目次
- 1 1. EZH2とは ─ 遺伝子の「読まれ方」を抑えるスイッチ
- 2 2. なぜEZH2ががんの標的になるのか ─ 暴走スイッチと合成致死
- 3 3. タゼメトスタットの作用 ─ 酵素の「鍵穴」を横取りする
- 4 4. どんな病気に効いたのか ─ 類上皮肉腫と濾胞性リンパ腫
- 5 5. 2026年の市場撤退 ─ 二次発がんという致命的リスク
- 6 6. なぜ白血病が起きたのか ─ EZH2の「二面性」という落とし穴
- 7 7. 薬が効かなくなる仕組み ─ 獲得耐性の4つの逃げ道
- 8 8. 次世代の薬 ─ 二重阻害薬とタンパク質分解という新戦略
- 9 9. 遺伝子検査・遺伝カウンセリングとの関わり
- 10 10. よくある誤解
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 参考文献
- 13 関連記事
📍 クイックナビゲーション
がん細胞は、遺伝子そのものを書き換えなくても、遺伝子の「読まれ方」を変えるだけで暴走することがあります。その読まれ方を制御するスイッチのひとつがEZH2(イーゼットエイチツー)という酵素で、これをピンポイントで止める世界初の薬がタゼメトスタット(製品名タズベリク)でした。ところが2026年、投与を受けた患者さんで重い副作用が高い頻度で認められ、この薬は市場から姿を消しました。この記事では、EZH2という遺伝子とその阻害薬がどんな仕組みで働き、なぜ画期的とされ、そしてなぜ撤退に至ったのかを、遺伝専門医の視点からやさしく解説します。EZH2は、生まれつきの病気であるウィーバー症候群の原因遺伝子でもあり、この一語を理解することは、がんと遺伝性疾患の両方の理解につながります。
Q. タゼメトスタット(EZH2阻害薬)とは何ですか?まず結論だけ知りたいです
A. タゼメトスタットは、EZH2という「遺伝子の働きを抑えるスイッチ役の酵素」をピンポイントで止める、世界で初めて実用化されたエピジェネティック標的薬です。濾胞性リンパ腫や類上皮肉腫という難治性のがんに効果を示し、2020年に米国で承認されました。しかし2026年、投与を受けた患者さんで白血病などの血液系の二次原発悪性腫瘍が高い頻度で認められ、リスクがベネフィットを上回ると判断されて、開発元が販売するすべての市場・適応症から撤退しました。EZH2を止めるという発想自体は有望なまま残っており、次世代の薬の開発が続いています。
- ➤EZH2の役割 → 遺伝子の読まれ方を抑える酵素。がんでは「暴走スイッチ」にも「安全装置」にもなる二面性を持つ
- ➤タゼメトスタットの効果 → 濾胞性リンパ腫・類上皮肉腫に有効。臨床試験ではEZH2変異群でより高い奏効率が示された
- ➤2026年の撤退 → 血液系二次発がん(MDS・白血病)のリスクがベネフィットを上回り、全市場・全適応症から撤退
- ➤次世代の薬 → EZH1/2二重阻害薬バレメトスタットや、EZH2タンパク質そのものを壊す分解薬(タンパク質分解技術)へ発展
1. EZH2とは ─ 遺伝子の「読まれ方」を抑えるスイッチ
EZH2は、遺伝子の設計図そのものを変えずに、遺伝子が読まれるか読まれないかを切り替える「調節役の酵素」です。この仕組みを理解しておくと、なぜEZH2を止める薬ががんに効き、なぜ思わぬ副作用が生まれたのかが見通せます。
私たちのDNAは、ヒストンという糸巻きのようなタンパク質に巻きついて収納されています。この巻きつき方がゆるいと遺伝子は読まれやすく、きつく締まると読まれにくくなります。EZH2は、ヒストンH3という部品の27番目のアミノ酸(リジン)にメチル基という小さな目印を3つ付ける(H3K27me3)ことで、その周辺のDNAをきつく締め、遺伝子を「オフ」にする働きをします[1]。この目印を付ける化学反応をヒストンメチル化と呼びます。DNAの配列を変えずに遺伝子の働きを変えるこうした仕組み全体をエピジェネティクスといいます。
💡 用語解説:エピジェネティクスと「読み書き」
