目次
わたしは、臨床遺伝専門医です。
そして同時に、遺伝性疾患の当事者でもあります。
病名は、偽性偽性副甲状腺機能低下症。
常染色体顕性(優性)遺伝の病気です。
なぜわたしは、遺伝診療の現場に立ち続けるのか。
なぜ、ミネルバクリニックをつくったのか。
今日は、そのお話をさせてください。
結婚も、子どもも、あきらめていました
医学部に入る前の年に、診断がつきました
わたしは、小さいころから背が低い子どもでした。
小学校の低学年のころには、
「指の形が違う」「手の形が違う」
と言われました。
子ども心に、とても嫌な思いをしていました。
そして、医学部に入る前の年。
ある日、わたしの手を見た医師が言いました。
「大学病院に入院しなさい」
わたしは大学病院に入院し、
いろいろな検査を受けました。
そこでついた診断が、
偽性偽性副甲状腺機能低下症でした。
医師からは、こう言われました。
「病名はつくけど、病気じゃない」
でも、気になって自分でいろいろ調べました。
そして、見つけてしまったのです。
「遺伝性が強く疑われる」
「常染色体優性遺伝」
と書いてある本を。
当時は、まだ確定していたわけではありません。
でも、「疑われる」というだけで、あきらめるには十分でした。
恋愛も、結婚も、しなくていい
わたしは、高知の田舎で生まれ育ちました。
こんな病気だとわかったら、
結婚に差し支える。
当時のわたしは、そう思いました。
だから、決めたのです。
恋愛も、結婚も、しなくていいや。
「自分は結婚できない」
本気でそう思っていました。
遺伝性の病気があるのだから、
子どもはいらない。
そう決めていました。
医学部に入学して、1年生のとき。
わたしは、4学年上の医学科の先輩と知り合いました。
「子どもを産みたくない」と伝えたわたしと、
それでも結婚してくれる人でした。
彼の卒業と同時に、
わたしたちは結婚しました。
3回の妊娠・出産は、毎回2分の1の賭けでした
結婚して、妊娠して、出産して。
初めて見たわが子は、
この世のものとは思えないくらい、
かわいかった。
でも。
3回の妊娠・出産は、どれも
「2分の1の賭け」でしかありませんでした。
夫は、黙って賭けていた
あとで知ったのですが、
夫は結婚する前に、
図書館でわたしの病気を調べていたそうです。
当時わかっていたことは、全部知っていた。
遺伝するかもしれないことも、わかっていた。
そのうえで、わたしと結婚したのです。
そして、妊娠のたびに、
毎回2分の1の確率に、
勝手に賭けていたらしいのです。
しかも、
「障害があっても育てよう」
と、これまた勝手に決意していたとか(笑)。
わたしの知らないところで、
夫はとっくに覚悟を決めていました。
なぜ2分の1なのか
わたしの病気は、常染色体顕性遺伝です。
子どもに病的バリアント(変異)が伝わる確率は、
妊娠のたびに2分の1。
何回妊娠しても、毎回2分の1です。
母親だからこそ、重くなる
これは、あとになってわかったことですが、
この病気には
ゲノムインプリンティングという仕組みが関わっています。
同じ病的バリアントでも、
父親から受け継いだか、母親から受け継いだかで、
病気の現れ方が変わるのです。
わたしの場合、
父から受け継いだほうの遺伝子に変異があります。
だから、偽性偽性副甲状腺機能低下症です。
同じ変異でも、
母から受け継いでいたら、
偽性副甲状腺機能低下症になっていました。
家系の誰にも、
同じような骨の病気の人はいません。
わたしの変異は、新生突然変異(de novo)です。
そして、わたしは母親です。
母親であるわたしから受け継ぐと、
子どもは偽性副甲状腺機能低下症になります。
知的障害を含む、わたしよりも重い状態です。
当時は、調べる方法がなかった
わたしが出産したころ、
それを調べる検査はありませんでした。
わかっていたのは、
「常染色体優性(顕性)遺伝が強く疑われる」
ということくらいです。
インプリンティングのことも、まだわかっていませんでした。
幸いなことに、
3人の子どもたちは病気を受け継ぎませんでした。
けれど、それは結果としてそうだっただけ。
わたしが何かを選べたわけではありません。
子どもを持つということは、とても幸せなことです。
