. Development of an alkaliptosis-related lncRNA risk model and immunotherapy target analysis in lung adenocarcinoma. Front Genet. 2025;16:1573480. [PMC12011837]
  • [9] Tang R, et al. Methuosis, Alkaliptosis, and Oxeiptosis and Their Significance in Anticancer Therapy. Cells. 2024;13(24):2095. [MDPI Cells]

仲田洋美 医師(臨床遺伝専門医)

この記事の監修・執筆者:仲田 洋美

(臨床遺伝専門医/がん薬物療法専門医/総合内科専門医)

ミネルバクリニック院長。1995年に医師免許を取得後、 臨床遺伝学・内科学・腫瘍学を軸に診療を続けてきました。 のべ10万人以上のご家族の意思決定と向き合ってきた臨床遺伝専門医です。

出生前診断(NIPT・確定検査・遺伝カウンセリング)においては、 検査結果の数値そのものだけでなく、 「結果をどう受け止め、どう生きるか」までを医療の責任と捉え、 一貫した遺伝カウンセリングと医学的支援を行っています。

ハイティーンの時期にベルギーで過ごし、 日本人として異文化の中で生活した経験があります。 価値観や宗教観、医療への向き合い方が国や文化によって異なることを体感しました。 この経験は現在の診療においても、 「医学的に正しいこと」と「その人にとって受け止められること」の両立を考える姿勢の基盤となっています。

また、初めての妊娠・出産で一卵性双生児を妊娠し、 36週6日で一人を死産した経験があります。 その出来事は、妊娠・出産が女性の心身に与える影響の大きさ、 そして「トラウマ」となり得る体験の重みを深く考える契機となりました。 現在は、女性を妊娠・出産のトラウマから守る医療を使命の一つとし、 出生前診断や遺伝カウンセリングに取り組んでいます。

出生前診断は単なる検査ではなく、 家族の未来に関わる重要な意思決定です。 年齢や統計だけで判断するのではなく、 医学的根拠と心理的支援の両面から、 ご家族が後悔の少ない選択をできるよう伴走することを大切にしています。

日本人類遺伝学会認定 臨床遺伝専門医/日本内科学会認定 総合内科専門医/ 日本臨床腫瘍学会認定 がん薬物療法専門医。 2025年には APAC地域における出生前検査分野のリーダーとして国際的評価を受け、 複数の海外メディア・専門誌で特集掲載されました。

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