同じ設計図(DNA配列)を持っていても、どのページを開いてどのページを閉じておくかで、細胞のふるまいは大きく変わります。この「開閉」を担うのがエピジェネティクスです。EZH2は閉じる側の担当で、いったん付けたH3K27me3という目印を、複合体の別の部品が読み取ってさらに書き込みを促すという自己増幅のループを持っています。この「読んで、書く」仕組みが強く働きすぎると、本来オンであるべき安全装置の遺伝子まで閉じられてしまいます。
EZH2は7番染色体の長腕(7q36.1)にある遺伝子で、単独では働けません。SUZ12・EED・RbAp46/48といった仲間のタンパク質と組み合わさってポリコーム抑制複合体2(PRC2)という装置を組み立てて、はじめてメチル化酵素として機能します[2]。読者のみなさんにとって大切なのは、EZH2が「1個で動く単純な部品」ではなく「チームの中核」だという点です。この後で出てくる薬の効き方や耐性の話は、すべてこのチーム構造から理解できます。
なお、このEZH2に生まれつきの変化があると、体が大きく育つウィーバー症候群という先天性の疾患が起こることが知られています。同じ遺伝子が、がんの薬の標的にもなり、生まれつきの成長の病気の原因にもなる──EZH2はその両方の顔を持っています。ご自身やご家族がこのどちらの文脈でEZH2という名前に出会ったとしても、根っこにある「遺伝子の読まれ方を決める酵素」という理解は共通です。
2. なぜEZH2ががんの標的になるのか ─ 暴走スイッチと合成致死
EZH2ががんの標的として狙われるのには、大きく2つの理由があります。ひとつは、EZH2自身が変異して働きすぎる「暴走スイッチ」になる場合。もうひとつは、別の安全装置が壊れた結果、がん細胞がEZH2に生存を依存してしまう場合です。どちらも、EZH2を止めればがん細胞だけが困る、という状況を生みます。
濾胞性リンパ腫やびまん性大細胞型B細胞リンパ腫では、EZH2の触媒部位(SETドメインのY641やA677など)に機能獲得型変異が起こることがあります[3]。この変異が入るとメチル化のブレーキが効かなくなり、細胞増殖を抑える遺伝子や、B細胞が成熟して増殖をやめるための遺伝子まで恒久的に閉じられてしまいます。結果として、細胞は成熟せずに増え続けます。こうしたリンパ腫では、EZH2は明確ながん遺伝子(オンコジーン)として働いています。
🔍 関連記事:がん遺伝子(オンコジーン)とは/ドライバー遺伝子/ARID1A遺伝子
もうひとつの舞台が、類上皮肉腫やラブドイド腫瘍といった希少ながんです。これらのがんでは、EZH2とは反対に遺伝子を「開く」働きをするSWI/SNF複合体の部品(INI1/SMARCB1)が失われています。とくに類上皮肉腫では90%以上の腫瘍でINI1が消失しています[4]。開く役が壊れると閉じる役のEZH2が相対的に強くなりすぎ、がん細胞はEZH2に生存を「依存」するようになります。依存している相手を断てば、そのがん細胞だけが死ぬ──この関係を合成致死と呼び、正常細胞を傷つけにくい理想的な標的とされました。この考え方はSWI/SNF複合体の異常を狙う合成致死戦略とも共通します。
読者のみなさんにとって、ここは希望と注意が同居する場所です。「がん細胞だけが依存している弱点を突く」という発想は、患者さんの体への負担が少ない治療につながる可能性を示します。一方で、この後の第6章で見るように、正常な細胞のなかにもEZH2を大切に使っている場所があり、そこが薬の落とし穴になります。EZH2ががんで果たす役割は、細胞の種類によって正反対になりうる、という点を頭の片隅に置いておいてください。
3. タゼメトスタットの作用 ─ 酵素の「鍵穴」を横取りする
タゼメトスタットは、EZH2がメチル化に使う材料(SAM)の結合場所を先回りしてふさぐことで、酵素の働きを止めます。飲み薬として使え、EZH2に非常に特異的に効く点が、世界初の実用化につながりました。
EZH2がヒストンに目印を付けるとき、メチル基の材料としてS-アデノシルメチオニン(SAM)という分子を使います。タゼメトスタットは、その化学構造の中心にある「2-ピリドン骨格」を使って、EZH2のSETドメイン内にあるSAMの結合ポケットに競合的に入り込みます[5]。鍵穴を先に横取りされるため、本来の材料であるSAMが入れなくなり、メチル化が進まなくなる、というイメージです。これにより細胞内のH3K27me3という目印が濃度に応じて減り、閉じられていた安全装置の遺伝子が再び読まれるようになります[1]。この作用の仕方は、がんを直接毒で殺すのではなく、遺伝子の読まれ方を戻すというエピジェネティクス治療ならではのものです。