この幸せをくれた家族と神様に、
深く感謝しています。
臨床遺伝専門医をあきらめかけた日
人というのは、
都合の悪いことは忘れて暮らせるものです。
日常生活には、何の支障もありませんでした。
だからわたしは、
自分の病気のことを、すっかり忘れて生きていました。
そして、臨床遺伝専門医の勉強をしていたある日。
本を読んでいて、ふと思いました。
「……これ、わたしじゃん」
そのころには医学も進み、
インプリンティングという仕組みもわかっていました。
母親であるわたしから伝われば、
子どもは重い型になる。
3回の出産は、本当に2分の1の賭けだった。
気づいたのは、
もう3人を産んだあとでした。
本当に、びっくりしました。
その衝撃は、言葉にできないほどでした。
わたしは涙ながらに、指導医にこう言いました。
わたしは自分が当事者なのに、遺伝性疾患の患者さんに向き合う自信はありません。
専門医になるのはあきらめようと思います。
もっと世の中が進んで、出生前診断が全ゲノムに広がったら、わたしはもう生まれてこられないかもしれない。
そんな世界で、当事者のわたしが気持ちを乱さずに、医師としての役目を果たせるのか。
とても疑問です。
師匠は、こう言いました。
あなたにはあなたの役割があります。
あなたにしかできない仕事が、きっとあります。
こう見えてわたしは遺伝専門医です。
辛いこと、苦しいことがあれば、全部わたしにぶつけなさい。
そして必ず遺伝専門医になりなさい。
あなたは必ず、世の中に必要です。
それからしばらく、
毎週、専攻研修に行っては泣くわたし。
それを受け止めてくれる師匠。
そんな日々が続きました。
たくさんの方に励まされ、
いくつもの心のハードルを越えて、
わたしは臨床遺伝専門医になりました。
今は、遺伝子検査があります
わたしが出産してから、30年がたちました。
今は、遺伝子検査で、
病気の原因となる遺伝子を調べることができます。
親の病的バリアントがわかっていれば、
妊娠中に、赤ちゃんがそれを受け継いでいるかを確かめる方法もあります。
30年前のわたしが、今を生きていたら
結婚したでしょうか。
2分の1の確率にかけて、出産したでしょうか。
しかも、3回も。
答えは、わかりません。
でも、ひとつだけ確かなことがあります。
「知ったうえで、選ぶことができた」ということです。
どの選択も、その人にとっての正解
何が正解かは、誰にもわかりません。
逆に言えば、
どの選択肢も、その人にとっては正解になりえます。
だからわたしは、
「自分で考えて、自分で決めた」
と思えるように、一人ひとりの意思決定を支えたい。
自分の人生だから。
最後は、自分の力で一歩を踏み出すしかないからです。
遺伝性疾患があっても、あきらめなくていい社会へ
今、わたしは本気で思っています。
遺伝性疾患があっても、
子どもを持つ幸せをあきらめなくていい社会にしたい。
この世のものとは思えないくらいかわいい、
わが子に会う幸せ。
その幸せを、悩んでいるすべての人に味わってほしい。
それが、わたしの願いです。
当事者だからこそ、つらいときもある
遺伝子検査や出生前診断の現場に立つことは、
当事者でもあるわたしにとって、
つらい場面もあります。
共感しすぎてしまうことも、あります。
そんなときは、今も師匠に話を聞いてもらいます。
心を軽くしてから、また現場に戻ります。
事実は変えられない。
けれど、心の負担を軽くすることはできる。
遺伝性疾患の当事者として、
師匠という臨床遺伝専門医から、わたしが学んだことです。
見えないネットワークに支えられて
専門医になるまでを、支えてくれた人たち。
その後を、支えてくれる人たち。
あなたを支えようとするわたしを、
たくさんの人たちが支えてくれています。
目には見えない、ネットワークです。
ミネルバクリニックを育てられて、幸せです
そのお手伝いができる医療機関に、
ミネルバクリニックを育てることができました。
そのお手伝いができることは、
わたしにとって、本当に幸せなことです。
昨日も、今日も、明日も。
わたしはこれからも、遺伝診療の現場に立ち続けます。
一人ひとりの意思決定を支えるために。
ミネルバクリニック院長
臨床遺伝専門医 仲田洋美