💡 用語解説:分子標的薬とは
従来の抗がん剤の多くは、増えるスピードの速い細胞を無差別に叩くため、正常な細胞にも影響が及びます。これに対し分子標的薬は、がん細胞が頼っている特定の分子だけを狙い撃ちします。タゼメトスタットはEZH2という酵素そのものを標的にした薬で、飲み薬として設計されています。狙いが絞られている分、特定の性質を持つがんによく効く一方、標的が正常組織でも使われている場合には思わぬ影響が出ることがあります。
タゼメトスタットは、飲んだあとすばやく吸収され、主に肝臓のCYP3Aという酵素で分解されて便として排泄されます[6]。ここで臨床上重要なのが、飲み合わせです。フルコナゾールのようにCYP3Aを強く抑える薬と一緒に使うと、タゼメトスタットの血中濃度が上がりすぎる恐れがあるため、併用を避けるか用量を調整する必要がありました[6]。こうした薬物相互作用の管理は、分子標的薬を安全に使ううえで欠かせない視点です。
4. どんな病気に効いたのか ─ 類上皮肉腫と濾胞性リンパ腫
タゼメトスタットは、治療の選択肢が乏しかった2つの難治性のがん──類上皮肉腫と濾胞性リンパ腫──で明確な効果を示し、迅速承認につながりました。とくにEZH2に変異があるリンパ腫では、7割近い患者さんに腫瘍の縮小がみられました。
類上皮肉腫は若い成人に多い希少な軟部肉腫で、転移した場合の予後が厳しいがんです。INI1が失われた切除できない類上皮肉腫の患者62名を対象にした第2相バスケット試験(コホート5)では、客観的奏効率(腫瘍が一定以上縮小した人の割合)は15%でした[7]。数字だけ見ると控えめですが、効いた場合には反応が長く続き、追跡期間中央値13.8か月の時点で奏効期間の中央値には達していませんでした。重い治療関連の副作用は貧血などに限られ、治療関連死はありませんでした[7]。この良好な忍容性と生存期間の延長傾向をもとに、FDAは2020年、16歳以上の類上皮肉腫に対する世界初の治療薬として迅速承認しました。
🔍 関連記事:バスケット型臨床試験/臨床試験のエンドポイント/コンパニオン診断(CDx)
もうひとつの適応が、2回以上の治療を受けた再発・難治性の濾胞性リンパ腫です。99名を対象にした第2相試験では、EZH2に活性化変異がある群(45名)で奏効率69%という劇的な効果が得られました[8]。一方、EZH2が正常な群(54名)でも奏効率は35%を示し、変異の有無にかかわらず効果が確認されました。奏効期間の中央値は変異あり群で10.9か月、正常群で13.0か月、無増悪生存期間はそれぞれ13.8か月と11.1か月で、重い治療関連の副作用は血小板減少などにとどまり、治療関連死はありませんでした[8]。
この試験は、いくつもの臓器のがんをまとめて1つの試験で調べるバスケット型臨床試験という設計で行われました。「臓器」ではなく「分子の特徴(INI1欠損やEZH2変異)」で患者さんを選ぶという、分子標的薬の時代らしいやり方です。EZH2変異の有無を調べる検査は、薬が効きやすい患者さんを見分けるコンパニオン診断の役割を果たしました。患者さんやご家族にとって、この点は「同じ病名でも、遺伝子の状態によって効きやすさが変わる」という現代のがん医療の考え方を象徴しています。
5. 2026年の市場撤退 ─ 二次発がんという致命的リスク
2026年、タゼメトスタットの投与を受けた患者さんで新たな血液のがん(二次発がん)が高い頻度で認められ、リスクがベネフィットを上回ると判断されて、全市場・全適応症から自主的に撤退しました。承認を確定させるための第3相試験が、初期の試験では見えなかった安全性シグナルを浮かび上がらせたのです。
迅速承認を本承認に切り替えるため、再発・難治性の濾胞性リンパ腫に対して標準治療(レナリドミド+リツキシマブ、R2療法)にタゼメトスタットを上乗せする第1b/3相試験「SYMPHONY-1」が行われていました。2026年3月時点の解析で、独立データモニタリング委員会が深刻な安全性シグナルを検出します。タゼメトスタット併用群では318名中18名(5.7%)に血液系の二次原発悪性腫瘍が発生し、対照群では0名だったのです[9]。発生した二次がんの多くは骨髄異形成症候群(MDS)や急性骨髄性白血病で、報告時点で18名中3名が亡くなり、14名では病気が解決していませんでした[9]。
💡 用語解説:二次原発悪性腫瘍(SPM)とは
もともとのがんを治療している最中、あるいはそのあとに、それとは別に新しく生じるがんを二次原発悪性腫瘍(SPM)と呼びます。今回問題になったのは、リンパ腫や肉腫を治療していた人に、MDSや白血病という別の血液のがんが新たに発生したことです。治療によって誘発された急性白血病やMDSは重篤で、元に戻りにくいことが、この撤退の決め手になりました。承認の時点でもこのリスクはわずかに認識されていましたが(およそ1.7%)、第3相試験でその3倍以上に上昇したことが判明したのです[9]。
事態を受け、開発元のIpsen社は2026年3月9日、すべての適応症について全世界の市場からタゼメトスタットを自主回収すると発表しました[9]。続いてFDAは2026年5月、医療従事者と患者に向けて緊急安全性アラートを発出し、服用中の全患者に直ちに投与を中止するよう勧告しました[10]。日本でも、販売元のエーザイ株式会社が新規投与の差し控えと既存患者の投与中止の検討を要請しています。この一連の対応は2026年に相次いで公表されたもので、その後状況が変わっている可能性もあるため、最新の情報は各当局や製薬企業の発表をご確認ください。
この撤退劇は、患者さんやご家族に大切な教訓を残しました。迅速承認は「早く届ける」ための仕組みであり、承認後の検証試験で結論が変わることがある、という点です。効果が高く見えた薬でも、長期の安全性データが揃うまでは評価が定まらないことがあります。今その薬で治療を受けている、あるいは受けていたという方は、不安を一人で抱えず、主治医と今後のフォローアップについて相談することが、いま確認できる最も確かな一歩になります。
6. なぜ白血病が起きたのか ─ EZH2の「二面性」という落とし穴
二次発がんが起きた分子メカニズムは、まだ完全には解明されていません。ただし有力な手がかりとして、EZH2が細胞の種類によって正反対の役割を持つ「二面性」が注目されています。リンパ腫では暴走スイッチだったEZH2が、血液をつくる幹細胞では逆に安全装置として働いている、という事実です。
第2章で見たように、リンパ腫ではEZH2はがん遺伝子として働きます。ところが骨髄異形成症候群(MDS)や一部の白血病では、状況が正反対です。これらの疾患ではEZH2の機能喪失型変異や欠失が高頻度に観察され、EZH2はむしろ腫瘍抑制遺伝子(安全装置)として働いていることが分かっています[11]。実際、公的データベースOMIMにも、MDSの患者で7q36.1のEZH2を含む領域の欠失が報告されていることが記載されています[12]。血液をつくる造血幹細胞にとって、EZH2は正常な血液づくりを保つために欠かせない存在なのです。
タゼメトスタットは全身に行きわたるため、標的であるがん細胞のEZH2だけでなく、正常な造血幹細胞のEZH2まで止めてしまいます。ここから、骨髄のエピジェネティックな恒常性が崩れて二次発がんにつながった、あるいはもともと潜んでいた前白血病細胞の増殖を後押しした、という機序が想定されています[11]。ただし、この経路が今回の二次発がんを直接引き起こしたと証明されたわけではなく、患者さんの多くが過去に何度も化学療法を受けていたことなど、他の要因の関与も否定できません。確実に言えるのは「タゼメトスタット群で二次発がんが有意に増えた」という臨床事実であり、その分子メカニズムはEZH2の二面性を軸に検討が進んでいる段階です。がんのドライバーを叩くはずの薬が、正常な幹細胞では欠かせない働き手も止めてしまう──この難しさが、EZH2を標的にする創薬の課題を映しています。
この話は、読者のみなさんに「標的が同じでも、体の場所によって意味が変わる」という重要な視点を教えてくれます。ある細胞では悪者でも、別の細胞では欠かせない働き手であることがある。だからこそ、これからのエピジェネティクス治療では、狙った組織だけに効かせる工夫や、リスクの高い人を見分ける患者層別化が、効果と同じくらい大切な課題になっています。
7. 薬が効かなくなる仕組み ─ 獲得耐性の4つの逃げ道
副作用とは別に、EZH2阻害薬には「最初は効いても比較的短期間で効かなくなる」という限界もありました。がん細胞がEZH2阻害を回避する逃げ道が、大きく4つ知られています。これを理解すると、次世代の薬がなぜ違う設計になっているのかが分かります。
第1の逃げ道は、EZH2そのものに新しい変異が入り、薬の結合を邪魔する形です。長くタゼメトスタットにさらされた細胞では、SETドメイン内にY726FやC663Yといった二次変異が現れ、酵素の働きは保ったまま薬だけが結合しにくくなることが示されています[13]。第2の逃げ道は、EZH2のそっくりさんであるEZH1による肩代わりです。EZH2が止められると、細胞はEZH1を使ったPRC2複合体でメチル化と遺伝子抑制を部分的に取り戻します[14]。この冗長性こそ、EZH2だけを狙う薬の最大の弱点でした。
第3の逃げ道は、別の生存経路の活性化です。EZH2阻害に耐性化したリンパ腫細胞では、IGF-1RやPI3K/Akt、MEK/ERKといった増殖シグナルが常にオンになり、抑制を迂回して生き延びます[2]。第4の逃げ道は、細胞周期の制御からの逸脱です。本来タゼメトスタットは細胞をG1期で止めますが、耐性細胞ではRB1/E2Fという細胞周期の軸に変化が生じ、EZH2が止められていても分裂を続けられるようになります[15]。これらの逃げ道は、単一の酵素活性を止めるだけでは、がんの適応力に追いつけないことを示していました。
8. 次世代の薬 ─ 二重阻害薬とタンパク質分解という新戦略
タゼメトスタットの撤退と耐性の壁を受けて、EZH2を狙う創薬は「酵素活性を止めるだけ」から、より多角的なアプローチへと進化しています。EZH1もまとめて止める薬や、EZH2タンパク質そのものを壊す薬が、すでに臨床や前臨床で成果を示し始めています。
最も進んでいるのが、EZH1による肩代わりを根本から封じるEZH1/2二重阻害薬「バレメトスタット(製品名エザルミア)」です。第一三共が創製した世界初のEZH1/2二重阻害薬で、EZH2だけでなくEZH1も同時に止めることで、PRC2複合体全体の働きを封じます[16]。日本では2022年に再発・難治性の成人T細胞白血病リンパ腫(ATL)で世界初承認を取得し、さらに2024年6月には第2相試験(VALENTINE-PTCL01、奏効率43.7%)の結果をもとに、再発・難治性の末梢性T細胞リンパ腫(PTCL)への適応拡大が承認されました[17]。ただしバレメトスタットでも血小板減少や貧血などの造血器毒性が報告されています[17]。EZH1/2を長期に阻害することによる安全性については、今後も長期的なデータの蓄積が重要です。
💡 用語解説:PROTAC(タンパク質分解誘導薬)とは
従来の阻害薬は、酵素の「鍵穴」をふさぐだけで、EZH2タンパク質自体は細胞内に残ります。ところがEZH2は、酵素として働くだけでなく、他のタンパク質と結合する「足場」としての機能も持っており、これが一部のがんの生存を支えています。PROTACは、EZH2に目印を付けて細胞の分解装置に運ばせ、タンパク質そのものを壊してしまう新しい技術です。足場機能ごと消せる点が、阻害薬との決定的な違いです。
この分解という発想を形にしたのが、世界初のEZH2選択的分解薬「MS1943」です。MS1943は、細胞のタンパク質分解システムを利用してEZH2タンパク質を選択的に枯渇させます[18]。細胞・動物実験の段階ではありますが、タゼメトスタットのような従来の阻害薬では増殖を抑えられなかったトリプルネガティブ乳がんの細胞に対して、細胞毒性を示すことが報告されています[18]。これらはあくまで前臨床の研究段階であり、ヒトの治療として確立したものではありませんが、酵素活性を止めるだけでは届かなかった領域に新しい道を開く可能性として注目されています。このほか、PRC2の別の部品であるEEDを狙うアロステリック阻害薬など、次世代のパイプラインは多様化しています。EZH2を標的とする研究は、タゼメトスタットの撤退で終わったわけではありません。
9. 遺伝子検査・遺伝カウンセリングとの関わり
EZH2という遺伝子は、がんの薬の標的としてだけでなく、遺伝子検査や遺伝カウンセリングの場面でも登場します。「がんの中で起きた変化」と「生まれつきの変化」を分けて考えることが、正しい理解の出発点になります。
リンパ腫でみられるEZH2の活性化変異は、がん細胞の中で後天的に生じた体細胞変異で、原則としてお子さんに遺伝するものではありません。これらは腫瘍組織を調べる検査で確認され、薬が効きやすいかどうかを見分けるコンパニオン診断として使われてきました。一方、EZH2に生まれつきの変化があると、ウィーバー症候群という体が大きく育つ先天性の疾患が起こります。こちらは全身の細胞に共有される生殖細胞系列変異で、遺伝カウンセリングの対象になりえます。詳しくはウィーバー症候群の解説ページとEZH2遺伝子のページをご覧ください。
当院では、こうした遺伝子に関する検査の前後で、臨床遺伝専門医が遺伝カウンセリングを行います。話し合うのは、検査で何が分かり何が分からないのか、その結果がご本人やご家族にとってどんな意味を持つのか、といった点です。検査を受けるかどうかを含め、決めるのはご本人であり、私たちは中立の立場で判断材料を整理する役割を担うと考えています。がんの薬の話と生まれつきの病気の話が同じ遺伝子名で交わるとき、この2つを混同しないよう丁寧に整理することが、不安を一つ減らす助けになります。
10. よくある誤解
EZH2阻害薬をめぐっては、報道や断片的な情報から誤解が生まれやすい部分があります。ここでは代表的なものを整理します。正確な理解は、ご自身やご家族が落ち着いて次の一歩を考えるための土台になります。
誤解①「撤退したのだから、効かない薬だった」
効果自体は確かにありました。とくにEZH2変異のある濾胞性リンパ腫では奏効率69%を示しています。撤退の理由は効果がないからではなく、長期使用での二次発がんリスクがベネフィットを上回ったからです。効果と安全性は別の軸で評価されます。
誤解②「EZH2はいつでも悪者」
細胞の種類によって役割が正反対になります。リンパ腫ではがん遺伝子として働きますが、血液をつくる幹細胞では安全装置(腫瘍抑制遺伝子)として働きます。この二面性は、二次発がんの背景を説明する有力な仮説として注目されています。
誤解③「EZH2を止める薬はもう終わった」
タゼメトスタット1剤の撤退であって、EZH2を狙う戦略そのものは続いています。EZH1/2二重阻害薬バレメトスタットは日本で承認されており、EZH2タンパク質そのものを壊す分解薬などのタンパク質分解技術を用いた次世代アプローチも研究が進んでいます。
誤解④「EZH2の変化はすべて遺伝する」
がんの中で起きるEZH2変異は後天的な体細胞変異で、原則としてお子さんには遺伝しません。遺伝しうるのは、ウィーバー症候群のような生まれつきの生殖細胞系列変異の場合です。この2つは分けて考える必要があります。
🧭 このページを読んだあなたへ
この記事にたどり着いた方には、いくつかの状況が考えられます。ご自身やご家族がタゼメトスタット(タズベリク)で治療を受けていた/受けている方、EZH2という遺伝子名を検査結果や説明の中で目にした方、あるいはエピジェネティクス治療そのものに関心のある方。それぞれ、次に確認するとよい観点が異なります。
◆ 治療との関わりで不安のある方は、まず主治医と今後のフォローアップについてご相談ください。そのうえで、薬の背景にある仕組みは分子標的治療やエピジェネティクス治療のページで整理できます。
◆ 遺伝子の状態を知りたい方は、EZH2遺伝子の解説と、生まれつきの変化によるウィーバー症候群のページを合わせてご覧ください。「がんの中の変化」と「生まれつきの変化」の違いは体細胞変異と生殖細胞系列変異のちがいで確認できます。
◆ 薬が効くかどうかを見分ける検査に関心がある方は、コンパニオン診断とバスケット型臨床試験の考え方が理解の助けになります。
よくある質問(FAQ)
🏥 遺伝子と疾患のご相談
EZH2をはじめとする遺伝子の変化や、遺伝性疾患に関する
遺伝子検査と遺伝カウンセリングは
臨床遺伝専門医が在籍するミネルバクリニックにご相談ください。
参考文献
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